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弥生の友達 (1)

 
 鶏の足のようにガリガリに痩せ細った手を、きつく握り締める。とうに涙は涸れ果てて、心は水分を失ったスポンジのように干乾びていた。白い部屋に横たわり、咽喉に突き立てられた呼吸器で頼りなく胸を上下させる男を見詰める。
 
 私が辿り着いた時には、すでに父の意識はなかった。父の命は、後三日ももたないだろう、と医者は無感動な声で私に告げた。用意していた数々の謝罪の言葉は欠片も吐き出されることなく、全て私の腹の内に呑み込まれた。それを悲しむ間もなく、父と同じように私の命も直ぐに消えてなくなる。裏切り者に待っているのは死でしかない。
 
 一体何が悪かったのだろうか、何が間違っていたのだろうか、と今更無駄な自問自答を繰り返す気もない。ただ虚しい後悔ばかりが下腹から込み上げて来て止まらない。『野垂れ死ぬ』ことを覚悟しながら、ただ一つだけ私には悔やんでも悔やみ切れない事がある。それは『彼』のことについてだ。誰も信じてくれないかもしれないけれど、私と彼は友人だったのだ。
 
 
 弥生の友達
 
 
 雪の季節、私はその月十七歳になった。
 
 連れられて来た屋敷は、目を見張るほどの大きさだった。分厚い男の手に引かれて、私は初めて吾妻家に足を踏み入れた。男が歩けば、大勢の人間が傅く。扉は、自動的に開かれ、男が一言言えば、一言以上のものが目の前に用意される。その男に連れられて歩く私にも、同様の敬意が与えられる。
 
 数日前出会った男が名のある組長だという事は、事実として知っているつもりだった。それを知った上で、私は男の愛人になることを決めたつもりだった。しかし、実際それを目の当たりにすると、畏れにも似た感情がざわりと私の身体の底を凍えさせた。『ヤクザの愛人』という言葉の意味がその時初めて私の肩にずっしりと重みを持って圧し掛かってきたのだ。その言葉を、その立場を軽んじていたわけではない。しかし、必要以上に重く考えなかったのも事実だ。何だか私は自分がとんでもないことをしてしまったように思えて仕方なかった。あれだけ悩んで決めた事だったのに、それでも往生際悪く怖気付く事を止められなかった。
 
 暖房のよく利いた応接室で暫く待つように言われた時も、私はひたすら凍えていた。ソファに尻を落ち着かせておく事が出来ず、うろうろと部屋の中をうろつき、障子の隙間から私の唯一の拠り所である男が帰ってくるのをじっと窺っていた。薄い障子越しに、天からはらはらと雪が降り落ちていく影が淡く見えた。
 
 その時だ。縁側の下から、ずるりと人の腕が這い出してきた。泥まみれになった手が土を掻き毟り、ぼさぼさに乱れた頭が次に出てきた。私は、咄嗟に悲鳴を呑み込んだ。縁の下から出てきたのは、ひとりの少年だった。少年といっても、私と同じぐらいの年頃には見えた。長く伸びた前髪のせいで、顔立ちは明瞭に窺うことは出来ない。しかし、そんな事よりも、異様なのはその少年の姿だ。爪先から頭頂部まで乾いた土と湿った土でコーティングされていて、ジーンズは履いているものの上半身は裸だった。今は冬だというのに。
 
 泥まみれになった全身を両手ではたいて、少年は両肩を抱き締めてぶるりと大きく震えた。泥が剥げた底から、真っ白に色を失くした皮膚が見えた。青褪めた唇から、白い息が細く吐き出される。真っ赤に染まった裸足の爪先が寒さから逃れるように、ぎゅっと丸められていた。それでも、少年はそこから動こうとしないのだ。雪の下、自らを抱き締めたまま、行き場のない子供のようにぼんやりと立ち尽くしている。雪と一緒にそっと溶けてしまいそうな程、その少年は儚げに見えた。その時、思わず声をかけてしまったのは、そういう理由からだったのかもしれない。
 
 
「…寒く、ないですか?」
 
 
 躊躇いがちな声は、少年を酷く驚かせたようだった。肩をビクリと跳ねさせた少年は、肉食獣でも見るかのような怯えた眼差しで私を見た。数メートルの距離があっても、少年の歯の根が震えているのが見て取れる。少年の顔面に滲んでいるのは純然たる恐怖だ。
 
 
「だ、だだ、だれです?」
 
 
 少年が雪の上をじりじりと後ずさりながら、震えた声を発する。
 
 
「あ、あの、私、弥生と言います。弥生弓彦です」
「や、弥生? 誰?」
 
 
 慌てて名を名乗ったが、名前をあげたところで少年にとっては見知らぬものでしかないだろう。障子を開き、染み入る様に冷たい廊下へと踏み出しながら、どう説明するものかと私は悩んだ。
 
 
「私、ええと、私は、真之介さんの…」
「お父さんの?」
 
 
 少年が目を見張る。それと同時に、私も目を見開いた。真之介さんを父さんと呼ぶという事は、この少年は組長の息子ということになる。どうして組長の息子がこんな格好をしている。どうして縁の下から這い出てくる。謎だらけな現実に、私はじっと少年を見詰めた。少年は、何処かそわそわとした様子で、私から目を逸らしている。乾いて身体に貼り付いていた泥が雪に触れることで溶けて、少年の皮膚から茶色い液体がたらたらと滴っていた。
 
 
「どうして、泥だらけなんですか?」
 
 
 思わず問い掛けると、少年はまた身体が大きく震わせた。逡巡するように俯いて、腹の前で指先を組み合わせて押し黙る。数十秒後、少年が消え入りそうな声で何か呟くのが聞こえた。
 
 
「…き、昨日、雨が降ったじゃないですか」
 
 
 そういえば、と思い出す。昨日は、朝から酷い豪雨だった。だが、それがどうして少年が泥だらけの理由になるのか分らず、私は首を傾げた。
 
 
「確かに降りましたけど…だからって、どうして泥まみれに…」
「あ、雨には降られなくても、雨水が流れてくるんです。…縁の下は」
 
 
 視線を合わせないまま、少年がぼそぼそと言葉を続ける。その言葉に、私は再び目を見開いた。何故豪雨の日に、縁の下なんかにいたりする。その理由が全くもって理解出来ない。狂人のやることとしか思えない。もしかしたら、この少年は頭が可笑しいのだろうか、という気持ちを込めて、訝しげに少年を見据える。少年は何かに怯えるように、きょろきょろと辺りを挙動不審に見渡している。
 
 
「何故縁の下なんかに――」
「ゴミ虫ぃぃぃいい!!」
 
 
 そこまで呟いたところで、唐突に轟音にも似た怒声が響いた。恐怖に見開かれた少年の瞳が怒声の方向へと向く前に、その細い身体が地面に叩き付けられていた。ぐちゃりと音を立てて、ぬめった地面に少年の頭部が埋まるのを私は見た。
 
 
「手前ぇぇ、誰が出てきていいって言ったあぁ!! 俺が良いって言うまで、目に付かない場所にいろって言ったのがわかんねぇのかァ!!」
 
 
 私を囲った男が喚きながら、少年の薄い腹をガツガツと踏み付ける。少年は死にかけた虫のように地面の上で足掻いていた。少年の咽喉の奥から、引き攣れた悲鳴が零れている。
 
 
「ひ、あ…ご、めんなさい、ごめんなさい、さ、さむくて、さむくて、あぁぁ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、お父さんごめんなさいい!!」
 
 
 泥塗れな顔をぐちゃぐちゃに歪めて、少年が謝罪の言葉を繰り返す。すると、男は更にいきり立ち、少年の顎を爪先で蹴り飛ばした。顎骨からゴギッという鈍い音が響き、少年の頭がガクンと跳ねる。
 
 
「誰がお父さんだなんて呼んでいいと言ったア゛ぁ! 薄汚ぇ野良犬の息子が俺の息子なわけがねぇだろうがアァ!!」
「ご、ごめ、な…ざ、ぁ…」
 
 
 蹴られたせいで顎が上手く動かないのか、不明瞭な声で、それでも少年は謝り続けていた。震える指先が空を掴むように藻掻く。しかし、その指先は何も掴まず、地面へとぽとりと力なく落ちた。少年の咽喉からひゅーひゅーと肺に穴でもあいたかのような音が漏れている。その音を聞きながら、私はただただ震え続けていた。今まで私の前では、決して荒ぶることのなかった男が怒り狂い、爆発的と言っていいほどの暴力を奮っている。しかも、自分のことを「お父さん」と呼ぶ少年に対して、決して何の慈しみも労わりもなく、ひたすら無情に、残酷に、容赦なく。
 
 私は、堪らなく恐ろしかった。私もいずれこのように男に暴力を奮われるようになるのだろうかと考えた。その想像は、今すぐにでも逃げ出してしまいたい程の恐怖を私に与えた。しかし、振り返り、震える私を見た男の顔は、おぞましい程に優しかった。微笑む男は、もう一度少年の頭をぐりぐりと踏み付けてから、私に近付き、私の髪をそっと撫でた。
 
 
「すまんなぁ、弥生。汚いものを見て気分が悪くなっただろう。御前の目に、汚いものは似合わない。目が曇ってしまう。ほら、目を閉じなさい」
 
 
 先ほどまでがなり上げていたとは思えない程、穏やかな声音だった。私は全身を粟立てながら、その声を聞き、そうして目を瞑った。一瞬だけでも良いから、目の前の現実から私は逃れたかった。そうして、目を閉じた瞬間、少年の悲鳴が鼓膜に突き刺さった。
 
 
「い゛、ぎぁ、あ゛、ぁぁ…!!」
 
 
 目蓋の向こう側で、少年がどんな目に合っているのかは分らなかった。しかし、雪が降り積もる音に混じって、骨が軋む音が生々しく私の耳に届いた。肉が打ちのめされる音が鼓膜に貼り付き、内臓が叩き潰される音が腹に響き、少年の心が打ち砕かれる音が私の心臓を貫いた。少年の悲痛な叫びは、冬の空の下、甲高く響き続けていた。
 
 それが私と彼、吾妻真澄との出会いだ。
 
 

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