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真夜中の飛翔

 
 か細い咽喉が、ぐぅと鈍い音をあげて反りかえる。
 遠ざかって行く生にしがみ付くように、真昼の指が私の太股に喰い込む。
 スカート越しに埋まる指先に呻きながら、私はロープを握り締める手に力を込めた。
 
 
 真夜中の飛翔
 
 
 子供の頃は、あの人のことなんか眼中になかった。昔のあの人は、本当に哀れなぐらい情けない人だった。家中の誰からも嫌われ、蔑まれて、それが当然な人だった。伸ばされた前髪の隙間から周囲をビクビクと窺っていて、いつも誰かの機嫌を取るようにへらへらと笑顔を浮かべていた。部下と擦れ違う時に、道を譲るのはあの人。へこへこと俯き気味に挨拶するのもあの人。妹の私に会えば、「真夜ちゃんは、いつも綺麗な服を着てますね」なんて毎回同じおべっかを言う。頭の悪いあの人は、服しか誉めれないのだ。
 
 あの頃のあの人は、そこに居るだけで周囲の人間を苛々させた。組員の中でも一番下っ端がやるはずの便所掃除を、あの人がやっているのを見た時、正直私は「この人は駄目だ」と思った。このまま、吾妻家の一員になれずに、下働きのような惨めな地位で終っていくとばかり思っていた。
 
 それなのに、あの人は突然変わった。醜い芋虫が蝶になるような鮮烈な変貌だった。母親が出て行った次の日、あの人はにっこりと微笑んで、私に「おはよう」と言った。そうして、こう続けた。
 
 
「真夜ちゃんは、いつも可愛いね」
 
 
 あの人が服以外を誉めた。真っ直ぐに私を見て、私を可愛いと言った。その眼差しに、私はくらりとした。
 
 その日からの、あの人の変身は目を見張るものがあった。俯くことをやめたあの人は、綺麗だった。バッサリと切られた前髪の下には、知的な瞳があった。薄い唇は、卑屈ではない柔らかな笑みを称えていた。もう便所掃除なんか二度とやらない。真澄さんは、美しく生まれ変わった。
 
 私は、その美しさに惑わされた。後ろを付き纏って、少しでも真澄さんの視界に入ろうと努力した。真昼は「兄弟を好きになるなんて不毛よ」なんて言って、私を馬鹿にした。だけど、あんな暴力女に何が分かるっていうの。真澄さんの魅力は私だけが解っていればいい。真澄さん、真澄さん、あの人の名前を口に出すだけで心が浮き上がる。何年も、何年も、ずっと想い続けた。真澄さんを一番愛してるのは自分だと自負していたし、真澄さんが愛するのは絶対に私しかいないと確信していた。
 
 
 ――それなのに!
 
 
 真澄さんが選んだのは、馬鹿な子供だった。愛されることの重みもしらない愚かな子供。どうして、どうして、という言葉が頭の中でぐるぐると回る。どうして、真澄さんは私を選ばないの。私なら真澄さんのことを誰よりも愛してあげれるのに。毎朝キスで起こしてあげるわ。好きといってあげるわ。私が世界で一番真澄さんのことを愛しているのに! どうして!
 
 憎しみで押し潰されそうだった。身体の中でどろどろとした感情が渦巻くのが判る。私はあんな小さな子供に、嫉妬をしていた。その事実が余りにも惨めだった。私は、小学校も卒業していない子供に負けたのだ。何年も積み重ねた愛情を粉々に砕かれた。真澄さん、真澄さん、どうして、貴方は十年以上もの私の想いを無視することができるの。どうして、貴方を愛してくれない子供を盲目的に愛するの。バラバラに砕かれた私の愛情は一体何処に行くの。あんまりにも惨すぎる。
 
 あの夜も、独りで泣いていた。毎晩のように泣いて、よく涙が枯れないものね、と私は思っていた。
 
 
「真夜起きてる?」
 
 
 部屋の前に真澄さんがいた。障子越しに見える影に、私の胸は高鳴った。話したいことがあるんだ、と言って、真澄さんが部屋に入ってきた時、部屋に香を焚いていなかったことを思い出して、慌てて香に火をつけた。淡い花の香りが漂って、私はドキドキした。ベッドに二人で腰掛けて、まるで恋人同士みたいだと無闇に浮かれた。髪の毛を手櫛で溶かしながら、その甘さに浸っていた。
 
 だけど、真澄さんの口から語られた言葉は、私の心を凍り付かせた。
 
 
――あぁぁあ゛ぁ、真澄さん馬鹿にしないで!!
 
 
 私だって、それぐらいの事は分るのよ! 『真昼が僕を追い出そうとしてる』なんて、そんなの真っ赤な嘘だって、それぐらい分かるわ! 『もう二度と真夜に会わせないつもりだ』なんて馬鹿馬鹿しい。真昼は、そんな事しやしないわ! あんなクソ女大嫌いだけど、真澄さんよりかは、私の方がずっと真昼のことを分かってるのよ! 私たちは双子なのよ!
 
 
 『真昼を“どうにかしなくちゃいけない”』
 
 
 その一言で、全てが分かった。真澄さんは、私に真昼を殺させようとしている。顔から血の気が引いて、咽喉が引き攣った。真澄さんは、自分の言葉の陳腐さに気付いている。嘘を私に見破られているとも分かっている。そうして、嘘だと知りながら、私が真澄さんの言うとおりにするという事も、真澄さんは全部分かってる。分かって、私にこんな陳腐な嘘をつく。
 
 
 『僕は真夜が好きだ。兄妹なんて関係ないよ』
 
 
 こんなの酷過ぎる! そんな見え透いた嘘を、嘘だと分かりながらつく真澄さんが憎らしかった。その嘘を信じざるをえない自分自身も、憎らしかった。私を流し見る真澄さんの瞳の冷たさ、好きだなんてよく言えたものね!――でも、一番惨めなのは、そんな嘘の告白に喜んでいる私よ。
 
 触れた唇は、酷く冷たかった。それなのに、その感触に私の身体は狂喜した。重なる真澄さんの身体の重みを感じながら、心は冷めているのに、身体だけ熱かった。真澄さん、好きよ、好き、愛してるの。何度繰り返したって伝わない。口では私の事を愛しているという真澄さん。でも、目は私を見ない。きっと、心の中に、あの子供を見ている。何て酷い人。それなのに、その酷い人を私は堪らなく愛している。嘘を嘘だと気付きながら、私は真澄さんに愛されたいがために真昼を殺す。それが痛いくらい自分で分かっていた。
 
 私は、私を決して抱き締めようとしない真澄さんの胸に、頬を押し付けて一度だけ泣いた。真澄さんが私を愛していると言ってくれるのが嬉しかった。抱いてくれるのが嬉しかった。それが、真昼を殺す代償でも構わなかった。真澄さんに愛されたい。少しでもいいから。嘘でもいいから。真澄さんが少しでも喜んでくれるなら、私は双子の姉だって殺す。世界だって滅ぼしてやる。
 
 酷い男の腕の中で、私の心は翔んだ。
 
 双子の姉の力は、強かった。ギチギチ、とロープの軋む音がやけに大きく聞こえる。真昼の咽喉から、カ、カフッ、と掠れた呼吸音が響く。だけど、それは吐き出す音だけで吸い込む音は聞こえない。ロープを握り締める手に、力を込める。真昼の背中に密着した御腹がぎゅうっと凹む。
 
 暴れる真昼の両脚が怖い。床に散らばってるものを蹴り飛ばす度、音に気付いて、誰か来るんじゃないかとひやひやする。だけど、それ以上に真昼の両手が怖い。真昼の両手は、自分の首に喰い込むロープを掻き毟らない。自分の首を絞める私の両手を掻き毟らない。真昼の両手は、私のスカートを後ろ手にキツク掴んだまま離さない。どうして、と私は思う。このままじゃ――自殺に、思われちゃうじゃない。
 
 真昼が首を掻き毟れば、他殺だと思われるかもしれない。真昼が私の腕を掻き毟れば、私が真昼を殺した犯人だって分かる。それなのに、真昼はそれをしない。私のスカートをぐしゃぐしゃに握り込んで、時々ビクビクと痙攣する。どうして、私の腕を掻き毟らないの。私が犯人だって示してやればいいじゃない。双子の妹が姉を殺したって、バラしてしまえばいいじゃない。あんたは私のことが大嫌いだったじゃない。気持ち悪いって言ってたじゃない。それなのに、どうして、
 
 真昼の身体から、ふっと力が抜ける。糸の切れたカラクリ人形のように、ずるずると床の上にへたり込む。光の失せた瞳から、涙が零れていた。それを見た瞬間、私の身体に風穴が空いた。お腹の辺りに違和感があった。すかすか、と空腹感にも似た感覚に支配された。
 
 でも、じわり、と真昼のスカートから滲み出てきた尿を見て、私はそれどころじゃないと気付く。早く吊るしてしまわないと、真昼が自殺したと思われなくなってしまう。真昼の身体を空中に吊るしながら、私は息苦しさに呻いた。嗚呼、苦しい。苦しいわ。どうして、こんなに苦しいか分からない。床に額をついて、喘ぐように呼吸を繰り返す。
 
 真昼が死んだ。真昼を殺してしまった。真澄さんのために、愛しい人のために、姉を、同じ腹から、同じ瞬間に、一緒に産まれてきた私の双子の姉を、たった一人の、私の、
 
 
 ―――姉さん!
 
 
 気付いたら、暗闇を駆けていた。髪を振り乱して、街頭もない夜道を翔ぶように駆ける。唇から甲高い嗤い声が迸って、闇へと吸い込まれていく。別に可笑しいわけでも楽しいわけでもないのに、嗤いが止まらない。足がステップでも踏むように、軽やかに跳ねる。
 
 躓いて、顔面からゴミ捨て場に突っ込む。カラスが散らばらせた生ゴミが周囲を汚して、生臭い臭いが鼻に付く。とんでもなく汚らしい。耐え切れない。それなのに、私は嗤っていた。四肢をばたつかせて、ゴミの中で子供のようにはしゃぐ。
 
 
 真澄さん、真澄さん、私はやったわ。ちゃんと真昼を殺した。これで私を愛してくれるでしょう? 私を見てくれるでしょう?
 
 
 つまらない言葉を頭の中で繰り返す。御腹を抱えて嗤い転げて、じたばたと足を振り回す。
 
 嗚呼、真昼、私のために死んでくれて有難う。私に殺されてくれて有難う。あんたのことなんか大嫌いだったけど、それでも感謝するわ。だって、あんたのおかげで私は真澄さんに愛されるんだもの。あんたが死んだおかげ、殺されてくれたおかげで、
 
 唐突に、咽喉からヒィーという掠れた悲鳴が溢れた。
 
 
「まひるぅーーー!!」
 
 
 自分のものとは思えない金切り声が夜を引き裂く。夜と一緒に、私も引き裂かれる。違う、違うわ、引き裂かれたんじゃない。私達は一つになったのよ。産まれる前に引き裂かれたものが、ようやく一つになれたのよ。真昼と私は一つになったのよ。
 
 狂信的な思いが胸の内側で膨れ上がっていく。御腹を抱えて、そっと撫でる。その中に真昼がいるような気がした。大嫌いよ、大嫌いなのよ、あんたなんか。でも、私は、あんたがいないとたくさんの事が耐えられない。
 
 ゴミの中でそっと蹲る。
 
 真澄さん、真澄さん、あの人の名前を口に出すだけで心が浮き上がる。私の心は翔ぶの。あの人に触れられると空まで翔ぶの。だけど、翔びながら、同時に堕ちていく。
 
 双子の姉を道連れにして、私は果てもない場所に、いつか辿り着く。その時、私は翔んでいるのかしら。それとも、堕ちているのかしら。そんなこと、分かりもしないけど。
 
 

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Published in catch1

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