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12 拒絶

 
 浴室の陵辱から二日間、健一は高熱を出して寝込んだ。
 
 虚ろな意識の中、夢うつつに指先に絡まってくる温度があった。その温度は、二三度健一の小指を掴んでは、触れることを恐れるように直ぐに離れていってしまう。しかし、最後には、母親のエプロンの裾を掴むように再び健一の小指をぎゅっと握り締める。
 
 健一は、それを高熱にうなされている際の幻覚か何かだと思っていたが、目覚めると、ベッドの縁に頭を乗せて眠る男が健一の小指を緩く握り締めていた。
 
 丸められた掌の中から小指を引き抜くと、吾妻は一瞬指先を丸めて、それからシーツをきつく握り締めた。まるで赤ん坊のような仕草だ。
 
 眠る吾妻の寝顔は、酷く穏やかだった。その寝顔に、紛れもない憎悪を覚える。包丁を持ってきて、このまま顔面をぐちゃぐちゃに切り裂いてやろうか。そんな悪態を、頭の中で吐き捨てる。
 
 だが、起き上がった瞬間にくらりと眩暈が走った。まともに頭が働かない。
 
 ふらふらと歩き、洗面所へと向かう。真っ直ぐ歩いているつもりなのに、足取りが蛇行する。身体が芯から熱ぼったく、だるい。力を抜いたら、地面へと爪先がめり込んでしまいそうな倦怠感が全身を包んでいた。着せられたパジャマが汗でべったりと皮膚に貼り付いているのも気持ちが悪い。
 
 浅い呼吸を繰り返しながら、洗面台の前に立ち竦む。ふと鏡に映る子供を、じっと見詰めてみる。ひ弱で臆病で、そのくせ目だけは死にかけの獣のようにギラギラと薄汚く光っていた。
 
 鏡に映る自分の頬へと指先を伸ばす。ひやりと硬質な感触がして、鏡に張り付いていた水滴がゆっくりと流れ落ちた。まるで鏡の中の自分が泣いているように見える。だが、実際には眼球はカラカラに乾いていて、涙なんて欠片も込み上げてこなかった。もう泣き方すら思い出せない。
 
 途端、自分の顔面に仮面が被せられているような気がした。まるで別人の皮膚が貼り付けられているようだ。顎先を指先で引っ掻く。ガリと肉が削れる音がして、顎先にぷくりと赤い球体が浮かんだ。球体はみるみる膨らんでいって、真っ白な洗面台に赤い血が滴る。
 
 視線を落とすと、自身の鎖骨に赤黒い痕があるのに気付いた。赤く汚れた指先で、そっと痕をなぞる。途端、ぞっとした。
忙しない手付きでパジャマのボタンを外すと、胸元だけでなく腹や腰骨の辺りにまで、その痕はあった。おそらく下半身にも。
 
 脳裏を蘇ったのは、健一の肌に吸い付く男の姿だ。健一の体内を深く穿ちながら、ただの肉の塊と化した健一へと吾妻が囁き掛ける。
 
 
『いつ産まれるのかな。楽しみだね』
 
 
 薄汚い精液の詰まった下腹を、そっと撫でるその手付きの優しいこと。在りもしない存在を慈しみ、撫でさするような。
 
 思い出した瞬間、咽喉の奥から込み上げてきた。
 
 
「ヴえ、ぇぇ…!」
 
 
 洗面台へと縋り付いて、健一は胃の中身を吐き散らかした。少量の溶けて形を成さない内応物と薄黄色の胃液が食道を焼きながら、白い洗面台の上へと撒き散らされる。背骨を戦慄かせながら、何度もえずく。
 
 あまりの苦しさに生理的な涙が滲んで、全身の震えが止まらなくなった。嘔吐しながら、下腹を掌で押さえる。
 
 嫌だ、吾妻との子供なんかできるわけない。産まれるわけない。
 
 そう解っているのに、恐怖が振り払えない。腹の中に何か得体の知れないものが寄生しているようで、おぞましくて堪らない。自分の内臓の隙間を、ぬるりと蛇のようなものが這っているような気がして鳥肌が立った。拳を下腹に押し込んで、頭の中で何度も繰り返す。
 
 いらない、いらない、こんなのいらない、欲しくない、産みたくない、
 
 気付いたら、下腹を拳で殴っていた。両手で代わる代わる腹を殴り付ける。自分が何か呟いているのにも暫く気付かなかった。ぶつぶつと呪文のように繰り返す。
 
 
「死ね死ね死ね死ね、死んじゃえ、お前なんかいらない、いらないから死ね、頼むから死んで、生まれるな、消えろ、死ね、死んで、お願いだから死んで――」
 
 
 痛みはなかった。その代わり、身を引き千切るような悲しみがあった。こんな風に、殺されるために出来る命なんかあるはずもないのに。それなのに、どうしても愛せない。吾妻との子供を愛することはできない。だから、殺すしかなかった。自分は人殺しになるんだ、と思った瞬間、途方もない罪悪が全身に纏わり付いた。
 
 
「いや、いやだ、やだやだ、…ごめん…、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」
 
 
 何度も囁き、腹を殴り続ける。声が震えて、言葉にならなくなる。生まれない子供が哀れでたまらなかった。生は無残だった。健一自身が生きていることも無残だった。
 
 腹の感覚がなくなってきた頃、そっと健一の腕を掴む手があった。
 
 
「――大丈夫、落ち着いて下さい」
 
 
 その優しげな声に聞き覚えがあった。振り向いた先に『壁』がしゃがみ込んでいた。健一は、その男の内臓の感触まで覚えている。
 
 横田は、健一の両手を掴むと、そっとその凍えた手を、大きな掌の中に包み込んだ。じんわりと体内に染み込むような柔らかい体温だった。
 
 
「ゆっくり、息を吸って下さい」
 
 
 促されるままに息を吸い込む。吐いて、と言われれば、同じように従った。暫く吸って吐いてを繰り返す。健一の呼吸が落ち着いた頃を見計らって、横田は洗面台脇に置かれていたグラスに水を注いで健一へと差し出した。
 
 
「口をゆすいでから、一口飲んで下さい」
 
 
 口の中へと水を含んで、うがいをして洗面台へと吐き出す。それから、水を咽喉へと流し込むと、すぅと身体の中に染み込んで行くのを感じた。
 
 横田が健一の額へと掌を押し当てて、ゆったりとした声で言う。
 
 
「朝よりかは熱も下がってますね。ベッドに戻りますが、立てますか?」
 
 
 問われる言葉に、小さく頷く。すると、横田はふっと頬を綻ばせるように微笑んだ。厳つい顔にはそぐわぬほど、柔らかな笑みだった。
 
 腕を引かれるままに立ち上がると、途端下腹が痛みに軋んだ。散々叩きのめした内臓がぐずぐずと膿むように痛む。腹を抱えて呻くと、横田はしゃがみ込んで健一の顔を覗き込んだ。
 
 
「自分が抱えて歩きましょうか?」
「…じぶんで、歩く」
 
 
 虚勢を張るように吐き出す。よろよろと覚束ない足取りで寝室へと戻る。そこには吾妻の姿はなかった。それを見て、ほっと息をつく。健一の安堵の息を聞きとめたように横田が早口で言う。
 
 
「真澄さんも先ほどまでずっと起きて健一さんの看病をしていたんですが、つい今しがた急用ができて出掛けられました。おそらく本日は戻ってこられないでしょう」
 
 
 恩着せがましいと思う。二日間看病をしていたから何だって言うんだ。原因はあいつじゃないか。そう思うと、憎悪と嫌悪に顔が歪んだ。
 
 促されるままにベッドへと上ると、途端胸元へと手を伸ばされて健一はギョッと身を仰け反らせた。だが、健一の狼狽など気にとめた様子もなく、横田は黙々とパジャマの上着のボタンをとめ始めた。いたるところに散った赤い痕に視線を止めることすらない。
 
 
「風邪がぶり返しますから」
 
 
 そう言いながら、甲斐甲斐しく動く。そのまま、見た目の無骨なイメージとは正反対に、横田は所帯くさく働き続けた。健一の体温を計り、額に冷えピタを貼り、素早く梅干入りの雑炊を用意した。
 
 
「薬飲む前に少しでも腹に何か入れてないと、胃が荒れますから」
「…作ったの?」
「すいません、残念ながらレトルトです。近頃はコンビニで何でも売っていて驚きます」
 
 
 思っていたよりも口数が多く、そうしてよく笑う男だった。
 
 横田がレンゲに少量の雑炊を掬って健一へと差し出す。健一は、水分を含んで膨張した米粒をじっと眺めてから、首を左右に振った。
 
 
「食いたくない」
「でも、食べて下さい」
「だから、食いたくないって」
「それでも、食べて下さい」
 
 
 丸っきり禅問答だ。下唇を噛み締めて、横田を睨み付ける。横田はレンゲを差し出したまま、ピクリとも動かない。
 
 結局、押し負けたのは健一だった。緩く溜息を吐いて、レンゲを受け取る。途端、横田が息をついた。
 
 
「無理して全部食わなくてもいいです。少しでもいいんで食えるだけ食って下さい」
 
 
 湯気をあげる雑炊をのろのろと口に含む。酸っぱいような甘いような、たんぱく質の味が舌の上を広がった。別段普通の味なのに、咽喉が詰まるぐらい美味しく感じた。ゆっくりゆっくりと食むように雑炊を噛み締める。横田がそんな健一の様子を長閑に眺めていた。
 
 
「薬を飲んでから、寝巻きも着替えましょう。汗で気持ち悪いと思いますんで」
 
 
 箪笥の引き出しから柔らかなスウェットを取り出して、ベッドへと置く。その甲斐甲斐しい姿は、ますます母親のようだ。レンゲを口に含んだまま、健一は横田を見上げた。
 
 数ヶ月前、健一は目の前の男を刺した。腕の肉を抉り、腹の内臓を突き刺した。本来なら恨み罵ってもいいはずの相手に、どうしてこんな献身的な対応をするのか。健一には理解できなかった。それとも、こうやって優しくすれば健一があの時の行いを反省するとでも思っているのか。
 
 
「俺は、謝らないよ」
 
 
 唇から無意識に言葉が零れていた。自分でも吃驚するぐらい罪悪感も申し訳なさも感じられない、はっきりとした声音だった。
 
 横田は一瞬理解出来ていないように目を瞬かせてから、ふと真顔になって頷いた。
 
 
「はい」
「俺は、あんたを刺したことを謝らない」
「はい、それでいいんです」
「あの時は、あんたの方が悪かった。アイツを庇ったりするから」
「それが自分の仕事です。自分は自分の役割を果たしただけに過ぎませんから、健一さんが謝る必要はありません」
 
 
 あっさりとした言葉だった。横田はベッドの真横に立つと、健一を真っ直ぐ見据えた。
 
 
「自分は、先日健一さんのお付きを命じられました。健一さんがもし自分に一言でも謝ったり、申し訳ない気持ちを出されれば、自分はそれを断るつもりでした。貴方が自分に少しでも罪悪感を感じているのなら、傍には居られません」
 
 
 健一の傍らに跪くと、横田はぐっと目を細めた。その奥二重の目の底から覗き見えるのは、健一に対する紛れもない敬意だ。十二歳の子供に対して傅きながら、横田は歯を覗かせて笑った。
 
 
「ですから、健一さんが謝らないことが自分は嬉しい」
 晴れやかな笑みだった。何処か釈然としないものを感じながら、健一はじっとりと下唇を噛み締めた。
「俺の、お付き?」
「はい、出来る限りの手伝いをさせてもらいます」
「イヤだ」
「どうしてですか?」
 
 
 戸惑った様子もなく、直球で訊ねてくる。その単純明快な言葉が妙に憎らしかった。頬を歪めながら、健一は答えた。
 
 
「あんたは、結局アイツの味方だから。あんたは最終的に俺じゃなくて、アイツを助けるんだろ? だったら、あんたは俺の敵だ」
 
 
 すっぱりと言い放つ。目の前の男は、おそらく悪人ではない。だが、健一にとっては間違いなく敵だった。吾妻に仕え、従う男は、健一を根本的に助けることは決してない。世話役と言っているが、監視役と同じ意味でしかない。そう思うと、鼻先でせせら笑いたくなった。
 
 横田は暫く黙り込んでから、そっと呟いた。
 
 
「健一さんは敵だと思うものを、すべて拒絶するつもりですか?」
 
 
 不意を突かれた。思いがけず、心臓に言葉が突き刺さった。
 
 一瞬唇を歪めて、それからぎこちなく頷く。頷かないといけない、と自分で思った。すると、横田は悲しげに眉を寄せた。
 
 
「健一さんには味方と思える人がいますか?」
「いない」
 
 
 即座に答える。もし健一に味方が本当にいるのであれば、こんな風に苦しんだりはしない。唯一味方だと思っていた真昼だって――
 
 
「味方は死ぬ。だから、いない方がいい」
 
 
 声が無様に震えた。下唇を薄く噛み締めて、胸の奥から込み上げてくる感情を抑える。
 
 味方は死んだ。殺された。健一を助けようとしたからだ。だから、健一は自分で自分を助ける。誰の手助けも必要としない。優しさなんか要らない。
 
 
「ですが、人はひとりきりで生きてはいけません」
「ひとりで生きたい」
「ひとりでは生きていけないんですよ」
 
 
 酷くさみしげな声で横田が繰り返す。その声から耳を塞ぎたかった。それは健一には残酷な言葉だった。
孤独は悲しい。だけど、あたたかいものを奪われるのには、もう耐え切れなかった。だったら、初めから寒いまま独りきりでいるほうがずっとマシだった。
 
 
「あんたに何がわかる」
「何も解りません。自分は、健一さんを助けることができるとは言えません。ですが、傍にいます。寄り添うことぐらいはできます。自分を傍に置いてやって下さい」
 
 
 息苦しさを覚えるぐらいひたむきな言葉だった。胸に何か重いものが詰まったようで、健一はぐっと背中を丸めて、毛布に顔を押し付けた。
 
 嫌だというのは簡単だった。だけど、言えなかった。言葉が咽喉に詰まって出てこず、微かに背筋が震えた。
 
 小刻みに震える背を、横田の掌がゆっくりと上下に撫でる。掌の感触が、ぬくもりが、切なくて悲しい。ぬくもりに喜びを感じるよりも、失うことへの恐怖や悲哀の方がずっと大きくて、そんな自分が一層惨めだった。
 
 

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