Skip to content →

10 タイル *暴力描写

 
 濁流の中に巻き込まれていた。
 
 顔面に水が叩き付けられる衝撃で、目が覚めた。驚きに目を見開こうにも、水圧が直に眼球に当たるため目をあけられない。呻き声を零そうとしたが、口に何かが詰め込まれていて、まともに叫ぶことすら出来なかった。
 
 キンキンに冷えた水が服に染み込んで、身体から体温を奪っていく。身を捩っても、何かに絡め取られたように身動きが取れず、健一は悲鳴をあげた。
 
 
「ぐぅヴ、ヴぅー…!」
 
 咽喉からくぐもった呻き声が溢れ出る。途端、水流が僅かに弱まった。
 
 目をしばたかせて、周囲を見渡す。見覚えのある場所だ。そこは吾妻の自宅のバスルームだった。もどかしく身体を捩ると、両腕が背面で縛られているのが解った。
 
 そうして、タイルの上で横たわる健一を、吾妻が冷めた眼差しで見下ろしていた。その手には、シャワーヘッドが握られている。シャワーヘッドからは、未だちょろちょろと水が滴り落ちていた。
 
 
「起きた?」
 
 
 抑揚のない声音で、吾妻が問い掛けてくる。しかし、それは健一に対する問い掛けというよりも単なる独り言のように聞こえた。まるで物にでも話しかけているようだ。その声の響きに、皮膚に細やかな震えが走る。
 
 目を大きく見開いてシャワーヘッドを凝視すると、吾妻が何処か皮肉げな笑みを口角に滲ませた。
 
 
「ねぇ、あの刑事と寝たの?」
 
 
 まるで断罪するような声だと思った。だが、質問の意図が解らない。部屋に泊まったんだから、一緒に寝るぐらいは当たり前だろう。何故そこを責められるのかが健一には理解出来なかった。
 
 吾妻は、健一の顔の前にしゃがみ込むと、シャワーヘッドの先端で額を突っついてきた。固い金属が額にゴツゴツと当てられると、鈍い痛みが走る。
 
 
「臭い。臭いんだよ、健一。他の男の臭いがする健一は、堪らなく臭い」
 
 
 執拗に吾妻は繰り返し、それから不意にシャワーヘッドを振り上げると、健一の額へと大きく叩き付けた。
 
 衝撃、振動、ゴギッと頭蓋骨が割れるような音が脳内で響いて、目の前が真っ白になった。眼球が弾けるような鮮烈な痛みが走り、一瞬の墜落感に身体の感覚がなくなる。
 
 目を固く閉じたまま、必死で痛苦に耐える。荒くなった息が鼻から大きく漏れた。
 
 そうして、再び濁流に呑み込まれる。全身に真冬の水が叩き付けられ、否応なしに現実へと意識が引き戻される。毛穴が収縮し、熱せられていた額の痛みすら冷えていく。嫌がらせのつもりなのか、冷水は健一の腹部を中心にして掛けられていた。内臓が体温を除々に失って、ぎゅっと萎縮していく。身体が寒さにガタガタと震え始めていた。
 
 濁流が一度止む。震える眼差しで見上げると、相変わらず色のない瞳が健一を見下ろしていた。
 
 
「反省した?」
 
 
 緩く首を傾げて、空々しい台詞を投げ掛けてくる。口の中に詰め込まれていた布を引き出されると、途端にガチガチと歯の根が鳴り始めた。
 
 
「反省した?」
 
 
 同じ言葉が繰り返される。まるで子供のように健一を見詰める吾妻を睨み付けて、健一は震えながらも憎悪の篭った声で吐き捨てた。
 
 
「なんで、おれが反省しなきゃなんねぇんだよ畜生が。反省するのは手前の方だろうが。全部手前が悪いん…ヴゥ!」
 
 
 最後まで言えなかった。咥内へと再び布が突っ込まれて、声が殺される。
 
 吾妻が泣き出しそうな眼差しのまま、健一を見詰めてうっそりと微笑む。目と口とで、ちぐはぐな表情だった。まるで、パーツを間違えた福笑いのように不気味だ。
 
 
「全然、反省してないね。僕の気持ちがちゃんと伝わってないせいかな。どうやったら、健一は、反省してくれる? ねぇ」
 
 
 ねぇ、のところで、頬を思いっきり張り飛ばされた。詰め物が詰まっているせいか、頬からはボコンと鈍い音が響いた。風呂場の床の上を九十度回転して、タイルに額を押し付ける。ひりひりと痺れるような痛みに、眼球が潤んだ。
 
 
「暫く、そのまま反省して。ちゃんとごめんなさいって言えるようになったら、呼んでね」
 
 
 まるで子供を嗜めるような吾妻の声が聞こえる。
 
 ふざけるな、誰がごめんなさいなんて言って堪るか。何で、どうして、俺が謝らなくちゃいけない。俺は、何も悪くない。いつだって、どんな時だって、悪いのは手前じゃねぇか!
 
 腹の中で喚き散らされる言葉を、必死で噛み締める。冷えたタイルに熱を発し始めた頬を押し付けて、健一は頭の中で何度も同じ言葉を繰り返した。
 
 殺してやる、殺してやる、殺してやる……
 
 
 
 
 
 
 三時間後には、殆ど思考力を失っていた。ただ、寒いという酷く原始的な感情しか残っていなかった。
 
 まるで内臓自体が氷になってしまったかのような感覚。先ほどまでは指先が千切れるように痛んでいたが、今ではもう指の感覚すらない。指だけでなく、全身で感覚がある場所などもう残ってはいなかった。
 
 固まった関節を必死で動かして、身体を丸めたのは何時間前だろう。体温を守るための本能的な体勢だったが、結局僅かながらに残っていた体温は、床のタイルに根こそぎ奪われてしまった。カタカタと骨が芯から震えている。
 
 バスルームの蛍光灯が、タイルの上に横たわる健一を無慈悲に照らしている。その爛々と輝く灯りから温かさなど欠片も感じられない。
 
 
 寒い……
 
 
 飽きることなく脳味噌が惨めったらしい声をあげる。
 
 
 嗚呼、寒い寒い、寒くて堪らない。
 
 
 その寒さは既に痛みであり苦しみであった。そうして、同時に拷問だった。真冬の十二月に、冷水を浴びせ掛けられてバスルームに放置される。これが拷問でなかったら一体何なんだ。
 
 三時間経って、ようやく健一は吾妻の意図を理解していた。あいつは俺を苦しめる天才だとも思う。すべてを奪ってなお、こうやって地獄の苦しみを与えられるなんてある意味究極の才能だ。しかも、何が「ごめんなさいが言えるようになったら、呼んでね」だ。口に物を突っ込んでおいて、呼べるも糞もねぇだろうが畜生畜生畜生!
 
 吾妻の掌の上で弄ばれている自分を感じると、燃え滾るような憎悪が込み上げてきた。だが、それも直ぐに寒さにかき消される。ガタガタと大きく震える身体が思考を散らしていく。
 
 
 寒いよ、寒い、寒い、毛布が欲しい、温かい飲み物が欲しい、ホッカイロが欲しい、手袋が、マフラーが、コートが、友達が、家族が――
 
 
 今までは健一が寒いと一言言えば、家ではコタツが出され、温かい布団が出され、学校に行くときにはポケットにホッカイロが二、三個詰め込まれた。少しでも寒いと思えば、友達とじゃれ合って、押しくらまんじゅうをした。それが当たり前だった。だから、今まではこれほど寒いなんて思ったことはない。寒いからこそ、周りの温かさを感じられた。
 
 それなのに、今はどうだ。寒さを暖める術すらなく、ただひとり震えている。こうやってバスルームで放置され、凍え死のうとしている。一体、どうして何が変わってしまったのか。それとも、すべてが変わってしまったのか。
 
 凍えた目蓋の裏に、家族や友達の顔が過ぎる。それに真昼――もう誰もいない。ひとりぼっちだった。健一は孤独だった。救いは何処にもなかった。
 
 

backtopnext

Published in catch2

Top