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弥生の友達 (3) *切断描写有

 
 あの食事の日以来、彼は少しだけ変わった。私を見ても怯えることなく、目があえば控えめながらに子供のような笑みを浮かべる。その微笑みには、花が綻ぶような温かさがあった。
 
 食事を一緒に食べ、雨の日は軒下にいれば私の部屋に匿うときもあった。父親がいない時だけだが、時々は二人のんびりと縁側で話したりもした。彼の吃音は、私と二人だけのときは消え、同い歳ということもあっただろうが仲の良い友人と話しているような気分にさえなった。
 
 だからこそか、私は誰にも話した事のない父のことを、彼にだけは打ち明けた。父を見捨てたこと、罪悪感を今でも感じていること、野垂れ死ぬと言われたこと、彼は少しだけ困ったような表情でそれを聞いた。聞くだけで、何も言わなかった。鼓舞も説教もしなかった。それが私にとって酷く救いだった。
 
 彼は、野球の話をよくした。ピッチャーをしているんだと嬉しげに笑う姿は、年相応に幼く、何処か無邪気さすら漂わせている。しかし、家族の話になると、途端彼は口を噤んだ。父親や兄二人や妹二人、彼の家族が彼を蔑んでいることは既に周知の事実で、私はそれ以上立ち入ることはできなかった。ただ唯一例外だったのが、彼の母親だ。彼は母親のことになると、途端饒舌に話し始めた。頬をほころばせて、子供のように落ち着きなく足を揺らす。
 
 
「母さんは、僕に一等優しい」
 
 
 満面の笑みを浮かべる彼には、母親に対する一切の疑いがなかった。生まれたばかりの雛のように依存し切っていた。彼と母親が一緒にいる姿を、何度か見かけたことがある。彼は嬉しそうに母親に纏わりつき、彼女は何処か泣き出しそうな微笑みを浮かべて彼を見詰めていた。
 
 彼が父親に殴られているとき、彼女は物陰から涙を流しながらその光景を眺めている。しかし、彼女は彼を助けようとはしない。制止する一言さえ叫ばない。ただひたすら耐え忍ぶように袖を瞼に押し当てて、黙り込んでいる。そうして、父親が消えた瞬間、満身創痍な彼に駆け寄って、何度もごめんね、ごめんなさいね、と囁くのだ。その姿は、何処かいじましさを称えながらも、薄汚かった。自分は安全圏にいながら、さも味方かのように振る舞う劣悪な行為だと思った。そこまで考えて、私は自分も彼女と同じじゃないかと薄笑いが浮かぶのを感じた。私も、自分が危険地帯に入り込むような羽目になれば、きっと彼を見捨てて引き返す。それに気付いた瞬間、私は自分がとても汚い生き物に思えて堪らなくなった。
 
 しかし、彼は私の思惑など知らず、一年が経過した。彼と私は十八歳になっていた。
 
 その年の夏の夕暮れ時、突然彼が私の部屋に駆け込んで来た。汗だくになった彼の顔には、焦燥と絶望がないまぜになってこびり付いていた。そうして、彼は咽喉を嗄すようにして私に言ったのだ。
 
 
「弥生さん、父さんと母さんが別れるって…! 母さんがこの家を出て行っちゃう…!」
 
 
 悲痛に顔を歪めて、彼はその場で崩れるように蹲った。私は、咽喉から思わずうめき声を零しそうになった。とうとう来てしまったのだ。彼があの母親に見捨てられる日が。彼がひとりぼっちになる日が。
 
 覚束ない足取りの彼に連れられて、私は本家の一室へと向かった。そこには、崩れかけた夫婦が向かい合うように座り、その傍らに青褪めた二人の息子が控えていた。女の前に置かれた白刃に、私は一瞬息を呑んだ。眩しいほどの白布に半分包まれたそれは夕陽に照らされて、艶かしい光を放っている。まるでこれから血を吸うのを悦ぶかのような煌めきだった。
 
 立ち尽くす私の姿を見て、私を囲う男が嬉し気に笑う。
 
 
「ぉお、弥生来たのか。おいで、今から愉しいものが見れるよ」
 
 
 男の言う愉しいものは、きっと私にとって吐き気を催すものであろう事は解っていた。しかし、私は男の言うことには逆らえない。男の隣へと腰を下ろせば、すぐさま肩を引き寄せられて、男の胸へとしなだれかかった。
 
 私の後に部屋に入って来た彼は、ぺたんと自分の兄達の横へと力なく座り込んだ。彼はまるで縋り付くような目で、自分の母親を見つめている。今すぐにでも思い直して欲しい、嘘だよと言って欲しい、といった眼差しだった。
 
 
「おい、いつまで待たせんじゃい。御前がわしと離婚する言うたんじゃろうが。はよ、腕切れ」
 
 
 男が苛立った声で、自分の妻に命令する。私は目を見張った。まさか、そこまで男がするだなんて思いもよらなかった。目の前の女は、この男の妻なのだ。自分の子供を何人も産んだ女に対して、どうしてそこまで非情になれる。私は息を呑んだまま、額にじっとりと汗を滲ませる女を見つめた。
 
 
「解ってます」
 
 
 女は、掠れた声で答えた。鮮やかな朱色の着物の袖をまくり上げると、微かに震える指先でその白刃を握り締める。ぶるぶると震える切っ先が夕陽に反射して、チカチカと光が部屋の中で暴れる。その煌めきに目眩がした。私は、無意識に自分の歯がカチカチと音を発しているのを聞いた。上手く息が出来ず、男の胸に縋り付いたまま、必死で呼吸を繰り返す。
 
 女の生白い腕が畳の上に置かれて、その肘部分に刃が添えられる。女の額から、まるで滝のように汗が流れ出ている。噛み締められた奥歯が頬肉の内側でガチガチと震えているのが解る。女は怯えている。しかし、一方でその顔はまるで鬼のようだった。鬼が女に取り憑いている。血走った目が白刃と自身の腕を凝視している。女が小さく息を呑み、腕に刃が食い込んで血が微かに滲み出た瞬間、悲鳴にも似た彼の声が響いた。
 
 
「やめて、母さん!」
 
 
 彼は泣きじゃくっていた。両目からぼろぼろと涙を零しながら、畳に指先を食い込ませている。女が彼へと視線を向けて、何処か気怠げな笑みを向ける。
 
 
「真澄」
「もう、やめてよ、母さん。父さんと離婚するなんて嘘でしょう? この家を出て行くなんて、間違いだよね? ねぇ、もうやめようよ、こんなの。母さん、死んじゃうよ」
 
 
 まるで駄々を捏ねるかのように彼は言い続けた。溢れる涙を両手で拭う姿は、迷子になった子供のようだ。憐憫を誘う彼の姿を見て、私を抱き締める男がつまらなさそうに鼻を鳴らす。
 
 
「止めるなら、止めても構わんぞ。その時は、その野良犬の息子も一緒に外に放り出してやる」
 
 
 男の酷薄な台詞に、女と彼が息を呑んだ。彼が涙を止めて、まじまじと父親を見つめている。どうして、とでも言いたげな眼差しだった。
 
 
「父さん…」
「貴様は、わしの息子じゃない。野良犬が、この家に居着かせてやるだけでも温情だというのに、わしを父親だなんて図々しいことを」
「でも、僕は…」
「黙れ、貴様もこの雌犬と一緒に出ていけ!」
「私だけ出て行きます」
 
 
 女の酷く静かな声が響いた。そうして、ビシャリと液体が飛び散る音が聞こえた。私は、その瞬間の光景を忘れることが出来ない。女が自分の左腕を削ぎ落としていた。その姿は壮絶だった。舌を噛み切らないためなのか着物の裾を噛み締めて、顔をこれ以上ない程に歪めて涙を滝のように零しながらも、齧り付くように自分の腕を切っている女の姿。彼はその姿を見つめたまま、凍り付いていた。夕焼けに照らされた部屋の中、大量の血液が流れ出して畳を真っ赤に染め上げる。むせ返るような血の臭いが鼻腔の奥に溢れた。
 
 骨の周りの肉を切り落としたかと思うと、骨をゴリゴリと白刃で削り始める。しかし、骨が太いせいか、中々骨は寸断されない。血だけは呆れる程に溢れ出す。女が打ちひしがれた顔で、自分の腕から覗く骨を血走った目で凝視する。
 
 
「骨が切れんのか?」
 
 
 男がのどかな声で訊く。その顔は愉し気に歪んでいる。女が畳の上で藻掻きながら、まるで死にかけた犬のようなうめき声を上げる。女の顔色はいまや凄まじかった。青や土色が混じったどす黒い色をしている。男は、彼に視線を向けると言った。
 
 
「納屋に鋸あったろ。御前が切ったれ」
 
 
 残忍な言葉だった。子供に、母親の腕を切り落とせだなんて、この男には人の心がない。彼が息を呑んで男を見つめ、そうして身体をガタガタと震わせ始めた。
 
 
「はよ、切ったれ。はよせんにゃ、そいつ死ぬぞ」
「ぼ、ぼく…」
「母親、死ぬの見とるか?」
 
 
 男が陰微に嗤う。彼は震える足で立ち上がり、そうして一気に駆け出した。まるで肉食獣に追いかけられた草食獣のような走り方だった。彼の兄達が呆然とした表情で、走り去る彼の背を見つめている。
 
 数分後、小型の鋸を持った彼が戻ってきた。息を切らせた彼は、荒い息を付きながら、自分の母親を見下ろしている。女は畳の上でぐったりとしたまま、縋るように彼を見上げた。彼はその目を真っ直ぐに見返して、ぐしゃりと顔を歪めた。そうして、母親の腕を取り押さえると、そのまま鋸の刃を骨へと添えて、前後へと引き始めた。
 
 
「ぐ、ぎぃ、ぃ」
 
 
 潰れた蛙のような澱んだ声が女の咽喉から迸る。赤く濡れた畳の上で、女の四肢がまるでそれ自体が別の生き物のように暴れ狂う。男はその光景を見て、声を上げて嗤った。
 
 
「はは、蛙の解剖みたいじゃ」
 
 
 男の声も介さず、彼は涙をぼろぼろと零しながら、自分の母親の腕を切り続けた。ギィギィと鋸の刃の鳴き声だけが部屋の中に満ちる。夕陽に支配された部屋の中で狂気が融解して、ガスのように充満する。
 
 ゴトンと何かが落ちる音で、ようやく視界が戻った。女は畳に伏したまま、ピクリとも動かなかった。気絶しているのか死んでいるのか、確かめる者はいない。彼は切り落とされた母親の腕を、片手に鷲掴んだまま立ちすくんでいた。その顔は、赤い血で陰惨に汚れている。
 
 
「か、かあさん…」
「もう、御前の母さんじゃない。その女は、御前を見捨てたんじゃからな」
「ぼ、ぼくは、見捨てられて、な、ない」
「なら、何で御前一緒に連れていかん。御前が要らんからじゃろうが」
「かあ、かあさんは、ぼくを、あいして…」
 
 
 彼の涙声に、男が喧しい笑い声を立てた。その笑い声は耐えがたいほど醜い。男の胸に縋り付いたまま、私は余りの嫌悪感に鳥肌を立てた。
 
 
「御前を愛しとるやつなんか、誰もおらん。この女もいい厄介払いが出来て、嬉しいじゃろう。野良犬の息子は、雌犬にさえ捨てられるってことだ」
「ち、ちがう…ちがう、ちがうちがうちがう」
「何も違わん。御前は捨てられた。誰からも愛されん」
 
 
 その瞬間、彼の顔が色を失くした。真っ白になった彼の顔は、鮮烈なまでに凄惨だった。彼はもう顔を歪めなかった。表情をなくした顔が真っ直ぐ自分の母親を見下ろしている。片手に掴んでいた生白い腕を畳の上にぼとりと落とす。彼の手に握り締められた鋸の刃から、ぽたりと赤い雫がこぼれ落ちた。
 
 男が更に力強く私を引き寄せる。もう殆ど抱き締めている近い形だ。
 
 
「これで雌犬もおらんくなったのぉ、これからは御前が正妻じゃ弥生。わしは御前さえおったら何もいらん」
 
 
 一体この男は何を言っているのだろう。ざらりと無精髭の生えた頬が擦り付けられて、その不快感に吐き気すら覚えた。男の腕を逃れようと身を捩る。しかし、その瞬間見えたものに、私は息を呑んだ。彼が酷く冷たい眼差しで私を見つめていた。冷酷とも思えるその眼差しは、彼のものとは思えないほど凍り付いていた。皮膚が粟立つ。彼の笑顔を思い出す。少しぎこちなくて、まるで子供のような笑顔を。私は、もう二度と彼の笑顔を見れない気がした。
 
 そうして、彼の唇がゆっくりと言葉を紡ぐ。
 
 
「うらぎりもの」
 
 
 私は、その言葉に凍り付いた。私と彼は友達だった。だが、一瞬でその絆は切れてしまった。
 
 その日から、彼は変わった。吃音癖がなくなり、周囲を怯えた眼差しで窺わなくなった。常に微笑みを浮かべて堂々と歩く姿は、以前の媚びへつらっていた彼とは思えないほど優雅な姿に見えた。ある者には、芋虫から蝶への進化に見えたかもしれない。しかし、私は、彼が芋虫から毒蜘蛛に変化したようにしか思えなかった。彼の目は、あの日から冷たく凍り付いたままで、昔のような温かさはないのだ。
 
 そうして、私と彼との関係性も一転した。組長であった男は、数年後重病を患い、肩書きだけ残して事実上は失脚した。その代わりに台頭してきたのは男の二人の息子達で、私は彼らから軽蔑され、時には性玩具となり、落ちぶれるところまで落ちぶれた。その中で、彼だけは私に対して無関心だった。私を、まるでいないもののように扱い、すれ違う時ですら視線一つ向けることはなかった。私は、彼に見捨てられたのだと気付いたが、泣くことは余りにも浅まし過ぎて出来なかった。私は、裏切り者なのだから。
 
 しかし、数年後、不意に彼が私に声を掛けた。
 
 
「弥生は子供に好かれる性質?」
 
 
 それが、新たな始まり。私は父への贖罪と引き換えに、子供を地獄へと引き摺り込む鬼となった。
 
 彼のことを考えると、乾いた眼球からとめどもなく涙が零れてくる。私の胸に去来するのは、ただ後悔だけだ。私は、何一つとして彼に与えることが出来なかった。もし、私が彼とちゃんと話をしていれば。貴方を友人だと思っていると、誰からも愛されていないわけではないと、どうしてその一言を彼に伝えることが出来なかったのだろうか。彼の目に怯え、裏切り者に甘んじた私は、彼の友人ですらない。私は彼から逃げた、単なる卑怯者だ。
 
 捩れたシーツに額を押し付けたまま、嗚咽を噛み殺す。弱々しかった父の心拍音が止まって、何時間経っただろうか。暫くは医者や看護婦が来て、ごちゃごちゃと周りで何か言っていたが、私が何一つ答えないのを見ると、皆去って行ってしまった。私に残されたものは、何もない。父も友人も、ヤクザの愛人という下らない肩書きすら失ってしまった。そうして、新たにヤクザの愛人という称号を与えられた少年のことを考える。
 
 私が地獄へと引き摺り込んだ少年、泉健一君。彼は、私のようにならないだろうか。私のように、全てから目を背けて生きて行くことはないだろうか。少年が私よりもずっと強いことを祈る。そうして、いつか彼のことを許して、愛してくれることを。私のことは許さなくてもいいから、どうか彼のことは―――それだけが唯一残された私の祈りだ。私から、彼らに伝えられることは何もない。いや、違う、一つだけ残していた。許して、ではなく、本当に私が言わなくてはいけなかった言葉。少年と、そうして彼に。
 
 備え付けのメモ帳の上に、文字を数個書き込む。しかし、書き込んでから、その余りのエゴに苦笑いが零れた。メモを掌の中でぐしゃりと握り潰す。その時、不意に扉の向こうから乱雑な足音が聞こえて来た。扉の方へと視線を向けた瞬間、勢いよく開かれた扉から銃口がこちらへと向けられる。
 
 その真っ暗な穴を見つめながら、私はふっと頬が緩むのを感じた。嗚呼、これが野垂れ死ぬということだ。掌に握り締めた言葉を繰り返しながら、私はそっと瞼を閉じた。
 
 

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