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01 任命

 
 食べかけのチョコレートマフィンが、ころり、とテーブルの上を転がった。
 
 頬袋にマフィンを詰め込んだまま、保田はパチパチと数度瞬きをした。
 
 向かいの席でキャラメルマキアートを啜る草臥れた中年親父と、その隣でブラックコーヒーを口元へと運ぶ無表情な女を交互に眺める。女の前に置かれているのは、辞書ほどの厚さがありそうな手帳だ。しなやかな手付きでページを捲りながら、女は淡々とした声で先ほどと同じ言葉を繰り返した。
 
 
「保田刑事、子供を一人誘拐して下さい」
 
 
 今度は、口の中に含んだマフィンまで落ちそうになった。ぽかんと口を開いたまま、保田は七原女史を凝視した。
 
 七原女史は、保田より五年先輩の刑事だ。長い黒髪を後ろで一つ括りにしており、分厚い眼鏡をかけた姿は、まさに性を捨てて仕事に生きる女だ。女性らしさと呼ばれる部分は欠片もなく、笑いもしなければ、泣きもしない。事件を事細かに記した手帳を常に持ち歩き、片時も手放さない。その手帳は、第四課では密かに四次元ポケットと呼ばれているが、その事を七原女史は知っているのだろうか。知りながら、下らないと唾棄している気がしてならない。
 
 保田の直属上司である沼野は、何処か面倒臭そうな表情で、グラスについた水滴でテーブルの上に『の』の字を書いている。そのたどたどしい仕草に、保田は呆れに似た物悲しさを覚えた。
 
 保田の視線に気付けば、沼野は唇をにちゃりと崩して媚びるように笑った。
 
 
「べっつに難しいことじゃねぇさー。子供が一人になったところをさ、ひょいひょいーって連れてくりゃいいんだからよー。ねぇ、ナナちゃん」
「ナナちゃんと呼ぶのは止めて下さいと何度も言った筈ですが、沼野課長」
「相変わらずつれねぇなぁ、ナナちゃんは」
 
 
 七原女史のコメカミに薄っすらと血管が浮かび上がるのが見える。
 
 このちゃらけたオッサンが警視庁第四課の課長だというのだから頭が痛い。しかし、沼野は、なまけもののような顔立ちや肥満気味の身体とは裏腹に、正真正銘の武闘派だ。四課の中でも最も暴力を好み、ヤクザとの乱闘なんて数え切れない程繰り広げている。全身にはドスで切り付けられた跡が残り、体内には撃ち込まれた銃弾が二発取り出されず、残ったままだという。話ではそう解りながらも、目の前でにたにたと卑しい笑みを浮かべるオッサンを見ると、毎度あの話は冗談か何かじゃないのかと疑ってしまう。
 
 今回だって『保田、ミスド食いに行くぞ。ポン・デ・リングちょ~美味しいって感じィ?』と、昨日薬物中毒で逮捕した女子高生の口調を気色悪く真似して、保田を誘って来たのだ。しかも、誘拐なんて、明らかにドーナツを食べながらするような話ではない。
 
 
「まぁ、とにかくそんな難しいこったじゃねぇ、単なる誘拐よぉ。アメちゃんちらつかせりゃ簡単だろう」
「あ、あの沼野課長、そんな誘拐とか公共の場で言うのは…」
 
 
 遠慮がちに口を開いた保田に対して、沼野は一瞬きょとんと目を見張らせて、それから豪快な笑い声を上げた。ガッハッハッ、という聞くに堪えない濁った笑い声は、女子高生達の甲高い笑い声に紛れて、思ったよりも店内に響かなかった。
 
 
「保田ァ、俺はな、重要機密ほど人混みでするのが一番良いと思うんだよなぁ」
「はぁ…」
「此処に居る誰か一人でも、俺達に注意を払ってる奴がいるかぁ? オッサン一人、姉ちゃん一人、冴えない兄ちゃん一人、そんな奴らどうだって良いって面してやがる。店員だって見てみろ。一生懸命ドーナツ売り捌いて、俺らのことなんか構っちゃいねぇ」
「しかし、うっかり耳に入る事だってあるでしょう」
「うっかり聞こうが見ようが、結局のところ人間自分と関係ない事は直ぐに忘れちまうさ。それに、こんな大勢がいる場所でする話なんて、結局大した話じゃねぇって思うだろ? これが狭い部屋に三人集まってコソコソ話してみろ。誰もがあいつらは怪しい話をしてる、よし聞き耳立ててやろうだなんて無粋な真似を始めやがる。解るか、保田。こりゃマジシャンと同じ手法って奴だ」
「マジシャン?」
 
 
 沼野の強引な持論に引き摺られるように、保田は問い返した。その横から、七原女史の溜息が聞こえてきた。
 
 
「人間あからさまに見えている物には注意を払わず、隠している物ほど何かあるのではないかと注意を向けてしまう。マジックの際の常套手段です。大袈裟な身振りをする魔術師の手ばかりを見て、その横に置かれているマジックの種を見逃してしまう。それが言いたいのですよね、沼野課長」
「そうそう、ナナちゃん、わかってるぅ」
「ナナちゃんは止めて下さい」
 
 
 七原女史の冷静なツッコミを聞きながら、保田は「結局のところ」と言いよどんだ。
 
 
「結局のところ…どういう事なんでしょうか?」
 
 
 言いながら、乾いた笑いで頬が引き攣った。
 
 七原女史が分厚い手帳を捲り、一枚の写真をドーナツのクズが散らばる机の上に滑らせる。
 
 写真には、一人の少年が写っていた。野球の練習の帰りなのか、泥だらけのユニフォームを着ている。隣にいる友達に話し掛けているのか、楽しげに笑う顔は酷く幼い。浅黒く焼けた肌が健康的で、やけに眩しかった。ユニフォームの胸には【IZUMI】と刺繍が縫い付けられている。特別なところなど一つもない、極平凡な少年だ。
 
 
「あの…この子が、どう…」
「泉健一君、市立杉森小学校六年生、十二歳、五月十五日生まれ、血液型O型。八月十日関東野球大会当日、チームメイトである沢田伸樹君と別れた直後、吾妻組現組長、吾妻真澄に誘拐されました」
 
 
 保田の言葉を断ち切るように、七原女史が淡々とした声音で述べる。保田は、唇を半開きにしたまま固まった。咽喉から「はぁ」と何とも間の抜けた相槌が零れ、そして、その次の瞬間、驚愕に弾けた。
 
 
「ゆうか、…ぁがッ!?」
 
 
 大きく開かれた口に、Dポップが詰め込まれる。通常のドーナツよりも小さかったおかげで窒息することは免れたが、それでも苦しい。目の前で沼野が分厚いたらこ唇に人差し指を当てながら、シィーと密やかな音を立てている。
 
 
「お前馬鹿かぁ。そんな僕ビックリしちゃいました、とんでもない事ですぅ、うっそー信じられませぇん、って声出してんじゃねぇよアホたれ」
 
 
 咥内に突っ込まれた塊を、奥歯で噛み締めながら保田は恨めしげな眼差しで沼野をねめつけた。七原女史は、相変わらずの無表情でコーヒーを啜っている。
 
 
「だ、…だって、子供がヤクザに誘拐されているだなんて…」
 
 
 明らかな狼狽を滲ませる保田を横目で眺めて沼野は面倒臭そうに首を左右に振る。
 
 
「まだうちに配属されて数ヶ月のペーペーには解んねぇかもしれねぇがなぁ、誘拐やらコンクリート詰めの死体やらって言うのはうちの課には付きものだ。いちいち驚いてちゃ心臓が持たねぇぞ」
「でも、でもっ、まだ十二歳の子供が…」
 
 
 同じ所を旋回し続ける保田の思考を打ち切るように、コーヒーを置いた七原女史が早口に言い始める。余計な口を挟むなとばかりに、七原女史の鋭い視線は、保田へと向けられていた。
 
 
「泉健一君は、誘拐後、当時若頭補佐であった吾妻真澄の愛人として二ヶ月半ほど吾妻本家で生活。先月十一月一日、組長就任式終了後、泉家戸籍を吾妻家へと移し、A区の吾妻真澄所有のマンションに引越し、現在に至ります。肉体的暴力や性的暴行を奮われている形跡も有り、泉君の精神的悪化が危ぶまれています」
 
 
 今度は叫べなかった。保田はポカンと口を開いたまま、完全に硬直した。
 
『愛人』『肉体的暴力』『性的暴行』何だそれは。そんなの最低も最低、最低最悪じゃないか。
 
 もう一度、写真の中で笑う少年を見詰める。この世の汚さや苦味をまだ知らず、ただ周りに居る友人や家族だけで満ち足りていた子供。殴られることも、犯されることも、知らなかった唯の子供。
 
 思った瞬間、頭の中で何かが弾けそうになった。同時に、脳味噌の奥に押し込んでいた悪辣な記憶が根元から掘り出されるのを保田は感じた。温かさと優しさに満ちているが、その周りは粘着いた膜で覆われている。
 
 それは六年前の記憶だ。小さな子供達の柔らかな記憶。そうして、柔らかさが硬さへと変わり、腐臭へと変貌する様。誰にも話したくない。誰にも解られたくない。知られたくない。保田だけの切実な過去だ。
 
 咄嗟に右手が伸びた。その右手は、保田の意思を奪って、沼野の胸倉を掴もうとしていた。右手が別の魂を持って、勝手に動いているような感覚。しかし、その右手は沼野に辿り着く直前のところで、机に押え付けられた。沼野がキャラメルマキアートを啜る音が間抜けに響く。七原女史の細い手が保田の右手を取り押さえていた。
 
 
「何をするつもりですか、保田刑事」
 
 
 こんな時でも平静さを失わない七原女史の声音が、やけに癇に障る。奥歯を噛み締めて、保田は鈍く唸り声にも似た声を上げた。
 
 
「…どうして、警察は動いていないんですか」
 
 
 雑多な怒りが脳内でシェイクされる。いたいけな子供が陵辱されている現実、警察がそれを知っている事実、そうして現段階で少年が救助されていない現状。それら全てが保田を苛立たせ、憤慨させた。
 
 押え付けられた右手にギリギリと力が篭る。噛み締めた奥歯が砕けてしまいそうだ。
 
 口先でストローを上下に動かしながら、沼野がねっとりとした笑みを滲ませる。保田の怒りを楽しんでいるような、嘲っているような笑み。
 
 
「動いてるさ」
「それじゃあ、どうして、この子はまだヤクザに捕まったままなんですか。四課が本気で動けば、この子はもっと早くに救い出せていたはずじゃないんですか」
「お前――お前は、何か勘違いしてるんじゃないのか」
 
 
 唐突に、沼野の声が凍える。保田は、その声音に自分の身体が硬直するのを感じた。微かに軽蔑すら覗かせる眼差しで保田を見据えて、沼野は皮肉げに口角を歪めた。
 
 
「お前は、四課がヤクザを潰すために存在しているとでも思ってんのか?」
「それ以外に、僕らは何のために存在しているんですか」
「馬鹿じゃねぇか、手前。俺らは潰し合いをしてんじゃねぇんだ、共存してんだ」
 
 
 沼野の言葉に、暫し保田は呆然とした。『共存』、意味が解らない。何故、暴力を奮い、治安を悪化させるだけの連中と共存しなくてはいけない。公的に正しい行いをしなくてはならない、するべき警察が何故。
 
 
「俺ら警察が立ち入れない部分を取り締まるのは誰だ。俺らが正義振り翳しても裁けねぇ所を、裁くのは誰だ。俺ら警察には規則ってもんがある。規則に縛られてできねぇことを、代わりにやるのがアイツらに役目だ。俺らは食い潰しあっちゃ生きていけねぇんだよ。俺らは少なくとも互いを『尊重』して、生き残らなくちゃならねぇ。手前みてぇな甘っちょろいガキにはわかんねぇかもしれねぇけどな」
「それこそ、警察の規則に違反する事ではないですか」
「文句があるなら、上にでも掛け合いな。手前の甘ったれた意見なんかクソだって思い知らされる」
 
 
 保田は押し黙った。確かに、少なくとも目の前の男は、保田よりも世間を知っているのだろう。警察という組織の世知辛さや薄暗さ、その苦味も。例え保田が上に直訴した所で、鼻で嗤われるのがオチのような気がした。
 
 歯痒さに下唇を噛み締めて、保田は咽喉の奥に詰まった言葉を飲み込んだ。右手の上から、ようやく七原女史の手が外れる。
 
 
「もちろん、彼らの行き過ぎた行為は、私達だって見逃したりしません。今回貴方に泉君の誘拐、もとい救出を任ずるのは、吾妻真澄の行為を『行き過ぎ』だと判断したからです。このままでは泉君の命すら危うい」
 
 
 ガタンと椅子が派手な音を立てる。咄嗟に立ち上がりかけた保田を押し留めたのは、沼野の手だ。左肩にギリギリと圧力がかかっていた。見開いた目で七原を凝視しながら、保田は息を呑んだ。
 
 
「どういう事ですか」
 
 
 咽喉を鳴らして問い掛ける保田の声に、沼野が押し殺した声でそっと答える。
 
 
「吾妻真澄は『やり過ぎた』」
「やり過ぎた?」
「お前だって、吾妻組の組長が吾妻真澄に変わったことぐらい知ってるだろう?」
 
 
 問い返され、保田は戸惑いながらも小さく頷いた。吾妻組は第四課に移動した際、何をおいてもまず第一に、と教え含められた組だ。
 
 吾妻組、関東大域を占める暴力団体。古臭い闇金融から、IT方面まで手を伸ばし、その規模を着々と広げつつある最重要暴力団体だ。
 
 その組長であった吾妻真之介が死んだのはつい最近で、その跡は三男である吾妻真澄が継いだはずだ。
 
 
「だったら、解るだろう? 普通に考えて、二十七歳の若僧が組長になれるわけねぇじゃねぇか。しかも、長男や次男を押し退けて、疎まれものの三男が継ぐなんてことあるわけもない。吾妻真澄は、今回の就任で敵を作り過ぎた。幾ら根回しをした所で、全員の反感を抑え切れるもんじゃねぇ。いずれ誰もが思い始める。何で自分がこんな若僧に跪かなきゃならねぇって。特に、組長の座を横から掻っ攫われた兄貴達二人は、そう思うだろう。近いうち、間違いなく吾妻組は内部抗争が起こる」
 
 
 抗争という言葉に、咽喉がひくりと上下に動いた。沼野の言いたい事が判った。内部抗争が起これば、間違いなく少年も巻き込まれる。特に組長の愛人などという立場は、最も狙われやすい。脅迫のタネにされるだろう事が容易に想像出来た。
 
 目を細めた七原女史が声を上げる。
 
 
「沼野課長がおっしゃるように、現在は少年の命すら危ぶまれる状況にあります。だからこそ、保田刑事、貴方に少年の救出を任ずるのです」
 
 
 七原女史は、微かに身を乗り出すようにして言った。沼野がその横から口を挟む。
 
 
「救出を任命する、っつうのは大袈裟な言い方だけどなぁ。まぁ、たぶん四課の中じゃあ、お前が一番子供の扱いが慣れてる、だろう?」
 
 
 語尾は、保田への問い掛けで終わっていた。保田は、戸惑うように一度唇を開いて、しかし、結局何も言わずに曖昧に首を縦に振った。子供の扱いに慣れている、と沼野が言うのは、保田の前職を考えてのことだろう。安直な考えだとは思ったが、それについて深く言及する気はなかった。出来る限り、昔の事には触れたくない。
 
 保田の微かな肯きを見て満足したのか、沼野はやけに嬉しげな表情を浮かべた。
 
 
「それじゃあ、今日からよっしくなぁ」
「は、はい? よっしくって何をですか?」
「だから、子供の監視兼、誘拐」
「今日からですか!?」
「善は急げ、とか言うじゃん」
 
 
 じゃん、などとやけに甘えた口調で沼野が言う。その気色悪さに顔を歪めながらも、保田は渋々頷いた。その横で、七原女史が資料らしきものを取り出して、保田へと差し出してくる。
 
 
「吾妻組と泉健一君の資料です。目を通しておいて下さい。保護した際は、沼野課長にすぐ連絡を。また、何かトラブルがありましても、必ず連絡は忘れないように。以上です」
 
 
 別れの一言もなく七原女史が身を翻し、ドーナツを咥えた沼野までバイバイキーンなどと言いながら去っていく。その後姿を呆然と見詰めてから、保田はようやく大きく溜息を付いた。
 
 

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Published in catch2

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