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08 君は優しい

 
 熱い掌に腕を掴まれたまま、部屋の外へと連れて行かれる。安っぽい木造アパート二階の廊下を歩きながら、保田は未だ収まりきらない怒りを押し殺すように頬の内側を噛み締めていた。そのせいで微かに捩れた頬肉を斜め後ろから見上げながら、健一は温かいような苦しいような相反する感情を持て余していた。
 
 どうして、保田がこんなにも自分の事で怒ってくれるのか理解出来ない。こんな見ず知らずの子供を上司に逆らってまで助けようとする、その無償の優しさに微かに胸が締め付けられる。
 
 期待しては駄目なのに、誰も信じたくないのに、固く凍っていた心が健一の意思に反して柔らかくほどけていく。優しくしないで欲しい。自分が人間だということを思い出させないで欲しい。そうじゃないと、また同じ過ちを繰り返すことになる。
 
 他人に優しくされることに慣れると、考え方が甘くなってしまう。そうやって、健一は吾妻みたいな犬畜生に同情して、一番大事な人を失うという最低な結果に陥ってしまったのだ。真昼という大事な女の子を。
 
 真昼、という名前がざわりと皮膚を撫ぜる。脳裏を過ったのは、あの日の記憶だ。宙にぶら下がっていた真昼の身体、伏せられた光のない瞳、漂う甘い花の香り。それは健一の脳味噌に鮮明に鮮烈に焼き付いている。そうして、きっと一生消えることはない。
怖気にも似た感情が喉元まで這い上がってきて、健一は咄嗟に保田の手を振り払った。保田が驚いたように健一を振り返る。
 
 
「健一君?」
 
 
 訝しげな声に、言葉を返すことが出来ない。保田に掴まれていた腕をもう片方の手で握り締める。温かく、湿っている。ぬくもりまでは振り払えない。それが息が詰まりそうなぐらい苦しい。
 
 
「…何で、放っといてくれないんだ」
 
 
 掠れた声が零れる。自分でもぞっとするぐらい憎々しさと弱々しさが入り混じった不安定な声だった。
 
 保田が寂しそうに目を伏せる。その力ない表情を睨み付けて、健一は声を張り上げた。
 
 
「何で、みんな放っといてくれないんだ! 俺は、俺は誰も必要じゃないのに! お前らなんか要らないのに! それなのに、何で俺の知らないところで俺を助けようとしたり、俺を追い詰めたりするんだ! 俺はッ、俺は、誰も信じたくなんかない! 誰もだ! 警察も! あんたも!」
 
 
 頑是のいかない子供のように喚いている、そんな自分が嫌で堪らない。吐き出し終わった瞬間、健一の全身を覆ったのは紛れもない自己嫌悪だ。抑えようのない自分自身への嫌悪に、皮膚が粟立つ。
 
 
「…でも、君を助けたい」
「助けようとしたって意味はない」
「君は優しい」
 
 
 不意に、保田が健一の瞳を真っ直ぐ見つめた。脈絡なく吐き出された言葉は、保田の真っ直ぐな心そのものを映し出したようで、健一はたじろいだ。引き攣った笑みを唇に微かに乗せて、首を左右に振る。
 
 
「何言ってんだ。優しいわけ、ないじゃん」
「君は、優しいよ。だから、人を拒絶するんだ。自分の苦しみに人を巻き込んだりしないように、自分ひとりで抱え込もうとしてる」
「都合の良い解釈は自由だけど、俺はそんなこと考えてない」
「君は、僕が泣いてる理由を尋ねてくれた。本当に優しくないなら、そんなこと聞いたしないよ」
 
 
 保田の勝手な思い込みを、健一は鼻で哂った。哂ったはずだった。それなのに、唇が惨めに痙攣した。
 
 自分が優しいわけがない。吾妻を殺そうとしている。何の罪もない人間を刺した。真昼を殺した。優しいだなんて、そんな事があってたまるか! 苛立ちが皮膚を突き破るようにして込み上げてくる。
 
 
「優しさなんかいらない」
「え?」
 
 
 くぐもった声で漏らす。聞き取れなかったのか、保田が怪訝な表情で健一を見据えた。その瞳を一直線に睨み付けて、健一は臓腑を吐き出すように言った。
 
 
「俺のことを優しいって言った奴があんたの他にもいたよ。俺は汚れてない、俺に幸せになって欲しいって言ったそいつに、俺は汚いって言ったんだ。お前汚い、って。その後、そいつは野垂れ死んだ。――これでも、俺は優しいのか?」
 
 
 保田が息を呑む。見開かれた目を鼻白んだ思いで見つめて、健一は保田の横をすり抜けようとした。その時、不意に背後から聞き覚えのない声が聞こえてきた。
 
 
「保田さん、朝からどうかしたんですかぁ…」
 
 
 語尾が不明瞭な、皮膚の表面をねっとりと舐め上げるような粘着いた声だった。保田の部屋の隣、階段手前の部屋のドアが薄っすらと開いている。その隙間から、油っぽい髪をした男が健一達の姿を窺っていた。身体が中途半端に太く、厚ぼったい唇がやけに強欲に見える男だった。保田が男を見て、あからさまに不愉快そうに顔を歪める。
 
 
「すいません伊藤さん、何でもないので気にしないで下さい」
 
 
 先ほどの気弱そうな姿からは想像も付かないほど、冷めた声だった。保田は何処か睥睨するように伊藤という男を見据えている。
 
 伊藤は、そんな保田の態度を気にも留めず、今度は健一へと視線を向けてきた。三日月形に湾曲した眼差しが健一の身体の上を這い回る。上から下まで舐めるように見回し、それからぐにゃりと唇を歪めた。その獲物でも見るかのような表情に鳥肌が立つ。
 
 
「君、誰かなぁ…」
「貴方には関係ないです」
 
 
 撥ね付けるように保田が答える。露骨な拒絶だった。しかし、伊藤のにやにやとした嫌らしい笑みは変わらない。むしろ、保田の反応を楽しんでいるようにすら思えた。
 
 
「ねぇ、ボクの部屋で遊んでいかない…? ゲームもたくさんあるんだよ…」
「ゲーム?」
 
 
 思わず問い返したのは、ゲームをやりたかったからではなく、酷く懐かしい単語だったからだ。半年前までは学校の帰りに友達の家に集まっては、皆で対戦ゲームをしていた。思い出が走馬灯のように浮かんでは消えていく。
 
 反芻した健一の様子に、伊藤は嬉しそうに目を細めた。
 
 
「そう、マリオカートとか、三國無双とか、やったことあるぅ?」
「…あるけど」
「じゃあ、おいでよぉ」
 
 
 伊藤が扉から腕を突き出して、健一の手首を掴む。ぶにゃりと肉に包まれたような気色悪い感触が広がる。汗と体液でじっとりと粘着いた掌に、一瞬悪寒が走った。伊藤は掌に悠々と収まる健一の手首に、感嘆したように呟いた。
 
 
「君、腕細いなぁ…。いいよねぇ、子供ってどこもかしこも小さく作られてて…」
 
 
 まるでフィギアのパーツでも触っているかのような夢見心地な口調だった。健一の手首を掴んだ伊藤の太い親指は、皮膚の感触を確かめるように手首の内側を撫でている。その動脈を探るような隠微な触れ方に、うなじがぞわりと粟立つ。
 
 拒絶の言葉を吐き出そうとしたとき、不意にもう一方の腕を引っ張られた。保田が伊藤の手から健一を取り返す。尖った眼差しが伊藤を睨み付けている。
 
 
「いい加減にして下さい、伊藤さん。この子をからかわないで下さい」
「からかってなんかないよ、遊ぼうとしただけだよぉ」
「遊ぼうとしただけ?」
「保田さんも、昔は保育士さんだったんだよねぇ。なんていったかなぁ、リョータくぅん?」
 
 
 伊藤の口から零れた名前に、保田の身体が強張る。その様子に、伊藤の卑しい嗤いが深まった。
 
 
「あの子も可愛かったですよねぇ。殺されちゃったなんて残念ですよねぇ。犯人はまだ捕まらないんですかねぇ」
 
 
 まるで舌先で嬲るかのように伊藤は嗤いを含んだ声音で言った。保田の肩が怒りに隆起する。保田が射殺しそうな眼差しで、伊藤を睨み付けていた。それは先ほどまでの弱々しい姿からは想像も出来ないほどの保田の禍々しい憎悪だった。視線だけで解る。保田は、きっと伊藤を殺したがっている。
 
 
「何が言いたいんですか」
「早く犯人捕まるといいですねぇ…。きっと犯人はショタコンでロリコンの変態野郎ですよ…」
「貴方みたいな?」
 
 
 喧嘩を売るような保田の言葉に、健一は酷く驚いた。保田がそんな敵意を剥き出しにした言葉を吐くとは想像もしてなかった。
 
 保田は健一の視線に気付くと、微かにバツが悪そうに顔を歪めた。立て付けの悪いドアをキィキィと揺らしながら、伊藤がぶっふっふっと濁った笑い声を上げる。
 
 
「そうですねぇ…そうかもしれないですねぇ…」
「すいません、急ぎますので、これで失礼します」
 
 
 保田は、あっさりと会話を切り捨てた。健一の手を握り締めて、伊藤への挨拶もないままに階段を足早に降りて行く。
 
 肩越しに振り返ると、伊藤がにたにたと嗤いながら手を振っていた。
 
 
「またねぇ」
 
 
 皮膚に絡み付くような声音に、ひくりと咽喉が上下する。保田が振り返らないまま、荒々しい口調で吐き捨てる。
 
 
「また、なんかあって堪るか」
 
 

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