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弥生の懺悔

 
 障子の奥から聞こえてくる子供の悲鳴に息を呑む。小刻みに震える膝頭を見詰めながら、弥生は額に冷汗を浮かべていた。
 
 
「いたあ゛ぁぁ!! 痛いぃ!! いだい゛ぃい!!」
 
 
 耳を劈く絶叫に、障子の前で正座した弥生は、今直ぐこの場から逃げ出したい心地に陥った。耳を塞ぎたい。自分の罪から目を背けたい。障子一枚隔てた場所で、子供が引き裂かれている。受け容れる部分ではない場所に男の性器を突き入れられて、内臓をぐちゃぐちゃに掻き回されている。それは紛れもなく弥生の罪だった。自分が今犯されている子供を攫って来たのだ。吾妻の命令に従って。
 
 そうだ、自分は命令に従っただけだ。そうやって自分を慰めていたのは、子供が悲鳴を上げるまでだ。黒焦げの死体を写した写真を、子供の目の前に出した時のあの子供の表情。困惑と悲哀と虚無をごちゃ混ぜにしたような絶望の顔。あの顔を見た瞬間、弥生は初めて自分は一体何をしたんだろうかと思った。何てことをしてしまったんだろうか。家族を失い、狂乱する子供の足を押さえながら、弥生の手は後悔と懺悔に震えた。
 
 しかし、その暴れる足を離して、子供を逃がす気にはなれなかった。そんな事をすれば、吾妻が怒り狂うのは分かりきったことだった。吾妻は腸を煮えくり返させながら、顔色を真っ白にして、にっこりと微笑むのだ。そうして、始まるのは何ヶ月も続く言葉の暴力だ。吾妻は弥生の触れられたくない部分を巧みに抉って来る。まるでパックリと開いた傷口を爪で抉るように。しかし、それは同時に吾妻の触れたくないことであり、吾妻の傷口でもあるのだ。それが、痛々しい。自分も血を流しながら、他人にも血を流させようとする吾妻の不器用さと歪さが堪らない。だから、弥生は吾妻には決して逆らうことが出来ない。だが――
 
 
「やだあ゛あ゛!! やめ゛て、やめて、おねがい゛、おねがい、やめて……!!」
 
 
 思考が寸断される。障子の内側から肉と粘膜が擦れる音が響いて来る。弥生は頭を抱えたくなった。
 
 ――だが、自分と吾妻が傷付かない代りに、声変わりもしていない子供が傷付いている。今だ両親の庇護にいるべき子供が、身体を引き裂かれ、魂を磨り潰している。その事実に、弥生は戦慄く程の罪悪感を感じた。
 
 
「しかし、仕方なかったんです」
 
 
 唇から勝手に言葉が零れていた。言い訳が後から後から湧き出てくる。命令だから仕方なかった。逆らえないから仕方なかった。だが、ユニフォームを泥だらけにして幸福な顔で友達と笑い合う少年を攫って、地獄の底まで叩き落して、果たしてそれを仕方ないと言えるのだろうか。
 
 ――違う。自分は悪くない。悪いのは、年端もいかない子供を愛してしまった吾妻だ。これは吾妻の罪だ。目を据わらせた吾妻が自分に命令した時のことを思い出す。その瞳の隠微な輝きを。
 
 
「弥生は子供に好かれる性質?」
 
 
 初めは問い掛けられた言葉の意味がわからなかった。意味が解っても、それを聞く理由が解らなかった。眼前の男に子供の好き嫌いが関係するとはとても思えなかったからだ。吾妻と子供、何て似合わない組み合わせだ。
 
 首を傾げながら「わかりません」と答えると、吾妻は曖昧な笑みを浮かべて言った。
 
 
「僕もだ。だが、きっと好かれる人間ではないだろうね」
 
 
 諦念じみた嘲笑を口の端に浮かべて、吾妻は緩く肩を震わせて嗤った。伏せられた眼差しが、微かに悲しそうにも見えた。それから、吾妻は言ったのだ。
 
 
「好きな子がいる」
 
 
 淡く、空気に溶け入るような声だった。弥生は息を呑んで、吾妻を凝視した。信じられなかった。吾妻の愛した人が子供だったからではない。吾妻が人を愛したという事実が信じられなかった。弥生の目から見て、吾妻ほど愛という言葉が似合わない人間はいなかった。
 
 
「子供、ですか?」
「十二歳、小学六年生」
 
 
 吾妻の澱みない言葉に、弥生の咽喉は引き攣った。十二、という言葉が頭の中でぐるぐると回った。十二歳、小学六年生、自分や吾妻より十五歳年下の子供。自分が十二歳だった頃を思い出そうとしたが、上手く思い出せなかった。思い出せないぐらい、その頃の自分は幼かったということだろう。そんな幼い子供を吾妻が愛したというのは、驚愕を通り越して奇怪だった。現実味がない。
 
 
「それは…」
「犯罪かな」
 
 
 言葉を遮るように、吾妻が独りごちる。その視線は何処ともつかない遠くを見詰めていた。
 
 
「犯罪ですが…」
「駄目かな。好きになったら」
 
 
 子供っぽい口調で吾妻が呟く。弥生は呆然と吾妻を眺めて、どんな言葉を掛ければ良いのか考えあぐねた。子供を好きになった男にかける言葉など欠片も思い付かなかった。仕方なく、言いよどむ様に漏らした。
 
 
「思うだけなら、罪ではありません」
 
 
 吾妻は鼻で小さく笑って「模範回答だな」と呟いた。それから、挑むように弥生へと視線を向けて、ゆっくりと言い始めた。
 
「そうだろうね。でも、もう思うだけじゃ我慢出来なくなったんだ。話したい。目を合わせたい。触りたい。僕はあの小さい子を犯したいとさえ思っているんだ。内蔵に精液を吐き散かして、汚して、僕の臭いを身体中に滲み付けてやりたい。なぁ、弥生、僕は耐えられないんだ。もう耐えられない」
 
 
 まるで弥生を試すような喋り方だった。しかし、それが弥生に後押しして貰いたいのか、それとも弥生に食い止めて欲しいからの言葉なのかは分からなかった。
 
 
「どう、なさるのですか」
「ここに連れて来るんだ」
「私が、ですか…?」
「嫌か?」
 
 
 問い掛けながら、嫌とは言わせない空気を吾妻は出していた。片頬を歪めながら、吾妻が弥生を試すような眼差しで見詰める。「逆らうのか?」とその瞳は暗に問い掛けていた。弥生は咽喉を引き攣らせながら、粘つく唾液を飲み込んだ。
 
 
「どうやって、ですか?」
「どうやってでも」
 
 
 吾妻の声は底冷えして、肌が悪寒に震えるようだった。仄暗く濁った眼差しを弥生へと向けながら、吾妻は再び曖昧に笑った。
 
 
「罪、かな」
「……そうかもしれません」
「かも、じゃなくて、そうだよ。これは紛れもない犯罪だよ。子供を攫って、僕はあの子を犯すだろう。時には暴力を奮うかもしれない。あの子は狂ってしまうかもしれない」
「それなら…」
「そこまで解っていながら、僕はそれを堪えられない。僕はあの子にどんな事でもする。あの子を僕のものにするためなら、どんな畜生な事でも躊躇らわない」
 
 
 吾妻は何処までも簡潔だった。簡潔過ぎて寒々しい程だった。弥生は緩く指先を握り込んで、吾妻を上目に見詰めた。
 
 
「それは…余りにも非道です。子供にとっても、真澄様にとっても」
「僕にとっては非道ではないよ。僕はちゃんと自分で選んだ。選択肢は幾らでもある。その中の一つを僕は自分の意思で選び出した。自分の人生を自分で決めるのは当り前だ。選択の結果が非道であろうと幸福であろうと、自分の責任だ。それは自分で負うしかない。――ただ…僕の人生に巻き込まれるあの子は、可哀想だ…」
 
 
 可哀想という言葉は空々しくもあったし、また死人に掛けるような空虚な言葉にも聞こえた。吾妻は眉をハの字に曲げて、小さく肩を揺らして笑っていた。悲しい時も、笑うことしかできないような顔だった。それから、吾妻は一度唇を噤んで、思い浮かべるように視線を宙に浮かせた。
 
 
「健一って言うんだ。野球部のエースで、試合に負けると悔しそうに下唇噛んで、それでも泣かなくて、母親と父親と姉と四人で暮らしていて、一週間に一度は家族で外食をして、ポテトチップスはコンソメ味が好きで、毎週少年向けの週刊誌を買って友達と回し読みして、――僕はあの子のことが好きで堪らない」
 
 
 吾妻の要領を得ない言葉は偏執的でもあった。しかし、不思議と嫌悪感は沸いてこなかった。おそらく、吾妻の喋り方が不自然な程に幼かったからだろう。吾妻は矛盾している、と弥生は思った。冷淡に人を虐げたかと思えば、唐突に子供のように寄り掛かって来る。まるで、自分を甘やかしてくれる人を探しているようだ。
 
 それから、吾妻は「あの子は僕のことを好きになってくれるかな」と力なく呟いた。掠れた声は、既にそれを諦めているようでもあった。
 
 
「わかりません…」
「僕もだ」
 
 
 朗らかに呟いて、吾妻は微笑んだ。その微笑に、弥生は眩暈を覚えた。“傷ましい”という言葉が思い浮かんで、霧のように消えた。その言葉が、これから人生を滅茶苦茶にされる子供に向けたものなのか、それとも罪を罪と知りながら犯さずにはいられない男に向けたものなのかは判らない。ただ、ひたすら傷ましい。
 
 
「少しでも、あの子に優しくできたらいいんだけど」
 
 
 吾妻の寂しそうな声がリピートされて、次の瞬間子供の泣き声に変わる。罪悪が降り注ぐ現実に戻る。
 
 
「たずけ、た゛すけて、たすけてぇ……お…と、さんっ、…おか、…ぁさん…」
 
 
 両親に救いを乞う、いたいけな子供の声が障子越しに届く。その声を聞きながら、弥生は「ゆるしてください」と呟いた。口内で押し殺すように、抑揚を欠いた声で何度も繰り返す。誰に許して欲しいのか、誰を許して欲しいのか、それすらも判らない漠然とした祈りだった。
 
 その言葉は余りに空虚で、子供の啜り泣きに飲み込まれるようにして消えた。弥生は自分自身を嘲るように嗤って、冷えた床に額を押し付けて頭を抱えた。子供の泣き声を聞きながら、弥生は許しは何処にあるのかと思った。
 
 そのまま夜が明けるのを待ち続けた。
 
 

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