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02 腐敗

 
 足音が聞こえる。コンクリートを叩く革靴の裏、淀みない規則正しい歩調。
 
 玄関脇、扉が開く側の壁に背を押し付けたまま、健一は頭の中で時間を刻んだ。エレベーターから玄関まで、距離にして約二十メートル、歩幅が大体一メートルとして、玄関が開くまでに掛かる秒数は二十秒。残り後十五秒。十五、十四、十三、十二……
 
 カウントダウンをしながら、掌の包丁を握り直す。包丁の切っ先が、暗闇にチカリと鈍く光る。吾妻が帰宅してくる一時間前に台所を覗いて、今日の獲物はこれにしようと決めた。吾妻の顔面を切り刻む妄想を浮かべて、口角にじっとりと嗤いを滲ませる。
 
 今日こそは上手くいく。何も難しいことじゃない。無難に腹を狙えばいい。動きさえ止めれば、馬乗りになってそのまま思うがまま全身を突き刺せばいいんだ。腹を縦に引き裂き、腸を引き摺り出す。悲鳴を上げたら、咽喉を切り裂いてやる。ゴボゴボと血の泡を噴いたら、大腸を口の中に突っ込んでやろう。凶暴な思考が腹の底から込み上げて来る。
 
 七、六、五、四、三、二、一……
 
 カチャリ、とドアの取っ手が動くのが、薄暗闇の中で見えた。息を殺す。じわりと一気に額から脂汗が滲んでくる。鼓動が信じられないくらい早くなる。
 
 
「ただいま」
 
 
 暢気に聞こえて来る声に、返事は返さない。開かれた扉が眼前まで近付いて来る。扉の影に身を隠したまま、健一は吾妻が部屋に入ってくるのをじっと待った。右足が入って来るのが見える。
 
 
「健一?」
 
 
 暗闇を訝しむような声の後、吾妻の身体が入ってくるのが見えた。扉の影からそれが見えた瞬間、健一は右手に握り締めた包丁を、吾妻の左横腹を目指して一気に突き出した。ヒュッと、自分の咽喉が先走るように呼吸を漏らすのが聞こえた。
 
 そうして、掌に鈍い感触。ずぶり、と包丁の切っ先が柔らかく弾力のある何かに突き刺さっていた。その感触に、やった、と脳味噌が歓声をあげる。
 
 
 はははっははははははっぁぁ、ああぁはははは、ざまあみろ、ざまあみろ、悶えろ、足掻け、藻掻き死ねっっ、この犬畜生、人殺し、野良犬の息子がっ、死ね、死ね、死ね、死ねっ、死ねええぇええ、
 
 
 一気に、どす黒い感情が胸の内で弾けそうに膨れ上がる。唇が醜く彎曲して、思わず哄笑が迸りそうになる。しかし、その直前、健一は気が付いた。影が嗤っている。脇腹を刺されたはずの吾妻が密やかな笑い声を零していた。
 
 
「今日は包丁かぁ。毎日趣向を凝らしてて、本当に楽しいよ」
 
 
 揶揄するような口調で言いながら、吾妻は健一の額をそっと撫でたのだ。健一は困惑した。どうして、そんな余裕でいられる。お前はこれから死ぬんだぞ。悲鳴を上げてのたうち回れ! 醜く懺悔し、命乞いしろ! 土下座し、頭を踏み躙られろ!
 
 思いながら、もう一度手元へと視線を落す。その瞬間、健一は驚愕に目を見開いた。
 
 
「この鞄、意外と気に入ってたんだけどなぁ」
 
 
 包丁が突き刺さっていたのは、吾妻の黒い鞄だ。革製の柔らかい鞄。気付いた瞬間、健一は「畜生」と鈍く漏らしていた。奥歯をギリギリと噛み締めて、吾妻を睨み付ける。吾妻は、健一の浅はかさを愛おしむように微笑んでいた。その微笑みを二度見ぬうちに、健一は包丁から手を放し、踵を返した。
 
 吾妻へと背を向けて、何事もなかったかのようにリビングへと歩いていく。その後を、靴を脱いだ吾妻が着いてくる。パチンと音が聞こえて、暗闇に蛍光灯の光が射した。その眩しさに目を擦りながら、ソファに座り、テーブルの上のリモコンを拾う。テレビの電源をつける。
 
 
「ねぇ、健一、昨日は何だったけ?」
 
 
 愉しむように問い掛けてくる吾妻の声に、健一は眉根を顰めた。テレビのチャンネルを変えながら、何てことないように答え返す。
 
 
「花瓶」
「一昨日は?」
「ベランダから突き落とそうとした」
「昨日と一昨日よりかは成長してると思うよ。扉の影に隠れたところも、中々良いね」
 
 
 狙っている本人から、殺し方を褒められたところで嬉しくとも何ともない。しかも、結局成功していないのだから。
 
 チャンネルを人気バラエティ番組に合わせたところで、背後に気配を感じた。肩越しに振り返れば、吾妻がソファの背越しに健一の胸元に手を這わせてきた。その指先の不快感に、健一は顔を歪めた。不快感も露わに、吾妻を睨み付ける。
 
 
「触んじゃねぇよ気色悪い」
「僕を殺せるのも、きっと遠くないよ」
 
 
 僅かに恍惚とした吾妻の声音に、首筋が粟立つ。未だにこの男は、健一に殺されることを夢見ているのか。吾妻の唇がコメカミに押し付けられて、その生温かい感触に吐き気がした。
 
 嗚呼、気色悪い。おぞましい。忌々しい。何故、こんな男と一緒にいなくてはならないんだろう。改めて、そんな疑問が溢れて来る。
 
 真昼が死んだ二日後、健一は都内にある吾妻のマンションに移った。殆ど現実味のないまま、その引越し作業は行われた。夢のように真っ白な部屋に、小さな自分。日中吾妻はおらず、健一はたった一人、この部屋に居た。
 
 鍵は掛けられておらず、それが何とも腹立たしかった。まるで吾妻に『逃げれるものなら逃げてみれば?』と言われているようだと思った。
 
 しかし、健一は一度も逃げようとしなかった。逃げようとすら思わなかった。理由は簡単だ。自分の目的は、『逃げること』ではなく、『吾妻を殺すこと』だから。逃げることは死ぬことよりも屈辱的だった。逃亡した時こそ、健一が吾妻に完全に敗北した時だとすら思えた。だからこそ、健一は決して逃げなかった。鍵の掛かっていない部屋に、意地のように居続けた。吾妻を殺す隙を窺いながら。
 
 そうして、吾妻と健一の同居生活が始まった。毎日の日課が、先ほどのアレ。吾妻を殺そうとすること。包丁を使い、花瓶を使い、十二階のベランダから突き落とそうとし、食事に洗剤を混ぜ、手を変え品を変え殺そうとしているのに、一度も成功したことはない。その度に吾妻の小馬鹿にするような笑みを見るばかりで、悔しく、腹立たしい。
 
 そして、腐っていく。健一は、自分が体内から腐れ爛れて行くのを感じていた。この密閉された空間の中で、じわじわと骨の髄から、全身が汚い汁を溜めて、じゅくじゅくに膿んで行く。
 
 毎日毎日頭にあるのは、吾妻を殺すことばかりで、何を見ても楽しいとも悲しいとも思わない。吾妻を殺すことだけが健一が取り決めた唯一の人生の目標だった。夢もなく、希望もなく、腐って行く自分に残された唯一がソレ。あんまりにも惨めで泣きたくなる。
 
 だが、健一は泣けなかった。泣けなくなっていた。真昼が死んだあの夜から、何かが健一の中で壊れていた。涙が出なくなったが、然程の不便は感じなかった。涙を流して吾妻を殺せるわけでもあるまいし、それならば涙は不要なものでしかなかった。単なる眼球から零れる水なんて要らない。
 
 健一には、自分に必要なものが何なのか見えていた。吾妻を殺せるだけの力だ。吾妻に捕まった当初、ナイフを欲しいと思った覚悟もない気持ちとは違う。もっと切実で、もっと切迫した現実味を持った殺意だった。一度吾妻を殺そうとしてナイフを握った瞬間から、その耳を噛み千切った瞬間から、吾妻への殺意は絵空事ではなくなっていた。血を噴かせ、断末魔を上げさせる。それは健一が死なない限りは確実に訪れる未来だった。
 
 甲高い笑い声がテレビのスピーカーから溢れて来る。胸だけ矢鱈とでかいグラビアアイドルが『もう、すっごい楽しくって』と言っているのが聞こえる。
 
 何がそんなに楽しいのだろうか。どうして、そんなに笑えるのか不思議で仕方ない。数ヶ月前までは、健一はこの番組が大好きで、毎週見ては笑い声を上げていた。しかし、今では、その頃の自分が何に対して笑っていたのかすら思い出せない。何が楽しい。何も楽しくない。
 
 吾妻の掌が腹まで這い降りてくる。首筋に掛かる息が気色悪くて、健一はその手を叩き落とした。
 
 
「触るなっつってんだろうが」
「僕は触りたい」
「手前の欲求不満なんざ聞いてねぇよ」
「健一がそう言うから、ずっと我慢してるでしょう?」
「じゃあ、一生我慢してろ」
「時には我慢が利かない時だってあると思わない?」
 
 
 そう言って、吾妻は健一の股間をゆるりと掌で撫ぜた。ぶわっと首筋に鳥肌が浮かび上がる。気色悪い。気持ち悪い。吐き気がする。
 
 健一は吾妻の手を振り払うように、ソファから勢いよく立ち上がった。
 
 
「健一?」
 
 
 不思議そうに声を上げる吾妻を、嫌悪の眼差しで見遣る。吾妻の左耳には耳朶が付いていない。千切れた断面から覗き見えるのは、再生したばかりのピンク色をした肉だ。その薄気味悪いピンク色を眺めてから、健一は吐き捨てた。
 
 
「反吐が出る。手前って存在自体が気色悪くて堪らない」
 
 
 乱雑な言葉を噛み締めて、健一はそのまま玄関へと向かった。この男と一緒にいることはもちろん、同じ空気を吸うのも耐え切れなかった。背後から声を掛けられる。
 
 
「健一、何処に行くの?」
 
 
 その言葉に返事すら返さず、健一は玄関を開いた。扉を閉める直前、何とも和やかな吾妻の声が聞こえた。
 
 
「外は危ないからね、早く帰ってくるんだよ」
 
 
 その言葉に、猛烈な憤怒を感じたが、反論の言葉までは思いつかなかった。結局、自分の帰れるところは此処でしかないと、自分でも痛いくらい解っていた。
 
 

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