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09 忘却 *軽暴力描写有

 
「健一」
 
 
 階段を降りたところで、嫌な声が聞こえた。視線を上げると、アパートの前に止まっている黒ずくめの車が見えた。
 
 その車のウィンドウから、見覚えのある顔が覗いている。髪の毛を後ろに撫で付けて、サングラスをしているけれども、健一には誰だか判る。
 
 吾妻がニコニコとわざとらしい程の笑みを口元に浮かべて、健一を見つめていた。保田が吾妻を見て、身体を強張らせるのが伝わって来る。
 
 
「健一、心配したよ。一緒に帰ろう?」
 
 
 ゆるやかに差し伸べられる手に、唾を吐き掛けてやりたい。突っ立ったまま動かない健一に焦れたのか、吾妻が強調するように言う。
 
 
「おいで」
 
 
 その言葉に反応したのは、健一ではなく保田だった。保田がぎゅっと健一の腕を握り締めたまま、訴えかけるような強い眼差しで健一を見つめて来る。
 
 
「行っちゃ駄目だ」
 
 
 語り掛けられる言葉は真っ直ぐなものだ。その声は吾妻にも聞こえたのか、吾妻が何処かせせら笑うように保田を眺めた。見せつけるように、吾妻はゆっくりと首を傾げる。
 
 
「健一を返して貰えませんか、保田さん」
 
 
 保田が目を剥く。どうして名前を知っているのかと言わんばかりの表情に、吾妻が咽喉を鳴らして嗤った。
 
 
「貴方がたがうちのことを知っているように、うちだって貴方がたのことをよく知っているんですよ。元保父の刑事さんというのは随分と珍しいものですね。ですが、健一は貴方の受け持ちの幼稚園児ではありませんよ」
「そんなのは解っています」
「なら、返して下さい。健一は、僕のものです」
 
 
 傲岸な吾妻の台詞に、保田が奥歯をぐっと噛み締めた。保田の中で、何かが膨れ上がって行くのが見える。
 
 
「健一君は貴方のものじゃない。誰のものでもなく、彼自身のものだ」
 
 
 吐き出された怒りの言葉に、健一は再び心臓の辺りが疼くのを感じた。掌をそっと左胸の辺りに押し当てる。確かな鼓動が掌を叩く。
 
 吾妻が皮肉げに頬を歪める。
 
 
「甘っちょろい考えを持ったマルボウもいたもんだ。そんな糞正直でやっていけんのかよ、なァ」
 
 
 突然吾妻の口調が崩れた。先ほどまでの穏やかさが消えて、新たに現れたのは他人を這いずり落とし、喰い殺す獣だ。サングラス越しに吾妻の凍った眼差しが見えるようで、健一はぞっとした。
 
 保田の筋肉が硬直している。しかし、一歩も退かないとでも言いたげに、右足は一歩前に出されていた。
 
 
「健一君を解放して下さい。この子は子供だ。まだ真っ当な世界に戻すことが出来る」
「戻れねぇよ。それは健一が一番よく知ってる。ねぇ、健一?」
 
 
 不意に会話の矛先が向けられたことに、健一は狼狽した。吾妻はサングラスを外すと、そっと健一を見遣った。
 
 しかし、吾妻の視線は健一を見ているようで、僅かにズレている。その視線の先を辿って行くと、保田に掴まれた健一の腕へと一身に向けられていた。まるで視線で、腕をねっとりと締め上げられているようだ。その視線から覗くのは、吾妻の煮え滾るような嫉妬だ。たかだか腕を掴まれたぐらいで、吾妻は保田に対して嬲り殺しにしそうなほどの嫉妬心を抱いているのだ。
 
 全身を凍えさせるような恐怖に駆られ、健一は咄嗟に保田の手を振り払った。保田がはっとしたように健一へと視線を落とす。その傷付いた眼差しに、ぐっと息が詰まった。
 
 
「俺は…」
 
 
 言葉が咽喉に詰まって出てこない。
 
 戻りたい。でも、戻れない。だって、もう被害者じゃない。人を刺した感触は、確かに健一の手に残っていた。顔面に血が噴き付いて、皮膚をどろりと流れ落ちて行く感触。憎悪が全身を支配して、内側から自分という存在が喰い破られていく感覚。
 
 笑い方を忘れてしまった。泣き方を忘れてしまった。大好きな人を、家族を失ってしまった。それで、どうやって元に戻れるんだろうか。どうやったら、笑って生きていけるんだろうか。
 
 込み上げて来る虚無が身体を押し潰す。遣る瀬無さと悲しみばかりが内側に篭って、破裂してしまいそうだ。
 
 
「もう、元に戻れない」
 
 
 呟いた言葉は、諦念にまみれて酷く弱々しかった。保田が悲しげに眉尻を落とす。
 
 何か言いたげに開かれた唇が言葉を発する前に、健一は吾妻の元へと走った。吾妻の顔が勝利の喜びに彩られているのが悔しくてたまらない。だけど、もう元に戻れない自分には此処しか行く場所がない。吾妻の元で、吾妻を殺すしか。
 
 吾妻がドアを大きく開いて、健一を迎え入れる。健一はドアに手を掛けたところで、ふと後ろを振り返った。
 
 アパート二階の廊下の柵に寄り掛かって、青柳ら三人がこちらを見下ろしていた。健一が見ていることに気付くと、青柳はゆったりと微笑んで、気安げに手を振ってきた。
 
 だが、その目が見ているのは、健一ではなく吾妻だ。吾妻も青柳に気付くと、何処か困ったような面映い表情を滲ませて微笑んだ。まるで懐かしい同級生にでも会ったかのような表情だった。
 
 保田は泣き出しそうな表情で、じっと俯いていた。掴み切れなかったものを尚も諦められないように、拳を固く握り締めている。
 
 健一は、保田に何か一言言いたかった。自分を盲目的に助けてようとするこの真っ直ぐな男に、何か言いたくてたまらない。唇が微かに戦慄いた。
 
 
「俺のこと人間って言ってくれて、ありがとう」
 
 
 保田がはっと顔を上げると同時に、車のドアが閉まった。直ぐに車が発進する。その後ろから、保田の切実な叫び声が聞こえてきた。
 
 
「君は、優しい! 絶対に優しい! 今は心が暗い場所にいるかもしれない! だけど、光のある場所に行けば、きっと元に戻れる! いつか、必ず戻れるんだ!」
 
 
 希望の言葉だった。健一は車の中でぐっと背中を丸めて、膝に額を押し当てた。こんな自分でも、まだ戻れると信じてくれる人間がいることが嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、それなのに苦しいくらい悲しかった。
 
 まだ戻れるんだろうか。伸樹と野球をして、家で家族が待ってくれている。そうして、真昼が――
 
 
「死んだよ」
 
 
 不意に冷めた声が突き刺さった。吾妻がシートに背中を浅く埋めたまま、冷ややかな目付きで健一を眺めている。
 
 
「みんな死んだんだ。健一は戻れない。僕のところにしか戻れない」
 
 
 まるで子供に言い聞かせるかのような声音だった。吾妻が口角を嗤いに歪める。まるで健一の浅はかな希望を嘲笑うかのように。
 
 
「もう無駄な期待をして苦しみたくないでしょ? 誰かを信じて裏切られるのは嫌でしょ? だから、健一は僕の傍にずっといるしかないんだ。そうすれば、苦しむことなんかなくなる。そう、全部忘れちゃうんだよ」
 
 
 ぞっとするほど冷たい指先が健一の頬をそっと撫でる。健一は悪寒にかられて、シートの上を後ずさった。背骨に固いドアの感触が当たる。
 
 
「忘れる?」
「そう、誰だって苦しむのは嫌だ。悲しいことは忘れてしまいたい。だから、忘れちゃえばいいんだ。友達のことも、家族のことも、真昼のことも、全部全部」
 
 
 健一の脳味噌に染み込ませるように、吾妻は全部全部と何度も繰り返した。譫言のように囁かれる言葉に、ぐらりと意識が掠れて行く。
 
 虚ろな脳味噌がどちらが幸せなのかを判断しようと、ぐるりぐるりと遅いスピードで回転する。忘れてしまえば、もう苦しまなくて済むのか。忘れてしまえば、幸せになれるのだろうか。伸樹も家族も真昼も忘れて、犯されれば犯されたことも忘れて、殴られれば殴られたことも忘れて、恨みも悲しみもすべて忘れ去って――違う、本当に忘れたいのはそんなものじゃない。
 
 
「――俺は、お前のことを忘れたい」
 
 
 無意識に吐き捨てた言葉は、健一の心の声だった。吾妻を忘れれば、すべてを終らせることが出来る気がした。胸の内に巣食う薄汚い感情が消えて、ただ純粋にすべてを受け容れることが出来る気がした。
 
 吾妻が悲しげに微笑む。そうして、酷く掠れた声で漏らした。
 
 
「健一は忘れないよ。きっと一生忘れない。それだけが僕の消えない宝物なんだ」
 
 
 まるで祈るように呟き、それから吾妻は健一の首筋へと顔を寄せた。その唐突な動きに、健一は全身をギクリと硬直させた。吾妻が鼻をすんと動かして、それから微かに怒りを滲ませた低い声で呟く。
 
 
「他の男の臭いがする」
 
 
 その言葉の意味を理解する前に、こめかみに衝撃が走った。ガッという頭蓋骨が叩き割られたような音が鼓膜の内側に響く。脳味噌をぐちゃぐちゃに掻き回されたかのような痛みと眩暈が交互に襲ってくる。あまりの苦痛に眼球がぐるりと裏返りそうになった。
 
 防弾ガラスで作られたウィンドウに、薄らと血がこびり付いているのがぼやけた視界に映る。どうやらこめかみをウィンドウに叩き付けられたらしいと気がついた時には、もう身体に力が入らなかった。
 
 頭上で吾妻が泣き出しそうに微笑んでいる。
 
 
「健一、僕の傍にいて。僕から離れないで。僕を、キャッチしてよ」
 
 
 馬鹿野郎と吐き捨てようと思ったが、唇が動かなかった。目蓋の裏側で、極彩色のネオンが踊り狂う。だが、それも直ぐに暗闇に呑み込まれて、何も見えなくなった。
 
 

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