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吾妻の眩暈

 
 夏の快晴の下、心は何処までも泥沼だった。その時、僕は二十一歳で、ちょうど三度目の人殺しを終えたところだった。人一人を海に放り込んで、引き潮に流されて行くのを眺めていたところまでは覚えている。しかし、その後の記憶は定かではない。気付いたら河川敷を彷徨っていた。
 
 じりじりと夏の日差しに皮膚を炙られて、とめどなく汗が流れてくる。しかし、滲み出てくる汗は脂汗ではなく冷汗だった。身体の表面は熱いのに、内側は恐ろしいぐらい冷え切っていた。身体を抱き締めるように、上腕を掌で擦る。
 
 
「寒い」
 
 
 呟く声は、か細く震えていた。その声に、ざっと全身の血の気が引いた。膝頭が震えて、咽喉が引き攣る。ガタガタだと思う。僕はガタガタになっている。このままでは駄目になる、と自分で解った。野球を辞めた三年前に、いつか限界が来て、自分はきっと壊れてしまうだろうとは思っていた。だが、いざ目の前に破滅が突き付けられると、恐れ戦いてしまう。混乱と恐慌が全身を支配して、全身が棒になったみたいに直立不動のまま動かなくなった。
 
 頭の中で、神様、と繰り返す。神様助けて下さい、まだ死にたくないんです、今死んだら僕は余りにも惨め過ぎる、僕の人生は何だったんだと後悔しか残らなくなってしまう、神様、神様、どうか助けて、死にたくない、まだ死にたくない。脳内で哀れな命乞いを繰り返して、冷えた掌で口元を押さえた。
 
 そうして、唐突に、啓示のように、泥だらけのボールが空から落ちて来た。ころころと転がって、つま先にぶつかったボールをぼんやりと眺める。暫くして、今の僕とは雲泥の差の、快活な声が下から響いて来た。
 
 
「兄ちゃん、投げて!」
 
 
 声変わりもまだな、高らかな幼な声だった。河原を見下ろせば、小学生らしき子供達が草野球をやっているのが見えた。赤い野球帽を被った男の子が、グローブをつけた手を大きく振っている。帽子の庇に隠れて、その顔は見えない。短い手足は健康的に焼けて、身体には転んだらしき擦り傷が幾つも出来ていた。絶望なんて欠片もない、希望に満ち溢れた身体だった。
 
 その姿を見て、心臓がどす黒い思いで一気に膨れ上がっていくのを感じた。憤怒を通り越して憎悪すら抱き始めている。きっと今手榴弾でも持っていたら、迷わず子供の中心に投げ込んでいただろう。八つ当たりと解りながら止められなかった。目の前の子供は、僕が欲しかったものを全て持っていると思った。野球に友達、きっと家族にだって恵まれてる。いつか訪れる未来にだって、希望しか抱いていない。それが堪らなく憎らしかった。嫉妬と羨望が憎悪と混ざり合って、もう制御不可能だった。
 
 そうして気付いたら、ボールを投げていた。子供に向かってではなく、川に向かって。野球帽の子供が「あっ!」と短く叫んで、慌てて川へと向かって駆け出す。自分の行動の卑小さに気付いて、自己嫌悪に泣き出しそうになった瞬間、子供の野球帽が風に吹き飛ばされて、そのグローブの中にボールがしっかりと収まっていた。
 
 キャッチ。 
 
 子供の片足は、川の中に突っ込まれている。飛び散った飛沫が子供の剥き出しの太腿にかかって、キラキラと煌いていた。子供は自分のグローブの中にボールがあるのを確かめた後、満面の笑顔で叫んだ。
 
 
「ありがとー!!」
 
 
 青空へと突き上げられた腕には、生命力が漲っていた。掌には確りとボールが握り締められている。
 
 不意に、頭の後ろでパチンと音が聞こえた。マジックをとく時のような音と同時に、急に視界が青く広がった。泥沼だった心に、光が差し込んで、目の前が鮮明になる。何故だか涙が出そうになった。掌で頬を触ると、涙は流れていなかったが、代りのように脂汗が滲んでいた。強張っていた筋肉が柔らかく解けて、体内に熱が生まれていた。
 
 
「ありがとう…」
 
 
 確かめるように呟く。瞬間的に、心臓が痺れるように痛んだけれども、心地良い痛みだった。もう一度子供を眺める。子供は落ちてしまった野球帽を拾い上げて、被っていた。その顔が再び影に覆われた瞬間、堪らない寂しさを感じた。顔をもっとよく見たい。声だって聞きたい。小麦色の手足にも触りたい。自分でも奇妙な程、子供に餓えていた。飢えているのに、もう片方では満たされているような不思議な飢餓感だった。
 
 そのまま夕方まで、ぼんやりと草野球を見ていた。風が通り抜けたように、胸は穏やかだった。子供達が蜘蛛の子を散らすように帰っていくのを眺めていると、野球帽の子供が横を通り過ぎようとして、立ち止まった。上目に此方を見上げる。
 
 
「兄ちゃん、野球すきなの?」
 
 
 僅かに舌たらずな口調で訊ねて来る。何時間も草野球を眺めていた男を、不審がりはせずとも不思議に思っているような眼差しだった。
 
 
「うん、好きだよ」
 
 
 声を引き攣らせながら答える。子供は数度大きな瞳を瞬かせた後、顔面一杯に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 
 
「オレもすき」
 
 
 心臓が止まりそうだった。実際、息は止まった。他意のない子供の「すき」という一言に乱されて、くらりと眩暈がした。そうして、頭の中でもう一度『神様』と繰り返していた。これは啓示ですか? 貴方からの贈り物ですか? これは何ですか。この感情は。この心臓の戦慄きは。この子供は、一体何なんですか。僕にとって、どういう意味を持つんですか? 問い掛けながら、返ってこない答えに焦れる。
 
 子供は頬についた擦り傷を掌でしきりに擦っている。擦り傷から薄っすらと滲み出ている血を見て、咄嗟にハンカチを差し出す。子供は一瞬躊躇した後、「ありがと」と言ってハンカチを頬に押し当てた。
 
 
「ハンカチ、今度ちゃんとかえす。毎週の日ようびにここで試合してるから、今度は仲間にいれたげる」
 
 
 邪気のない稚拙な言葉は、心地良かった。物を覚えたばかりの赤子のように、こくりと頷くと、子供は「ばいばい」と気安い口調で言って、そのまま横を通り過ぎていった。その背が消えるまで見詰め続けた。
 
 帰途も覚えていない。気付いたら、離れの部屋に居て、ぼんやりと天井を見上げていた。数日間、呆れるぐらい胸は満たされていて、幸福感に空すら飛べそうだった。それなのに、心臓の裏側には消えない飢餓感がこびり付いて消えなかった。
 
 子供の名前を調べて、その素性も家族も生活も洗いざらい知り尽くした。「けんいち」と名前を口ずさむ。気付けば、あの子のことを考えている。「ありがとう」と叫んだ高らかな声、振り上げられた腕、向けられた無邪気な笑顔。「けんいち、けんいち」何度も繰り返す。あの子の顔が頭から離れない。人を殺す瞬間ですら、あの子のことを考えている。
 
 子供を殺した。あの子ではなく、別の子供。あの子よりかは大きかったけれども、まだ小学生程度だった。子供やその家族が何をしたのかは知らない。少なくとも父の気に食わない事をしたことは確かで、しかしそれが死と釣り合う程のことだったかどうかは、僕には判断出来ない。
 
 傀儡のように人を殺して、父にとって都合の良い人殺しの道具になっていることは解っている。けど、父に逆らう術なんて知らなかった。人を殺して罪悪感にさい悩まされることもなかった。
 
 それなのに、子供を殺した瞬間、ちくりと胸に棘が刺さった。初めは些細な棘だったそれは、次第に痛みを増して、最後には耐え難い程の激痛に変わった。部屋の真ん中で膝を突いて、胸を掻き毟り、息を殺す。そうして、唇が勝手に「けんいち」と名前を紡いでいた。
 
 
 けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、けんいち、
 
 
 頭が可笑しくなるぐらい繰り返して、不意に目が覚めるように思った。僕はあの子が好きだ。健一が好きで好きで堪らない。狂おしいぐらい、愛している。思った瞬間、身体に震えが走った。全身がガタガタと震えて、あ゛、あ゛、と蛙のような呻き声が咽喉から零れた。
 
 歓喜と狂気が全身を満たして、何一つ言葉にならなかった。神様、神様、有難う。僕は人を愛した。僕は誰かを愛した。僕は全うな人間です。何故なら全うな人間は誰かを愛するものだから。だから、健一を愛した僕は全うな人間だ。
 
 頬に熱い感触が走った。眼球を裏側から押し上げる勢いで、涙が溢れ出している。嬉しい。嬉しい。健一、君を愛せて僕は嬉しい。君を抱き締めたい。キスしたい。セックスしたい。君に好かれたい。愛されたい。僕と同じ気持ちになって欲しい。それ以上に、君を誰にも渡したくない。僕だけのものにしたい。君が他の誰かのものになるのは許さない。絶対に許さない。髪の毛を掻き毟って、「許さない」と口に出す。「殺してやる」とも口に出す。だが、「殺してやる」と言った瞬間、言葉とは裏腹に身体から力が抜けた。全身は虚脱したまま、涙だけが遣る瀬無く溢れて来る。それから、譫言のように「殺せない」と囁く自分の声を聞いた。そうだ、殺せない。だって、愛しているから。愛しているから殺したいのに、愛しているから殺せない。何て矛盾だ。
 
 殺せない辛さを思って、涙が止まらなくなった。殺せないのなら、いっそ殺して欲しい。そうして、一緒に死んで欲しい。不意にそんな考えが浮かんで、その絶望的な考えに甘美な毒を感じた。そんな事をすれば、あの子の人生は滅茶苦茶だ!と諌める自分の声も聞こえた。御前はあの子に欠片も愛されることなく、憎まれて死ぬんだぞ、という諭す声も聞こえた。だが、甘美な毒に逆らえない。死ぬなら、健一に殺されたい。そうして、健一にも死んで欲しい。まるで心中だ。嗚呼、下らない! ――だけど、最高に幸福な。
 
 震えながら、健一の写真を胸元に掻き抱く。恐れながら願う自分の声が、部屋の隅に小さく響いた。
 
 
「早く大きくなって、僕を殺して」
 
 

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Published in catch1

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