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07 キング

 
 薄い味噌汁をすすっている時に、それはやってきた。
 
 開かれた扉の前に、柔らかく微笑んだ男が立っていた。顔一つ一つのパーツは穏やかさを感じさせるのに、ギラリと光る目だけは猛禽類を思わせる男だった。襟元にファーの付いたベージュのコートが、緩く癖づいた茶色い髪や整った甘い顔立ちに、よく似合っている。
 
 その背後には、チュッパチャップスを咥た中年男と、分厚い手帳を抱えた眼鏡の女が立っていた。まるで従者を従えた王様のようだ。
 
 王様のような男がゆるりと片手を上げて「おはよう、保田君」と馴れ馴れしい声を上げる。保田はぽかんとした顔で、暫くその男を見上げていた。しかし、一度ぶるりと身体を震わせると、強張った声をあげた。
 
 
「どうして、青柳警視がいらっしゃっているんですか」
 
 
 青柳と呼ばれた男は、一度緩慢な仕草で首を傾げた。そして、味噌汁片手に自分達を眺めている健一に気付くと、目尻に深く笑い皺を刻んで、肩を揺らした。
 
 
「だって、気になるじゃないか。あの吾妻真澄のお姫様を保護したなんてさ」
 
 
 お姫様というところで、青柳はねっとりとした目つきで健一を見詰めた。その視線に、健一は皮膚がざわめくのを感じた。まるで動物園の動物でも見るかのような不躾で無神経な眼差しだ。こいつは、俺を見世物にしに来たんじゃないだろうかと思った瞬間、諦めが入り混じった不快感を覚えた。味噌汁の椀を緩く握り締めたまま、そっと溜息を吐き出す。
 
 その間にも、青柳と中年男と眼鏡女は、我が物顔で室内へと入ってくる。コタツの前にいる健一を、とり囲むように座り込むと、前もって打ち合わせしていたかのような貼り付いた笑みを、健一へと向けた。目に見えて友好さを見せ付けるような笑顔がいっそ薄気味悪い。
 
 ただ一人、保田だけが現状を把握し切れていないかのように玄関口で慌てふためいている。
 
 眼鏡の女が分厚い手帳を開いて、口元だけ笑みの形に歪めたまま問い掛けてくる。
 
 
「貴方は泉健一君ですね」
「…」
「初めまして、私達は警視庁の刑事です。私は七原といいます」
「そんで俺が沼野。ぬまっちって呼んでね」
「じゃあ、僕はヤギヤギって呼んで。青柳だから、ね」
「いやぁ、青柳警視はやっぱりキングでしょう」
「キングなんて内輪ネタは使えないよ、ぬまっち」
「いや、早速ぬまっちなんてっ、ありがとうございます」
 
 
 健一を置いてきぼりにして、無理矢理に会話は進んでいく。媚びへつらいが纏わり付いた嫌らしい会話に、健一はひたすら押し黙った。
 
 味噌汁を机に置いて、膝頭の上できつく拳を握り締める。そんな健一の様子に頓着する様子もなく、三人の会話は続く。
 
 
「でも、まさか本当に保田君がお姫様を救出するとは思ってもみなかったよ」
「ですよねー。保田も一人前になったって事で」
 
 
 青柳と沼野の会話に、保田が困惑したように足踏みをする。救いを求めるように宙を彷徨った視線は、最終的に健一へと向けられた。その視線を憎憎しく睨み返す。手前らの側の問題だろうが。
 
 
「あ、あの…」
「なに、保田君」
「ま、まだ、泉君を保護したわけではないんです…」
 
 
 咄嗟に顔を歪めたのは沼野だ。
 
 
「はぁ?」
「あの…彼は、監禁も虐待もされていないと…」
 
 
 ねめつけるような沼野の視線から逃れるように、保田はガラス戸に張り付くようにして小さくなっていく。沼野のコメカミに浮かんでいるのは雷走りのような血管だ。
 
 その沼野の様子に反して、青柳は健一を見詰めたまま何か言いたげに笑みを深めた。七原は手帳に何か書き込んだまま、視線を上げる様子はない。
 
 
「はあぁ? お前、昨日泉君を自宅に連れて帰ったって言っただろうがよぉ」
「は、はい、家には、来て、もらったんですけど、でも、あの、吾妻の家には自分の意思で、いる、と」
「そんな訳ねぇだろうがヴォケ!」
 
 
 雷鳴のような沼野の怒号が落ちる。大気をビリビリと震わすような大音響は、鼓膜が痺れるほどだった。
両耳を押さえたまま、保田は怖気づいたようにふらふらと小刻みに身体を左右に揺らしている。情けないという思いに支配されて、健一はゆっくりと溜息を吐いた。
 
 その時、青柳が快活な声を上げて、膝頭をぽんと軽く叩いた。
 
 
「落ち着きたまえ、ぬまっち。聞いたところ、問題があるのは保田君ではなく、この子の方のようだ」
 
 
 青柳の言葉に、一斉に三人の視線が健一へと向けられる。視線の針に刺されながら、健一は殊更ゆっくりと瞬きを返した。
むしろ、健一よりも狼狽したのは保田の方だ。もつれた足取りで健一の傍らまでやってくると、まるで健一の言葉を代弁するかのように必死で首を左右に振る。
 
 
「け、健一君は…」
「黙れ、保田。お前に聞いてんじゃねえ」
 
 
 沼野に叱責されて、保田は泣き出しそうな顔で押し黙った。肩越しに保田を見やりながら、健一はひっそりと息を吐き出し、青柳へと視線を向けた。青柳は顎の前で両手を組んで、感情の読めない笑みを浮かべている。
 
 
「で、何?」
 
 
 軽く首を竦めて訊ねると、青柳が握手を求めるように片手を伸ばしてきた。
 
 
「改めて初めまして。僕は警察庁警視の青柳利音と言います。皆からは、キングって呼ばれているけど、さっきも言ったように君はヤギヤギって呼んでくれると嬉しいな」
 
 
 愛想よく吐き出された言葉に、健一は返事を返さなかった。不審な眼差しで、差し出された掌をねめつける。健一に握手する気がないことを悟ったのか、青柳が少し困ったように肩を揺らしながら手を引っ込めた。
 
 
「泉、いや、健一君って呼んでいいかな。ねぇ健一君、僕らは君に危害を加えようなんてこれっぽっちも思ってないって事を、まず最初に解って欲しいんだ。答えたくないことは、無理に答えなくてもいい。君は自分が喋りたいことだけ話してくれればいいんだ」
「何それ、黙秘権みたいな奴?」
 
 
 鼻先で哂うと、青柳がニィと口角を吊り上げて肩を揺らした。まるで、その通りとでも言わんばかりの笑み。再び組まれた両指がタップするように手の甲を緩く叩いていた。
 
 
「まず、君は泉健一君で間違いないかな?」
「だから、何」
「君は、吾妻真澄に誘拐された?」
「いいえ」
「君は、今まで吾妻真澄に同じ住居にいるように強要された?」
「いいえ」
「君は、吾妻真澄に暴力を奮われ、精神的かつ肉体的苦痛を与えられた?」
「いいえ」
 
 
 何の意味があるのだろうか。下らない質問に、込み上げて来るのは苛立ちだ。こめかみが痺れるように痛むのは、偏頭痛の予兆だろうか。コメカミをそっと掌で押えて、健一は遣る瀬無さに溜息を付いた。どんな質問をしてこようが、健一が答えるのは、警察が望むようなものではない。こんな無意味な時間――
 
 その時、不意に青柳の口調が変わった。まるで世間話でもするかのような和やかなものになる。
 
 
「健一君は野球が上手かったんだよね。関東野球大会で春日タイタンズが優勝したのも、君のホームランが決め手だったんでしょう? 嬉しかった?」
 
 
 唐突に切り替わった話題に付いていけず、健一の脳味噌はフリーズした。ぱちぱちと何度か瞬きをしてから、ぎこちなく頷きを返す。
 
 
「う、ん」
「僕も最近運動不足だから、スポーツ始めようかと思うんだけど、野球とかどうかな? やっぱり初心者には難しい?」
「…なんで、そんな事聞くの」
 
 
 急激な話題の変化に、健一は安堵よりもずっと胡乱さを感じた。怪訝そうに青柳を見つめる。青柳は、自然な仕草で小首を傾げて、ふふっと小さく笑い声を零した。
 
 
「別に、僕が話したかっただけだよ。野球の話は嫌い?」
「嫌い、じゃないけど…」
「じゃあ、教えて欲しいな。ねぇ、初心者がやるには難しいかな? ホームランとか打ってみたいんだけど」
「…いきなり、ホームランは難しい、と思う。まずボールを見るところから始めて、バントできるようになってから、やっとヒットが打てるようになる、から」
「そっか。バッティングセンターとかで練習してみようかな」
「バッティングセンターは、機械だから、あんまり実践向けじゃない。人が投げるボール打ったほうが、それぞれの癖とか歪みとかあって、練習になる」
「奥が深いな、そういえば、健一君は何処を守備してたんだっけ?」
 
 
 乗せられるように会話が進んでいく事に、健一は焦りを覚えた。青柳が向ける質問は、健一に容易く答えれるものばかりで、むしろ健一が自ら答えたいと思えるものばかりなのだ。
 
 自分が人並みな会話に飢えていた事を、健一はこの時始めて自覚した。学校の友達とするような他愛もない話は、心臓の皹に染み入るようだった。
 
 右手で胸元を抑えながら、自分の口が意思とは反対になめらかに動くことに焦燥を覚える。
 
 駄目だ、会話しちゃいけない。こんな話をしていても、結局こいつらが聞きたいのは、吾妻の事なのだ。吾妻を追い詰める情報を、健一から引き出そうとしているだけなのだ。
 
 そう解っているのに、口が勝手に動く。自分の身体が思うように動かない。嫌だ、眩暈がする。
 
 
「へぇ、そうなんだ。やっぱり僕も野球やってみたいな。今度一緒に野球やらない? キャッチボールでもいいからさ」
 
 
 青柳の口から出たキャッチボールという単語に、一瞬息が止まる。唐突に固まった健一を眺めて、青柳がきょとんと双眸を瞬かせる。
 
 
「きゃ、ッチボールは、しない」
「どうして?」
「嫌い、だから」
「でも、お父さんとはよくしてただろう?」
 
 
 お父さん、何の躊躇いもなく出された言葉に、健一は咽喉を引き攣らせた。お父さんは、お父さんは、お父さんは、
 
 
「お父さん、は、もう、いない、から」
「どうして?」
「どうして、って」
 
 
 青柳はにっこりと楽しそうに微笑んでいる。健一は、額から意図せず脂汗が滲んでくるのを感じた。
 
 呼吸の間隔が分からなくなって、鼓動が乱れる。呼吸困難でも起こしたかのように、息苦しさに襲われた。両手で自身の胸倉を掴んだまま、健一はひゅうひゅうと咽喉を鳴らした。
 
 保田が慌てたように健一の肩を掴む。その手に、酷いフラッシュバックが起こった。
 
 写真に映った黒い塊、人の形をして折り重なり合っていた。それは一日前まで、健一と笑い合っていた家族の姿だ。面影など欠片もない。溶けて炭化した三つの顔がじっと健一を見つめる。嗚呼、お父さん、お母さん、お姉ちゃん。吾妻の声が耳元で蘇る。
 
 
『――コンガリジューシー』
 
 
「わ、あぁ!」
 
 
 咽喉から恐怖にまみれた自分の叫び声が迸る。肩に置かれた保田の手を無我夢中で払い除けながら、健一は見開いた眼差しの向こうに、吾妻の微笑みを見た気がした。寂しそうに微笑みながら、健一を暗い泥沼へと引き摺り込む男。その男がその男が、今目の前に――
 
 感情の抑制が利かず、身体が勝手に動く。手元に転がっていた細長い何かを手に掴んで、振り上げる。『それ』を勢いのまま振り下ろし、目の前の顔へと突き刺そうとした。
 
 目玉へと突き刺さる、と思った瞬間、バンと鈍い音が響いて、健一の手は机に叩き付けられていた。七原女史の手が健一の手を取り押さえている。『掴んでいた箸』が机の上をコロコロと転がるのが視界の端に映る。
 
 額から酷いぐらいの冷汗を滲ませながら、健一は極限まで開いた眼球で目の前の男を凝視した。吾妻だと思っていた微笑みは、青柳のものだった。青柳がまるで哀れむように、健一の汗ばむ頬へと掌を滑らせる。
 
 
「君は弱いね。それで助けなんか要らないなんて、よく言えたものだ」
 
 
 青柳の言葉が杭のように心臓に突き刺さる。健一は、ひくりと咽喉を震わせた。青柳は、演技がかった仕草でゆっくりと目線を下げると、唇を微か嘲笑に歪めて吐き捨てた。
 
 
「君一人で何が出来るんだい? 拗ねた顔して、生意気言ってりゃ誰かが慰めてくれるとでも思ってるのか? 同情が嫌い? 何を言ってるんだ。じゃあ、君のその顔は何だい? 立派な被害者面じゃないか。助けられなかったことに不平不満や愚痴ばかり零して、何で早く助けてくれなかったんですか、助けてくれなかったから僕はこうなったんです、お前らが駄目だからなんです、って喚いているだけ。自分では何もできないくせに。下らない、お前みたいなガキは本当に下らない」
 
 
 まるで健一の息の根をとめるような、残酷な言葉の嵐だった。
 
 瞬きを忘れる。カラカラに乾いた目がじっと青柳を凝視する。健一は、何も言えなかった。何も答えられなかった。泣き喚くことも、怒り狂うことも出来なかった。何故なら、青柳の言葉は紛れもなく正しいからだ。父親の話だけで、簡単に取り乱し、馬鹿げた暴力を奮おうとする。そんな人間に、一体何が出来る。援助や慰めを撥ね除けて、一匹狼を気取っているだけの阿呆で無力なガキでしかない。
 
 そうして、硬直している健一の耳元に唇を寄せて、青柳は〝その言葉〟を囁いた。
 
 
「ねぇ、健一君。『ゴウカン』って知ってる?」
 
 
 言葉が鼓膜を通って、脳味噌へと潜り込んでくる。その瞬間、健一は、継ぎ接ぎだらけだった自分の心臓が無残に千切れる音を利いた。
 
 
 びり、びりりぃ、びりりりりりり――
 
 
 唇を薄く開いたまま、健一は息をすることを忘れた。自分の身体がただの肉の塊になったような感覚。吾妻に犯された時感じた、あの全身を支配する無力感と絶望が記憶の底から無理矢理掘り起こされる。
 
 肩を押さえつける大きな掌、射精すら知らなかった性器を柔らかい咥内で甚振られる不快感、そうして内臓を押し開いて突き入れられた熱の痛み、痛み、痛み、痛い、いたい、いたいいたいいたいいたいいたいいたいいいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃいぃい、
 
 
「い、だ、ぃ」
 
 
 咽喉の奥から震えるように声が零れ出す。七原に取り押さえられたままの掌が机の上でカタカタと震えている。額から滲んできた汗がぽたぽたと机の上に落ちた。
 
 
「何が痛いの?」
 
 
 耳朶をねぶるような生ぬるさで、青柳が言葉を紡ぐ。その微笑みは、残酷なまでに優しい。
 
 
「お、なか」
「どうして、お腹が痛いのかな?」
「あいつ、が」
 
 
 あいつが、俺をゴウカンする。俺を殴って、蹴り飛ばして、池に沈める。俺の大事な人達を殺して、俺をこの世界に独りぼっちにする。
 
 背骨がぶるぶると震えて、身体を真っ直ぐに保てなくなった。机すれすれまで額を寄せて、溺れるように呼吸を必死で繰り返す。取り押さえられた手の指先が苦しさのあまり、机の表面を掻き毟る。ガリガリと聞こえてくる音が不快で堪らない。
 
 
「あいつが?」
「あいつが、お、れを」
「あいつが俺を、どうするんだい?」
 
 
 操られている。見えない糸が健一の身体を雁字搦めに縛り付けて、男の思うままに操る。ひくりと唇が震えて、男が望む言葉を吐き出そうとする。『それ』を認めれば、もう二度と吾妻を殺すことは出来ない。嗚呼、俺は復讐すらすることが出来ないのか。
 
 咽喉が掠れた音を吐き出そうとした瞬間、背後から様子を窺っていた沼野が小声でぼそりと呟いた。
 
 
「ケツにぶちこまれたって言えよ、ガキが」
 
 
 皮膚が粟立つ。込み上げたのは怒りというよりも悲しみだ。こいつらは全部全部知ってる。皆、俺がどんな目にあったのか知ってる。
 
 いや、いや、いやだ、俺は誰にも知られたくない。誰にも知られたくなかったんだ。男なのに、犯されて、嬲られて、男の愛人にされて、こんな、こんなの、いやだぁあ――
 
 
「いい加減にして下さい!」
 
 
 不意に泣き声じみた叫び声があがった。背後を振り返れば、顔面を真っ青に染めた保田がぶるぶると拳を震わせていた。まるで強大な敵に立ち向かうアリのように、その姿は弱々しかった。しかし、その一方で保田の目尻は怒りで真っ赤に染まっている。保田が怯えを含みながらも決然とした声で言う。
 
 
「皆さんは、何を考えてるんですか」
「私達は職務を全うしようとしているだけです」
 
 
 七原が冷めた声で答える。
 
 
「そのためなら、人を傷付けていいんですか? 彼を何だと思ってるんですか!」
「彼は、重要な参考人です」
「彼は物じゃないんですよ! 健一君は、心を持った人間です!」
 
 
 最後の言葉は、咆哮に近かった。その声に、その言葉に、健一は不意に泣きたくなった。唇を押さえて、咽喉を小さく震わせる。
 
 悲しくいわけじゃないのに、どうしてだろう。泣きたい。涙も出ないのに、泣きたくて堪らない。どうして、こんなたった一言で胸が締め付けられるんだろう。
 
 保田が健一の掌を掴んで、足取り荒く歩き出す。自分の上司であろう三人に目もくれることなく、部屋から出て行く。
去り際、青柳の声が聞こえてきた。
 
 
「『復讐のつぎ』に行かないと、君は変われない」
 
 

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