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03 迷子

 
 くしゃみが一つ零れる。十一月に入ってから、一気にあたりは冬の到来を漂わせていた。特に夜半になると、空気が冷えて、皮膚がひやりと凍える。
 
 コートの上から二の腕を擦りながら、保田は白い息を吐き出した。車の中とはいえども、エンジンを付けていればバッテリーがあがってしまうため、とうにエアコンは切っていた。ぬるくなったコーヒーを啜りながら、目の前に聳える高層マンションを見上げる。
 
 吾妻真澄と少年が住むマンションを見張って、既に二週間が経とうとしていた。誘拐を命ぜられてから、せめて少年との接点を持とうとして始めた張り込みだったが、はっきり言って全く成果がない。そもそも少年がマンションから出てこない。毎朝八時に吾妻真澄が仕事に出かけるのは判っている。しかし、マンションはオートロックで、入り口には管理人らしき男が常在しており、保田の侵入を阻んだ。また、住人達の警戒も強く、セキュリティロックをあけた瞬間に一緒に潜り込もうとしたが、それも「一緒に入るのは禁止されているんです」という一言で制止された。ベランダ方面からの侵入に試みようにも、吾妻の部屋は十二階で、消防車のハシゴですら届きそうにはなかった。
 
 結局この一週間で解ったのは、マンションに侵入する事は不可能という事だけだ。そして、少年が外に出て来るのを、ただひたすら待つしかないという事実。
 
 それは、既に忍耐の勝負だった。そして、それは保田に歯痒さと苛立ちを与えた。
 
 今こうしている間にも、少年はいたぶられ、精神を擦り削られているかもしれないのに。そう思う度に、ぞわりと腹の底から憤怒が込み上げてくる。しかし、それでもチャンスを待つしかない。一生閉じ篭っているわけでもないだろうし、いつかは必ず外出するはずだ。必ず、必ずチャンスは訪れる。それを逃さなければ良いだけの話。そう思い、保田はこの張り込みを続けていた。
 
 そうして、今マンションのエレベーターから、一人の少年が出て来るのが見えた。その光景に、保田はぽかんと口を開いた。まさか少年が一人で出て来るとは思いもしていなかった。少なくとも吾妻とボディガードの一人や二人は付いて出て来るものと思っていたからだ。何て不用心な、という言葉が頭を過る。普通に考えても、こんな夜に子供を外に出すなんて危ない事だ。
 
 少年は、薄手の長袖シャツとズボンを身に付けただけの、酷く肌寒そうな格好をしていた。苛立った表情を浮かべて、ズカズカと大股でエントランスを横切っている。
 
 そのまま出て行こうとする少年へと向かって、管理人が慌てたように近付いて行くのが見える。そうして、次の瞬間見えた光景に、保田は驚くを通り越して呆然とした。
 
 少年は、外出を制止しに入ったであろう管理人の脛を思いっきり蹴り飛ばしたのだ。痛みに蹲る管理人を見下ろして、少年は鼻先で嗤っていた。その子供らしかぬ酷薄な面構えに、保田はぞっとした。
 
 少年は、そのままマンションから遠ざかるように薄暗い道を歩いて行く。保田は暫くその後ろ姿を呆然と眺めて、それから慌てて車から降り、少年を追いかけた。
 
 外に出ると、より冷たくなった大気が皮膚に纏わりついて寒さを実感する。少年は寒くないのだろうかと、保田は微かな心配を抱いた。
 
 暫く歩いた後、少年は道沿いにあるコンビニへと足を踏み入れた。その様子を、コンビニの外から眺める。少年は、暫く食品を物色するように眺めた後、雑誌コーナーへと足を向けた。立ち見の客達の隙間から、ぼんやりと興味もなさそうに雑誌を眺めている。戸惑うように手に取ったのは、小学生から中学生の間で大人気の少年雑誌で、それを読んでるようでもなくパラパラと怠惰に捲り、棚へと戻す。それを三回ほど繰り返してから、少年は不意に、途方に暮れたように左右を見渡した。まるで自分の居場所を探すような心細い仕草だった。
 
 結局少年は何も買わずに、コンビニを出た。保田は、その姿を眺めながら、少年は何のためにマンションから出て来たんだろうと考えた。お供も付けず、逃げたような様子もない。少年は、一体何処に行きたいのだろう。
 
 コンビニを出てからの少年の足取りは、何処か重苦しかった。二叉路があれば、どちらに行こうか迷うように視線を巡らし、頭上の街頭がジジッと音を立てる度に不安げに見上げる。周りの家から笑い声が聞こえれば、足取りを止めて、明かりの漏れる窓を見詰めて、動かなくなる。しかし、数分すれば、またふらふらと歩き出す。
 
『当てどもない』という言葉がぴったりと当てはまる姿だった。後ろから眺めている保田まで、まるで自分が迷子になってしまったかのような心地に陥った。
 
 最終的に、少年は公園のブランコに座り込んでいた。キイキイと錆び付いた音を響かせて、二三度ブランコを漕いで、止まる。そのまま、少年は自分の足下を見詰めて動かなくなった。
 
 行き場をなくした子供だった。この世界の何処にも居場所を見付けられない孤独な姿だった。あまりにも哀れな光景。
 
 少年の孤独な姿に、保田の胸は締め付けられた。不意に、無邪気な子供の声が耳元に蘇った。
 
 
『ヒロせんせぇ』
 
 
 甘ったれた声で、保田を呼ぶ子供の姿が瞼の裏に鮮やかに広がる。エプロンの裾にしがみつき、保田の視線を独り占めにしようとした小さな少年。
 
 温かく保田を満たす記憶は、最後は泥まみれになって打ち捨てられる。あまりにも残酷な記憶。保田は、未だにそれを受け止められずにいる。
 
 気付けば、少年へと近付いていた。ブランコに乗ったまま、少年は訝しげに保田を見上げている。
 
 
「寒くない?」
 
 

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