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弥生の友達 (2)

 
 彼と再び会ったのは、その四日後だ。
 
 彼は、ギプスで固定された右腕を包帯で吊るしていた。顔面には無残な紫色の痣がいくつも浮かび上がっている。彼は松葉杖に慣れない様子で、廊下を覚束無く歩いており、私の顔を見た瞬間に固まった。私も彼と同様、石のように固まった。
 
 お互い暫く言葉が出てこなかった。特に、私には彼を見捨てたという罪悪感があった。無言のまま一分以上見詰め合う。そうして、その硬直状態を破ったのは彼の方だった。彼は、突然へらっと笑ったのだ。しかし、頬肉がピクピクと神経質に引き攣っていて、無様という言葉が似合うような笑顔だった。私は、咄嗟に追従の笑みだと思った。彼は、私に媚び諂っていた。犬のように平伏し、私のご機嫌を窺っていた。それは、酷く醜く愚かな行為だった。私は、その醜さに戦慄いた。
 
 
「こ、こんにちは、や、弥生さん?」
 
 
 へらへらと強張った笑みを浮かべたまま、彼は私を“さん”付けで呼んだ。私は、自分の唇が力なく歪むのを感じた。間違いなく失笑の形に。組長の息子が組長の愛人を“さん”付けで呼ぶという違和感、平伏しているのが何とも滑稽かつ哀れに思えた。
 
 
「どっ、何処に行かれるんですか? お、とうさんの、所ですか?」
 
 
 たどたどしく喋る姿は、まるで発育不全の子供のように見えた。そうして、喋りながらも、彼の目は私を見ようとはしない。視線を合わせることを恐れているかのように、自分の足元ばかりをじっと見詰めている。
 
 
「いいえ、本日は真之介様はお出かけのようですから…私は、食事に行きます」
 
 
 彼につられて、私の言葉まで固くなる。まるで小学生の作文のような返答を返してしまった。私はその忌々しさに顔を歪めた。彼は私の苦い顔に気付いていないのか、裸足の指先をもぞもぞと動かしながら、そうですか、と小さく相槌を返した。
 
 
「今日の、りょ、料理は、飛騨牛とキノコの赤ワインソース、ローズマリー添え、で、です。美味しそうですね。い、いいですね」
「貴方も食べればいいじゃないですか」
「ぼっ、ぼくは、駄目です。や、弥生さんと同じものなんて、た、食べちゃ駄目です」
 
 
 恐れ多いとでも言いたげに、彼はぎこちなく数歩後ずさりながら大きくかぶりを振った。
 
 
「何故ですか。貴方は真之介様の息子でしょう?」
「…そ、…そうです。僕はおとうさんの、むすこ、です」
「それなら、どうして私と同じものを食べちゃ駄目なんですか」
 
 
 問い掛けた瞬間、彼の顔に帳が落ちた。答えあぐねるように、彼は下唇を数度噛み締めて、目を悲しげに細めた。彼の細い指先が自身の上着の裾を掴んで、小刻みに震えていた。その指先を見た瞬間、私は自分が酷いことを彼に聞いてしまったのだと気付いた。
 
 
「わ…わかりません。どっ、どうしてだか、僕には、ちっともわかり、ません…」
 
 
 彼は数度唇を開閉させた後、弱々しく答えた。本当は答えを知りつつも、自分が父親から疎んじられていることを自覚したくないがために、彼は見え透いた嘘をついたのだ。私に、そうして自分自身に対して。その彼の些末な嘘が私には痛々しく思えた。
 
 
「と、とにかく、僕は、皆さんと同じ食事はとっちゃ駄目なんです」
 
 
 無理に明るい声を作って、彼はそう言った。再び追従の笑みが彼の頬に滲む。
 
 
「…それじゃあ、貴方は一体何を食べるんですか?」
「ぼくは、皆さんが残されたものを食べます」
「…? 余りものの料理ということですか?」
「は、はい、皆さんが食べ残されたものです」
 
 
 事も無げにに紡がれた彼の言葉に、私は目を剥いた。それは、簡単に言えば残飯のことではないか、と私の心はわけのわからないおぞましさに押し潰された。それは、息子に残飯を食わせる父親に対する嫌悪であり、それを当たり前の事としている彼に対する嫌悪だったのかもしれない。
 
 
「い、いつも、そんなものを食べているのですか?」
「はい。ぼ、僕は、お父さんの子供だから、いろいろ我慢しなくちゃいけないんです」
 
 
 指先を絡ませながら、彼はそう言い訳を言った。そうして、力なく微笑んだのだ。追従の笑みではなく、今にも泣き出しそうな笑みだった。気付けば、私は彼の左腕を掴んで歩いていた。彼の戸惑いが腕を通して伝わって来る。しかし、彼は私に連れられるままに、結局文句の一つも言わなかった。彼は父親の愛人である私に対して、文句どころか質問すら出来なかったのだ。
 
 ほんのりと食物の匂いを漂わせる厨房に着いた瞬間、彼の腹が盛大に音を鳴らしたのが聞こえた。
 
 
「あ」
 
 
 ギプスに固められた右腕で必死に腹を押さえようとしている彼は姿は、何だか他愛もなく幼かった。頬を微かに赤らめて、彼は小さな声で「すいません」と何度も繰り返し呟いた。
 
 
「す、すいません、すいません、何でもないんです。気にしないで下さい。すいません」
「どうして、謝るんですか。謝る事なんて一つもないのに」
「でも…」
 
 
 酷く子供っぽい戸惑いの表情で、彼は私を見詰めていた。この世の罪悪全てを背負っているような罪悪にまみれた顔だった。憐れだった。彼は人間に許されている事が自分には何一つとしてまともに許されないと思い込んでいるのだ。部屋で温まることも、雨から逃れることも、食事を取ることも、腹を鳴らすことすら。
 
 
「すいません、彼と私の分の食事を、私の部屋まで届けて下さい」
 
 
 厨房の人間にそう声を掛ける。途端、彼と厨房の人間がギョッとした顔で私を見据えた。
 
 
「や、弥生さん、僕の食事なんて、い、いいですから。気にしなくていいんです」
 
 
 困惑した声音で彼が言う。首を左右に振りながら、彼は怯えた表情をしていた。厨房の人間達の間にも、彼と同じような動揺が広がっている。ざわめきの中、彼の指先は震えていた。
 
 
「何をそんなに怖がっているんです」
 
 
 促すように問い掛ける。途端、彼はハッとした表情で私を見つめてきた。半開きになった唇が小さく戦慄いていた。
 
 
「僕は、怖がってなんかいません」
「嘘を付かないで下さい。貴方は、食事を取ったり、普通の人間のように屋根のある場所に居ることすら恐れているじゃないですか。全て当たり前のことであるのに」
 
 
 当たり前と口にした瞬間、彼の動きが止まった。きょとんとした眼差しで私を凝視し、次の瞬間、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。彼は、まるで、まるで私を射殺すように眼差しを尖らせたのだ。極限まで尖らせた眼差しは、先ほどまでの媚び諂うような弱々しさなど欠片も残っていなかった。彼は、その瞬間、私を憎悪していた。殺したがっていた。
 
 
「何が当たり前ですか。何が当然で、何が普通の事なんですか。そんな物は、弥生さんの思い込みに過ぎないんじゃないですか? 僕にとっての“当たり前”は、コレなんです。今の現状なんです。食事の内容が違うことも。軒下が居場所なことも、どうして弥生さんは異常だと思うんですか? そんなのは、貴方の偏見だ。貴方の偏見を、僕や、この家の者に押しつけないで下さい。貴方はあまりにも傲慢だ」
 
 
 噛み付くように言い切った後、彼ははっとしたように唇を噤んだ。指先をわなわなと震わせながら二三歩後ずさって、怯えたように私を見詰めた。
 
 
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、出過ぎたことを言いました。ゆ、ゆる、ゆるして下さい」
 
 
 今にも土下座しそうな彼の左腕を掴んだまま、私は怯える彼に酷い悲しみを抱いた。彼は、今彼が置かれている現状を否定されるのを一番恐れているのだ。それを否定されるイコール、父親に迫害されている自分を自覚することだから。彼は痛々しいまでに、自分の父親を信じようとしているのだ。そして、自分が父親の息子であると。
 
 
「いえ、私こそ、ごめんなさい」
 
 
 掠れた声で返しても、彼の震えは止まらなかった。厨房の人間を見渡すと、どうしたら良いか解らないといったように、呆然と私達を眺めている。彼らを見渡しながら、私はその目に侮蔑じみた色が滲んでいるのを感じた。厨房の人間ですら、組長の息子である彼を蔑んでいるのだ。まるでゴミ虫でも見るかのような冷たい眼差しの中で、彼はずっとひとりぼっちで生きてきていたのだ。誰からも守られることなく。それは絶望的な孤独だった。
 
 
「それでは、私の食事だけ、部屋に持って来て下さい」
 
 
 私の口から零れた言葉に、彼だけでなく厨房にいる人間全員に安堵の空気が広がる。その安堵の空気が私には何とも不愉快で、私は彼の腕を掴んだまま再び歩き出した。狼狽したように、彼が足を縺れさせながら私の後ろを付いてくる。
 
 
「や、やよいさんっ…」
 
 
 困惑の声に、返事すら返さなかった。自室へと戻り、そわそわと落ち着かない彼から視線を背ける。数分後に食事がやってきたところで、無言で豪華な食膳を彼の前へと押し進めた。
 
 
「食べて下さい」
「え?」
「私が食べたことにします。だから、これは貴方が食べて下さい」
「そ、そんなこと、駄目ですよ。や、弥生さんの、しょく、食事じゃないですか」
 
 
 彼はへつらうような笑みを頬に無理矢理刻んだまま、食膳を私の方へと押し返した。私は、静かに首を左右に振った。
 
 
「私は、傲慢かもしれません」
「そ、そんな、僕の戯言で…」
「いいえ、最後まで聞いて下さい」
 
 
 ピタリと彼の口が閉ざされる。潤んだ瞳が落ち着かないように左右を見渡していた。私は、すっと息を吸い込んで、続きを話し始めた。
 
 
「私は、傲慢かもしれません。私は、貴方に何もしてあげることが出来ない。私はただ見ていることしか出来ない。それすらおこがましいと言われても仕方がない。こうやって食事を貴方へと差し出すのも、所詮私の自己満足でしかないのかもしれません。罪悪感を薄めるための、単なるエゴです。ですが…そのエゴをどうか許して欲しいんです。貴方にとっては、不愉快極まりないものかもしれない。無意味でしかないかもしれない。だけど、どうか許して下さい。私は、自分が何もせず貴方を見ているのが、とても悲しい」
 
 
 語り終わった時、彼の顔には何の表情も浮かんでいなかった。真っ白な能面が私を見詰めていた。彼は数秒押し黙った後、小さく息を吐き出して、私の方へと押し返していた食膳から手を離した。膝の上に両手を置いたまま、彼は膝をじっと見詰めたままぽつりと呟いた。
 
 
「すいません、こういうとき何て言ったらいいのか、僕には判らない」
 
 
 まるで迷子になった子供のように、彼は指先を震わせた。その震える指先が箸を掴んで、酷くゆっくりと米粒を口元へと運んで行く。米粒を一口噛み締めて、彼は私を真っ直ぐ見詰めた。
 
 
「美味しいです」
 
 
 もう一度咥内で「美味しいです」と彼は繰り返し呟いて、項垂れるように首を下げたまま食事を続けた。
 
 

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