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16 拳銃

 
 駅まで、三時間近く歩いた。本当なら電車でもバスでも使いたいところだったけれども、よくよく考えてみればお金は一円も持っていなかった。自分が無一文なのに気付いた、というよりも、改めて認識した瞬間、健一の唇からは苦笑いが零れていた。
 
 何処かに行くのにも、何かを買うのにも、金が必要なのはずっと知っていたはずなのに、金の必要性に気付いていなかった。
 
 今まで健一のために金を使うのは両親だったし、何か物が欲しいときは両親に強請ればよかった。学費も、野球道具も、健一自身が払ったことなんか一度もない。
 
 吾妻に囚われてからは、殆ど外に出ることもなく、物欲が湧くこともなかったから、余計に金からは遠ざかっていた。
 
 だが、こうして独りになった瞬間、どれだけ金が重要なのかについて気付く。大人が目の色を変えて、貪欲に金を欲しがる理由がようやく解った。金がなければ、この世界を生きていけないのだ。
 
 どうしようもない遣る瀬無さを感じながら、健一は黙って歩き続けた。頭の中では、どうやって金を手に入れるかという考えがぷかぷかと現実味なく思い浮かんでは、泡のように消えていった。
 
 働こうにも、この歳じゃあ何処も雇ってくれないだろう。それなら、道端で物乞いでもすればいいのか。そんなの一日に千円も稼げる気がしない。宝くじを買って、一等賞を当てる? そんなのは夢みがちすぎて、どうにも阿呆らしい。そんなのは生活に疲れたサラリーマンが考えるような儚い空想でしかない。
 
 結局金の稼ぎ方が考え付かないままに、健一は駅まで辿り着いた。
 
 人気の少ない、小さな駅だった。改札口の横に、古ぼけた切符入れとインターホンが取り付けられていた。御用がある方は押して下さい、というポスターが貼られている。どうやら無人駅のようだ。
 
 周囲をうろうろと眺めれば、直ぐに青柳の言っていた男子トイレは見付かった。
 
 男子トイレには、個室が四つあった。三つは未使用で、一番奥の個室だけは扉が閉ざされている。小さな駅にしては、無駄に個室の数が多いな、なんて下らない事を考えながら、一番奥の個室の前に立つ。
 
 個室の扉は閉じられているが、人の気配は薄かった。ただ、耳を澄ませれば、微か潜めるような息遣いが聞こえてくる。呼吸器系が詰まっているのか、時々ヒュッと掠れるような呼吸音が混じる。
 
 健一は、人差し指第二関節でその扉を叩いた。トンと軽い音が響いたが、反応は返ってこない。もう一度、今度は二度続けざまに叩いた。それでも、反応は返ってこない。だが、気配がざわつくのは空気越しに確かに感じた。
 
 相手は、健一に気付いている。そうして、健一の反応を窺っている。
 
 
「欲しいものがある」
 
 
 そう短く言う。相変わらず返事はなく、ただ健一の言葉を待っているかのような気配はあった。
 
 そう告げると、暫く沈黙が流れた。個室の内側から微かな衣擦れの音が聞こえてくる。
 
 それから十数秒後、扉の下の隙間から一枚の紙が突き出された。しゃがみ込んで受け取る際に、一瞬だけ相手の手が垣間見えた。指の一本一本がぶくぶくに肥えているのに関節部分がきゅっと括れていて、太った芋虫を連想させられるような手だった。
 
 一瞬ぞわりと背筋が粟立つような感覚に襲われながら、メモを受け取る。メモには、乱雑な字でこう書いてあった。
 
 
【どこで知った】
 
 
 小学生が落書きしたような文字を解読するのに数秒必要だった。
 
 
「どこだっていいだろ? それより何を持ってきたら『それ』を寄越してくれる?」
 
 
 素っ気なく言い放つ。数十秒後、再びメモが差し出された。
 
 
【ひとつ二百五十万 金が用意できたらもってこい】
 
 
 それが高いのか安いのか、健一には区別が出来なかった。そもそも銃の相場どころか、今まで金の価値すら知らなかったのだ。二百五十万と、声に出さないままに咥内で呟いてみる。現実味はなく、こども銀行で使うようなオモチャのお金が脳裏に浮かぶ。
 
 
「解った」
 
 
 口では解ったとは言ったが、響きは空っぽだった。トイレから出る前に、空いていた個室の便器にメモを放り込んで流す。穴へと吸い込まれていく便水を眺めていると、不意にすべてを棄てたい気持ちになった。今すぐ裸になって、服も髪の毛も皮膚も剥ぎ取って流してしまいたい。だけど、そんな事をしたところで、現実からは一時も逃れることは出来ないのだろう。
 
 男子トイレから立ち去りながら、拳銃一丁二百五十万と頭の中で思い浮かべる。何だか存在しないものを追い求めているような空虚さが皮膚に纏わり付いて離れない。
 
 何故なら、何一つ信用できるものないからだ。青柳も信用ならない。個室の主だって信用ならない。誰も信用ならないくせに、それでも形のない銃を追い求めて金を用意しようと思っている自分は何なのだろうか。
 
 単なる馬鹿だな、と思えば、また苦笑いが零れた。もうそれは自己嫌悪に近かった。
 
 
 
 
 
 
 十二月になってから、日の暮れも早い。
 
 マンションに戻った頃には、もう辺りは暗闇に包まれていた。久しぶりに何時間も歩き続けたせいか、脹脛の辺りが重く感じる。数ヶ月前は、一日にぶっ続けで三試合連続出場しても平気だったのに。この暫くの期間で、ずいぶんと体力が落ちたものだ。
 
 冷気が首筋をざわざわと撫ぜて、皮膚に震えが走る。気休めに二の腕を擦りながら歩いていると、マンション入口の花壇に腰掛けている影が見えた。長い足を子供のようにぶらぶらと前後に揺らしながら、煙草を吸っている。煙草の先端に灯されたオレンジ色の火が暗闇に鮮やかに映った。
 
 影は健一に気付くと、慌てた様子で紫煙を吐き出してから、携帯灰皿の中へとまだ半分以上残っている煙草を放り込んだ。そうして、一拍置いてから声をあげる。
 
 
「おかえりなさい」
 
 
 吾妻が健一を見詰めていた。一週間ぶりに見る顔だった。
 
 途端、マンションへ向かっていた足が止まった。数メートルの距離を置いたまま、吾妻と対峙する。吾妻は、どうして健一が歩みを止めたのか理解出来ないかのように、小さく首を傾げた。
 
 
「おかえり」
 
 
 もう一度繰り返される。今度は酷く心細げな声だった。母親の帰りを待ち侘びていた子供のような。その声音に、激しい憎悪を覚えた。下唇を噛み締めて、押し黙る。
 
 
「帰りが遅いから心配してたんだよ。事故にあったんじゃないかって」
 
 
 事故になら今この時点であってる。吾妻と出会ったこと自体が健一にとっては事故だ。まだ車に真正面から突っ込まれる方がマシと思えるほどの最低最悪の事故だ。
 
 そう思った瞬間に、思い浮かぶ言葉があった。
 
 
「お前、俺が死ぬのが怖いのか?」
 
 
 一瞬吾妻の顔が強張った。頬肉がきゅっと引き攣って、眼球に滲んでいた悲哀に恐怖が色濃く滲む。それを見て、横田の言っていたことが本当だということを知る。こいつは俺が死ぬのが怖くて堪らないんだ。
 
 途端、嫌悪感と一緒に、微か恍惚に似た優越感が込み上げてきた。背筋がぞわぞわと悪寒ともつかないもので震える。
 
 
「何回も死ぬような目にあわせてきたくせに、くだらねぇな」
「けんいち」
 
 
 喘ぐように吾妻が健一の名を呼ぶ。溺れてる人間が助けを求めるような悲痛な声だ。
 
 吾妻の顔が泣き出しそうに歪んでいる。そんな表情は、心底見飽きた。同情すべき相手ではない事は、既に身に染みて解っている。こいつは同情したところで、恩を仇で返すような畜生だ。可哀想だなんて欠片も思わず、いっそ頭を水中に沈めてやるのが一番いいんだ。
 
 
「このまま失踪して、お前の知らないところで首吊って死んでやろうか。それとも、お前の見てる前で飛び降り自殺でもしてやろうか。そうしたら、お前はどうするんだろうな」
 
 
 もう吾妻は声も出ないようだった。唇をはくはくと二度三度開閉させて、見開いた目で健一を凝視している。その恐怖に塗れた顔に、胸がすっとした。吾妻のこんな顔が見れるなら、本当に今すぐ死んでやりたい気持ちにすらなる。トラックでも走ってくれば、その前に飛び出してやるのに。
 
 口元を笑みに歪めて、健一は吾妻の横をすり抜けた。そのまま、マンションの中へと入っていく。エレベーターが閉まる直前、マンションの入口の方を眺めた。
 
 そこには、項垂れた男がひとり背中を丸めて立っている。自分の仇とは思い難いほど、その姿は雨に濡れた捨て犬のように切なく哀れげだった。
 
 

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