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06 冬の朝

 
 小さなくしゃみの音で目が覚めた。
 
 分厚い毛布の下で身体をくっと丸めて、貼り付いた瞼を薄く引き剥がす。途端、饐えた臭いが鼻を付いた。おそらく何年も洗われてもいない毛布から漂ってきているだろう臭気に、思わず顔を顰める。
薄く開かれたカーテンからは、朝日が薄く差し込んでいた。上半身を起こし、ぱちぱちと半開きな目を瞬いて、暫くぼんやりと陽を透かすカーテンを眺める。
 
 十二月の朝は、空気が冷たく凍り付いていた。吐き出す息が驚くほど白い。そうして、その白さは一瞬で空中に溶けて消えていってしまう。
 
 また、くしゃみの音が聞こえる。ベッドの下を見下ろすと、保田がこたつの中で身体を丸めて眠っているのが見えた。昨日どちらがベッドを使うかですったもんだの遣り取りがあった後、結局半強制的に健一がベッドへと押し込められた。そうして、保田はコタツの中でそのまま眠ったのだろう。電源が付いていても底冷えした空気は寒いのか、両足を縮こめるようにして寝息を立てている。
 
 ベッドの上から身を乗り出して、保田の顔をまじまじと眺める。見れば見るほど、刑事という面構えではない。保父という文字がそのまま顔に貼付けられていても可笑しくない、そんな子供受けしそうな甘ったるい顔立ちをしていた。
その閉じられた瞼の境目に、薄らと涙が滲んでいるのが見えて、健一はぎょっとした。保田の胸元には、昨日取り出した幼稚園アルバムが固く抱き締められている。それを見て、健一は酷く苦々しい気持ちになった。
 
 事件の事など、昨日保田から聞いたこと以外、健一は知らない。しかし、事件に対して、余りにも深い罪悪感を感じている保田を見ていると、酷くもどかしい気持ちになった。確かに子供から目を逸らした保田にも責任はあるだろう。だが、真実悪いのは子供を攫って殺した人間なのだ。
 
 それなのに、事件を契機に刑事へと転身し、罪悪感から健一を救い出そうとする保田の懸命さが健一には無性に堪らなかった。何て不器用な人間なんだろうか。忘れることすら出来ず、記憶に捕われたまま、保田は生きて行くつもりなのだろうか。そんな人生は、余りにも惨めだ。
 
 気まぐれに瞼に指先を伸ばしてみる。目頭に滲んだ涙を指先で拭うと、その液体の冷たさに皮膚が小さく戦慄いた。触れた感触で目覚めたのか、保田の瞼がゆっくりと開かれる。暫く寝惚けたように瞬きを繰り返して、覗き込む健一の顔を数度眺めた後、保田は不意に微笑んだ。朝日に溶けいる、包み込むような微笑み。
 
 
「うれしい、帰らなかったんだね」
 
 
 まるで空気を食むような穏やかな言い方だった。指先を伸ばして、健一の頬をそっと撫でる手付きは優しかった。滑らかな皮膚を何度か上下に撫でて、それから保田は、わっと驚きの声を上げた。ようやく覚醒したらしい。驚きに見開かれた目が健一を凝視していた。
 
 
「お、おお、おはよう」
「…おはようございます」
 
 
 ベッドの上に座り込んだまま、ぺこりと頭を下げる。保田は未だ現実と夢との区別が付いていないような困惑の表情で、左右を見渡している。
 
 
「何、そんな驚いてんの」
「お、驚いてないよ…」
「じゃあ、その挙動不審な動きやめろよ。別に俺が居るのが嫌なら、もう帰るからさ」
「ち、違うよ、帰って欲しいわけじゃないから、ここに居て。ごめん」
 
 
 ようやく落ち着きを取り戻したのか、保田が大きく深呼吸をする。濡れた指先同士を擦り合わせながら、健一は横目で保田を見遣った。
 
 
「あんた、泣いてた」
「泣いてた?」
「泣いてた」
「そう…」
「怖い夢見たの?」
「たぶん、見てないよ」
「じゃあ、何で泣くの」
「泣くのも笑うのも然程かわらないよ」
 
 
 曖昧に誤魔化して、保田はキッチンへと歩いていった。昨夜汚物溜めのようになっていたキッチンは、昨日に比べたら劇的に片付けられていた。健一が眠っている間に掃除をしたのだろうか、部屋全体が整頓されているように見える。
 
 
「食パンぐらいしかないけど、食べる? トースターが壊れてるから、焼けないけど…」
 
 
 封の切られていないパンを掲げて、躊躇うように問い掛けられる。それに頷きを返せば、保田がほっとしたように息を付いた。昨夜、全てに対して拒絶を返していた健一が朝食を拒まなかったことに安堵したのだろう。苦労性な奴だ、と哀れみを込めて保田の少し猫背気味な背を眺める。
 
 健一が台拭きで汚れた机を拭いている間に、朝食の準備は整った。皿に乗せただけの食パンと、スプーンの突っ込まれたイチゴジャムとピーナッツバターの瓶。お情けのように、インスタントの味噌汁が添えられていた。
 
 向かい合うようにして食事を取っている間、保田はずっと俯いたままだった。
 
 

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