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04 軽蔑

 
「寒くない?」
 
 
 見知らぬ男が声を掛けてくる。
 
 何処か甘えた感じのする童顔の男は、首を傾げながら健一を見下ろしている。
 
 その視線を、怪訝に受け止めながら、健一は目の前の男は誰だろうと考えた。吾妻の部下だろうか。それにしては、鼠色のスーツや安っぽそうなコートは、吾妻と同業の匂いとは程遠い。
 
 それならば、単なるおせっかいな男だろうか。子供がこんな夜中に出歩くなんて、などと、つまらない説教を健一にするつもりなのだろうか。どちらにしても、鬱陶しいことこの上ない。ブランコの鎖を固く握り締めたまま、健一は眉を顰めて男を睨み付けた。
 
 
「あんた誰」
 
 
 鋭い声で、切り付ける。子供らしかぬ拒絶的な声に戸惑ったのか、男は微かに視線を揺らした。逡巡したように俯き、自身の足下をじっと見詰める。そうして、時折ちらりと窺うような視線で健一を見遣る。
 
 その気弱そうな眼差しは、廊下に立たされている生徒を連想させた。しかも、自分自身が悪いことをしたのではなく、他の人間のとばっちりで立たされている生徒だ。クラスの中でも目立たず、影にひっそりと佇むイメージ。ようは地味なのだ。
 
 地味な男は、暫く何か言いたげに口をもごつかせてから不意に顔を上げて言った。
 
 
「あの…君は、泉健一君だよね?」
「はぁ? 人が誰って聞いてんのに、質問で返して来てんじゃねぇよ」
 
 
 撥ね付けるように言いながらも、健一は男の言葉に動揺していた。何故俺の名前を知っているんだろうか。矢張り吾妻の部下か何かなのだろうか。そう思うと、皮膚がひやりと冷えた。薄いシャツを通して、寒さが体内へと浸透してくる。
 
 マンションから出て一番驚いたことは、その気温の低さだ。いつの間にか冬が訪れていた。エアコンのかかった部屋に毎日閉じ篭っていたせいか、健一は季節の移り変わりに気付いていなかった。
 
 吾妻に攫われた頃は、確か夏だった。そうだ、関東野球大会で優勝して伸樹と一緒に帰っていた夏の夕暮れだ。夕焼けが綺麗で、眩しくて、世界がとても素晴らいもののように思えていた。しかし、その温かい世界は唐突に終焉を迎えて、今目の前にあるのは冷え切った絶望の世界だ。
 
 それは、あのマンションから出ても変わらない。健一の事を『吾妻様』と呼んだマンションの管理人を蹴り飛ばしても、ちっとも気分は晴れない。コンビニに入り、住宅街をうろつけばうろつくほど、自分の居場所がないことに気付いて絶望するだけで。もう自分がこの世界の何処にもいられないことを実感するだけだった。
 
 そうして、一人きりになりたくて公園に入っても、こうやって邪魔が入る。吊り上げた目で、男をねめつける。男は、躊躇うように視線を巡らせてから、一度溜息をついた。それから、諦めたようにコートの内側から黒い手帳のようなものを取り出した。手帳を広げて、落ち着いた口調で言う。
 
 
「保田洋人、警視庁捜査第四課の刑事です。君を、助けに来ました」
 
 
 瞬息、息が止まる。喉が空気を呑み込んだまま、吐き出せなくなる。脳味噌がカラカラと音を立てて止まり、それから急速に、猛烈な勢いで回転し始めた。
 
 男が広げた手帳は、テレビでよく見る警察手帳と全く同じもののように見えた。保田、警視庁、刑事、警察手帳、単語が脳味噌の周りを一巡して、それから爆発する。込み上げて来たのは、安堵でも歓喜でもなく、怒りと憎悪だ。
 
 何を、今更、助けに来ただなんてどの口が言える!
 
 
「助けに、来た?」
「君は、吾妻真澄に攫われ、監禁されていたんだよね?」
 
 
 無意識に、唇に苦笑が滲む。無神経な言葉を、まるで救いとでも言いたげに口にする男が馬鹿げて見えた。『そうです、あいつに酷いことされたんです。僕は可哀想な子なんです。刑事さん、助けて下さいよぅ』とでも言えば、この男は満足するのだろうか。偽善に満ちた犬畜生が。そんな茶番劇に付きやってやる優しさを健一は持ち合わせない。だから、男の同情の眼差しを素知らぬふりをして、ゆっくりと首を左右に振った。
 
 
「何言ってるんですか? 攫うとか、監禁とか、意味がわからないんですけど」
 
 
 ことさら丁寧な笑顔を浮かべて、言ってやる。男の戸惑いが皮膚を通して伝わって来る。被害者だと思っていた子供に、事実だと信じていた事を否定されるのはどんな気持ちだろうか。そんな気持ち、健一には欠片も解りはしないが。
 
 おろおろと左右を見渡した男が今後は、ひくりと引き攣ったような笑みを浮かべて、まるで宥めるように語りかけてくる。
 
 
「健一君、怖がらなくてもいいんだよ。もう吾妻真澄のところには戻らなくてもいいんだ。酷いことをされる事もない。君は、もう自由なんだ」
「自由!」
 
 
 咄嗟に、弾けるように声が喉から溢れた。嘲笑混じりの戯れた声音。男の言う『自由』という言葉に、思わず笑い転げそうになる。
何が自由だ。お前が自由の定義を知っているのか。俺の自由を、勝手に吾妻真澄から逃げることと決めつけて、ヒーローぶってるだけじゃないか。下らない。俺にとっての自由は、逃げることなんかじゃ決してない。俺の自由は、あいつを殺して、自分も死ぬことだ。終焉こそが俺の自由だ。馬鹿が馬鹿が、糞阿呆な偽善者めが。
 
 前屈みになって、両手で腹を抱えて、健一は両肩を小刻みに震わせた。喉から押し殺した笑いが漏れる。それを男は、嗚咽とでも勘違いしたのか、そっと労るように掌を健一の小さな肩へと置いてくる。
 
 
「つらかったね」
 
 
 馬鹿げた台詞に、とうとう嗤いが噴き出した。肩に据えられた男の手を一息に払い除けて、健一は足をばたつかせて笑った。
 
 あははは、ははははあああははは、笑いが止まらない。
 
 男は、唖然とした表情で健一を見詰めている。暫く笑い転げた後、健一はふっと頬を緩めた。
 
 
「あんた、何か変な勘違いしてんじゃない? 俺は、あいつに攫われたわけでも、監禁されてるわけでない。俺は、自分の意志であの家にいる」
「そ、そんな嘘を付かなくてもいいんだよ。僕は、吾妻に君を渡したりはしない。必ず君を守るから」
「あんたに守ってもらう必要なんかない。助けてもらう必要もない」
 
 
 取り縋るような男の言葉を、一息に撥ね除ける。ブランコから立ち上がり、噛み付くように叩き付ける。
 
 
「例えあんたの言うとおりに俺が酷い目にあってたとしても、あんたに俺は助けられない。あんただけじゃない、誰にも、誰一人として俺を助けられる人間なんていない。他人なんかに、助けられるもんか。俺を助けるのは俺だけだ。自分を助けられるのは、自分でしかない。他人じゃない。あんたじゃない。俺だ」
 
 
 畳み掛けるように言い、呆然とする男の顔を見上げて、口角を吊り上げる。
 
 健一は、もう夢を見ない。誰かが自分を助けてくれる。この現状から救い出し、健一の頭を撫で『怖かったね。もう大丈夫だよ』なんて言ってくれる事を。自分がその優しい腕に甘える姿を。そんな甘くて他愛もない子供騙しを、死んだって夢見たりなんかしない。
 
 そうして、吐き捨てる。
 
 
「何が助けたいだ。何が守るだ。ヒーロー気取りの偽善者が」
 
 
 男が凍り付く。その様を小気味よく眺めて、健一は踵を返した。しかし、歩き出した瞬間、自分は一体何処へ行くんだろうという不安が再び頭をもたげた。このまま吾妻のマンションへと戻るのは癪だったし、だからといって他に頼れる場所もない。ピタリと足を止めて、背後を振り返る。
 
 男は、項垂れた様子で、先ほどと同じ場所に立ちすくんでいた。男の左手は、苦悶するように自身の胸倉を強く握り締めている。その様子からも、男が健一の言葉に少なからず傷付いていることは確かだった。言葉通りの実直な人間なのだろう。健一に語った言葉は、きっと男の本心だったのだろう。だからといって慰めの言葉を掛けてやりたいとは、欠片も思わないが。
 
 
「なぁ」
 
 
 声を掛ければ、ハッとしたように男が健一を見詰めた。その眼球は、街灯に照らされて微かに潤んでいるようにも見えた。
 
 
「あんた一人暮らし?」
「…そうだけど…」
「なら、今日泊めて」
 
 
 突拍子もない健一の言葉に、男の口がぽかんと開かれる。その開かれた口を眺めながら、健一は再び男へと寄り、そのコートをぐいと引っ張った。引っ張られた反動で、男の身体がぐらりと揺らぐ。
 
 
「今日は、あそこに戻りたくない。あんたん家、近い?」
 
 
 殆ど強引なやり方で問いただす。男は、現状を把握し切れていない呆然とした表情で、健一を見ている。その間抜け面を苛立たしい気持ちで眺めながら、健一は男を揺さぶった。
 
 
「近い?」
「…車で、三十分ぐらいだよ」
 
 
 きつめに問い掛ければ、ようやく男の口から掠れた声が零れた。その言葉に一頻り満足して、健一は男のコートを離した。
 
 
「車どこ?」
「君のマンションの前にとめてある」
「俺の、マンションじゃない」
 
 
 男の言葉に、微か刺のある声音で言い返す。決して吾妻と暮らす部屋を、自分の家などと思われたくはなかった。怒りが腹の底から燻るように噴き上がって来る。それに気付いたのか、男が再び俯く。思わず舌打ちが零れそうになった。たかがこの程度でいちいち傷付きやがって、鬱陶しい男だと心底思う。
 
 苛立ちにまかせたまま、男から視線を逸らし、先に歩き出す。数歩後ろから、男がゆっくりと着いて来るのが分った。
 
 歩き出せば、気温の低さが改めて身にしみて来る。体温が奪われて、身体の芯からじんと痺れて行く。くしゃみを一つ零せば、不意に背後からふわりと肩に何かをかけられた。肩越しに振り向けば、見えたのは情けない男の面で。
 
 
「あの…よかったら使って」
 
 
 コートを健一の両肩に被せたまま、男が曖昧に笑う。その微笑みに、込み上げてくるのは不快感だ。男を睨み付け、余計なことをするな、と牽制をかける。
 
 だが、その感情に混じって、何か言葉では言い表せないものも滲み出て来る。コンクリートの心臓を罅割って生まれてくるこの柔らかな感情は、一体何なのだろうか。その感情が、一番不快だった。健一を、ろくでもない場所へと引き摺り落とす。中途半端な優しさ、柔らかさ、愛おしさ、そういった感情を、健一は何よりも憎んでやまない。
 
 だから、肩のコートを払い落とした。地面へと落ちたコートを拾い上げて、男が寂しげに健一を見ていることにも気付かなかった。
 
 

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