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腹沢の独り言

 
 悲惨な身体だと思った。布団の上に横たわった小さな身体を見て、腹沢は唖然とした。幼い身体には、ありとあらゆる暴力の痕跡が明瞭に刻まれていた。身体は土だらけで頭部から肩に掛けて生臭い水で濡れそぼり、青紫色に変色し始めた痣が皮膚の至る所に浮かび上がっていた。その内太腿には明らかに精液と思える液体がこびり付いている。今まで内臓まで細切れにされたり、何処が頭かも判らないほど殴打され腫れ上がった“物体”、反吐が出るような死体は大量に見てきた。ちょっとやそっとの事じゃ驚かない自信は、つい先刻まで腹沢の中に確かにあったはずだ。
 
 だが、成長期すら訪れていない子供が息も絶え絶えに呻き苦しんでいる姿を観た瞬間、腹沢は唇も半開きのままに『何だこりゃ』と呟いていた。
 
 
「健一です。腹沢さん、こいつ生き返りますか?」
 
 
 平然とした声音で問いを漏らしたのは、少年の足元付近に正座した吾妻真澄だった。常時腹の底が見えない微笑を浮かべている吾妻の顔は、今は驚く程に表情を無くしていた。その紙のように白い顔色を見た瞬間、腹沢は嫌な時に来てしまったと心の中で舌打ちを漏らした。吾妻の無表情は“キレかけている証拠”だ。蒼白を通り越して真っ白になった顔色は無差別虐殺を起す前兆のようにも見える。
 
『止めてくれよー、俺が帰るまでキレないでくれよー』心の中でゆっくりと唱えるように祈る。
 
 布団の傍らに座り込んで、腹沢は健一の心臓の真上に掌を乗せて、僅かに力を込めた。途端、子供が小さく跳ねて、『ギャッ!』と虫のような悲鳴を上げた。意識を戻さないままに、苦悶するように子供の足がシーツを掻き毟る。眉間に深々と刻まれた皺が如何にも痛ましい。それを眺めて、腹沢は重々しく溜息を付いた。
 
 
「こんなの死んでも文句言えないよ。何でこんな事になってんのさ」
「すいません、蹴っちゃったんです」
 
 
 さらりと出された言葉に、腹沢は眉を寄せて再び溜息を付いた。
 
「蹴っただけじゃないっしょ?」
「後、池に沈めました。それから、やっちゃいました」
「やっちゃったって何を」
「セックスを」
「レイプじゃなくてセックス?」
「いえ、レイプですね。強姦です。後、中に出しました。昨夜なので、まだ中に残ってるかもしれません」
 
 
 次々と並べ立てられる事実に腹沢は頭を抱えたくなった。呆れ半分に吾妻を見遣りながら、横目で健一と呼ばれる少年へと視線を向ける。全く、随分と酷い事をされたもんだ。何もこんな子供に対して、ここまで非道な仕打ちをする事はないのに、と珍しく常人じみた感想を抱いた。それぐらい健一の姿は哀れみを誘った。色とりどりの痣を咲かせた子供の胸元に置いた掌は、確かに子供の心臓が脈打つのを感じ取っていたが、それも今にも淡く消え入りそうな鼓動だった。このまま死んでも可笑しくないと思えば、腹沢の心は暗澹とした。
 
 子供に同情している訳ではない。むしろ子供の死体が手に入り、その臓器を思う存分切り刻めるかもしれない事は腹沢にとっては願ってもない事だ。だが、この子供が死ねば、吾妻の顔色が更に真っ白になるのではないかという予感があった。真っ白を通り越して透明になるかもしれない。そうして起こるのは吾妻の静かなる狂気の爆発だろう。おそらくその狂気の一番最初に犠牲者になるのは自分であろう、と現実味のないままに腹沢はぼんやりと考えた。
 
 
「腹沢さん、健一は死にますか?」
 
 
 吾妻の平静に取り澄ました声が鼓膜を擽る。しかし、その声は同時に、全身を体内から凍らせるような底冷えするような響きを持っていた。一瞬“絶望”という言葉が腹沢の頭に思い浮かんで、皮膚がざわりと震えた。吾妻の顔を盗み見れば、吾妻の視線は少年の苦悶の表情へと一直線に向けられていた。心臓をそのまま少年に持っていかれたような吾妻の真っ直ぐな視線を観た瞬間、腹沢は不意に心底うんざりした心地に陥った。何となく吾妻がどういった感情を少年に抱いているのか解ってしまったからだ。そして、理解した事に燻るような苛立ちを覚えた。他人の事など欠片も解りたくもない。自分は内臓しか見たくないのに。
 
 
「さァ、どうだろうねぇ」
 
 
 苛立ちが混じった声音で、わざと放り出すように言えば、途端、眼鏡の奥で吾妻の双眸が細められた。
 
 
「健一が死んだら、腹沢さんを殺します」
 
 
 当然の事のように言う吾妻に腹沢は目を剥いた。咽喉から素っ頓狂な声が零れて、余りの理不尽さに一瞬言われた言葉の意味すら理解出来なかった。唇を緩くぱくぱくと開閉させて、それから腹沢は「そんなん横暴じゃんかぁ…」と力ない声をあげた。
 
 
「もし、こいつが死んだとしても、それって俺のせいじゃないじゃん。真澄ちゃんがこいつを死ぬような目に合わせたんでしょう? 俺と関係ないじゃんか」
「はい。だけど、健一が死んだら腹沢さんも死にます」
「理不尽だぁ…」
 
 
 唇が戦慄く。身体から一気に力が抜けて、腹沢は溜息をゆっくりと零した。全くもって、なんて嫌な時に来てしまったんだ。呼び出しを断って、家の地下室で思う存分臓器と語り合っている方がどれだけ幸せだっただろうか。腎臓ちゃんに肝臓ちゃん、脳味噌ちゃんと無言のコミュニケーションを取っている間の幸福感を思えば、腹沢は思わずホームシックに陥って遠い目になった。
 
 しかし、現実は自分の命を左右するかもしれない子供を助ける道しか残っていない。長い溜息をついて、腹沢は髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回して「あ゛~も゛~」と憤りのうなり声をあげた。
 
 
「あいあい、わかりましたよーだっ。俺が頑張れば良いんでしょー」
 
 
 唇を尖らせつつも、腹沢は健一の怪我の具合を調べ始めた。先程心臓辺りを触れた時、異常なほど痛みの反応を返した子供の事を思えば、もしかしたら肋骨の一本や二本は折れているのかもしれない。顔は赤く、息は荒い。発熱しているのかもしれないと思い、子供の額へと掌を当てれば、燃えるような熱が冷汗をかいた掌に浸透して来た。
 
 
「死なせたくないなら、もっと優しくすればイイのにさぁ」
 
 
 火傷しそうな程の熱を感じて、思わず腹沢の口から愚痴るように言葉が零れた。吾妻はきちんと正座したまま、ゆっくりと瞼を瞬かせた。
 
 
「本来ならそうするべきでしょうね。優しく、甘やかしてやるべきなんでしょうね。こんな風に死に掛けさせるのでなく、もっと優しく」
 
 
 心無しか吾妻の声は自嘲的だった。優しく出来ない自分を虚しく思っているような声音で、物悲しそうにも聞こえた。常時漂わせていた冷淡な雰囲気が消えて、そこに座っているのは打ちひしがれた一人の男だった。少し項垂れたように肩を落とす吾妻の姿が腹沢には不気味に思えた。
 
 
「ねぇ、真澄ちゃん、何でこんな子供相手に可笑しくなっちゃってんのさ。真澄ちゃんらしくないよ。俺、気味が悪いったら」
「仕方ないですよ。駄目になっちゃったんですから」
「駄目に?」
「僕は駄目になっちゃたんですよ」
 
 
 漠然とした言葉を落として、吾妻は唇の端を吊り上げて力ない笑みを小さく滲ませた。だけど、その唇から笑い声は零れず、『けんいち…』という声が呻く様に漏れた。縋るような呟きを聞いた瞬間、腹沢は下腹にギュッと力を入れて目を瞑った。何か聞いてはいけないものを聞いた気がした。そうして、吾妻を哀れに思った。腹沢は哀れという感情を、その時初めて自分の内側に感じ取った。そうして、二目と吾妻を見ないようにした。何となく吾妻が泣いている気がして、見れなかった。逸らした視界の端に吾妻の指先が映る。吾妻の指先は健一の足爪先の直ぐ傍のシーツを固く握り締めていた。殴打することは出来るのに、優しく触れることは躊躇うのか。嗚呼、何て――
 
 少年の細い腕に注射針を刺した時、少年の唇が譫言のように「ころしてやる…」と掠れた声で呟いた。腹沢は不意に、この少年が吾妻を好きになってくれれば良いと切実に思った。せめて、許してやって欲しい。この不器用で哀れな男をどうか受け容れてやって欲しい。そうじゃないと、俺が見ていられないんだ。涙が出てきそうで。
 
 

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Published in catch1

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