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17 嗜虐

 
「どうしたら、死なないでくれる?」
 
 
 リビングのソファでテレビを見ていた時、背後から苦しげな声が聞こえた。肩越しに振り返ると、まだ水中で藻掻いてるらしき男がいた。
 
 吾妻は、靴下を履いていなかった。冷えたフローリングをひたりひたりと裸足で踏んで、吾妻が近寄ってくる。
 
 泣き出しそうな目がじっと健一を見詰めている。その目を見ていると、何故だか酷く憎憎しいような、何もかもを投げ出してしまいたいような気持ちになった。
 
 
「お前がこの世界から消えてなくなったら」
 
 
 一息に吐き捨てる。すると、吾妻の顔がくしゃくしゃに崩れた。泣き出す一歩手前の表情を眺めて、鼻で嗤う。
 
 
「嘘だよ、消えるぐらいで許したりしないから安心しろよ。お前が血反吐吐いて命乞いする姿見なきゃ、死んでも死に切れるもんか」
 
 
 それは紛れもない侮蔑と殺意の言葉だったのに、吾妻は安心したようにほっと息を漏らした。自分が殺されることよりも、健一が死なないことの方がこの男にとって重要なのかと思うと、奇妙な感覚に陥った。
 
 ソファに膝を立てて、背凭れに両腕をかける。その姿勢のまま、じっと吾妻を見上げた。
 
 
「そんなに俺のことが好き?」
 
 
 甘ったるい感情のない、好物は何かと聞くのと同じような淡白さで訊ねた。吾妻は、一瞬面食らったように目を大きく見開いて、それから目蓋を伏せて、少しだけ躊躇うように頷いた。
 
 
「すき、だよ」
 
 
 引き攣った声だった。ただ問い掛けられたから答えたとでも言いたげな口調だった。それがとてつもなく腹立たしかった。
 
 傍らのクッションを握り締めて、吾妻へと投げ付ける。吾妻は避けなかった。柔らかいクッションが顔面に当たって、眼鏡が床に落ちても、微動だにしなかった。
 
 
「もっと真剣に言えよ!」
 
 
 大声で怒鳴り散らす。こんな風に健一を捕らえておきながら、好意の言葉を曖昧に吐き出すその傲慢さやいい加減さが許せなかった。
 
 怒鳴りつけると、吾妻は伏せた目蓋を少しだけ震わせた。それから、ゆっくりと視線をあげると、健一を真っ直ぐ見て、こう言った。
 
 
「すき」
 
 
 幼稚園児のような、舌ったらずさを感じさせる言い方だった。そのまま、ふらりと吾妻は一度身体を揺らして、健一へと近付いてきた。
 
 ソファの前面へと回って、健一の頬へと手を伸ばす。その指先が触れる前に、健一は首を左右に振った。
 
 
「触るな」
「すき、です」
 
 
 拙い告白を繰り返す男をせせら嗤う。胸の内側がどす黒く染まっていくのが解る。
 
 
「俺に死んで欲しくない?」
「うん」
「なら、そこに土下座して頼んでみろよ」
 
 
 床をとんとんと軽く踏み締めて示す。吾妻は表情を変えぬまま健一を見つめて、そっと床に膝を着いた。それから、床に置かれた健一の足の甲へと、ゆるゆると額を押し付けた。まるで当たり前のことをしているかのような自然な動作だった。吾妻の額の体温がじわりと冷えた足に伝わってくる。
 
 
「お願いします。死なないで下さい」
 
 
 掠れた声が聞こえてくる。一瞬噴き出しそうになった。ソファに立てた片膝へと頬を押し当てて、喉元に込み上げてくる嘲笑を噛み締める。
 
 こんな十歳以上の年下の子供に対して、完全に平伏している姿も声音も、すべて馬鹿馬鹿しかった。丸っきり立場が逆転してしまったかのようだ。健一を支配している男が、今は健一に懇願しているという構図が途方もなく阿呆らしかった。
 
 嗜虐的な衝動が込み上げてきて、吾妻が額を押し付けている足、その指先で吾妻の鼻先を軽く蹴る。
 
 
「恥ずかしいとは思わないのかよ、こんな子供に土下座までして。プライドってもんがねぇのかよ。なぁ?」
 
 
 笑い声混じりのその声は、自分のものながら醜かった。吾妻は顔を上げない。吾妻の生ぬるい呼気が足の甲に吹きかかる。
 
 
「その格好のまま、俺のこと好きってもっかい言ってみろよ」
「…すきです」
「気っ色わりぃ!」
 
 
 好意を一息に踏み躙る。寄せられた告白を、鼻先で叩き潰すのが堪らなく面白かった。ざまぁみろざまぁみろと、脳味噌が笑い散らかす。
 
 腹を抱えて、けたけたと笑い声をあげていると、吾妻が緩く顔をあげた。捨てられた子犬のような、微かに濡れた瞳が健一を見上げる。
 
 
「健一、キスしたい」
「はぁ?」
「キスさせてください」
 
 
 くだらない願いだった。下顎を掌で支えながら、健一は吾妻を睥睨した。
 
 
「お前がそんなことお願いできる立場とでも思ってんの?」
「健一に触りたい」
「本気で気色悪いな。この間触っただろ、風呂場に縛ったまま放置して。死にかけるぐらい、俺のこと好き勝手にしたじゃねぇか」
「無理矢理じゃなくて、健一に望まれて触りたい」
 
 
 不意に、体内で何かがはちきれた。堪えようと思ったが、気付いた時には、吾妻の胸元を思いっきり蹴り飛ばしていた。吾妻の身体が後方へと倒れて、背がしたたかに机にぶつかる。ガタンッと大きな音が立って、こめかみの辺りにぐっと熱の塊が入った。
 
 
「ふざけんな、何で手前に触られるのを俺が望まなきゃなんねぇんだよ。今まで手前が俺にしてきたこと解ってんのかよ」
「わかってる、解ってるよ」
「解ってねぇよバァカ。解ってるなら、そんなこと言えるわけない。もっと慎ましやかに、粛々と、誠心誠意償おうとするはずだ。それなのに、お前はずっと俺に酷いことばっかするじゃねぇか」
「僕が健一にしたことは解ってる。ただ、どうすればいいのかが解らないんだ」
 
 
 その根本から成っていない言い訳に、思わず溜息が出てくる。首を緩く左右に振って、健一は吾妻から視線を逸らした。机に背を押し付けたまま俯く吾妻は、何とも惨めったらしかった。
 
 母親と喧嘩で負けた時の父親の姿を思い起こされる。寝室から追い出されて、数回扉を叩いた後に、項垂れた様子でリビングのソファへととぼとぼと歩いていく。冬のリビングは寒いのか、しきりにクシャミをして、薄い毛布に丸まって眠る、あの情けなくてたまらない姿。
 
 蘇った懐古に、燃えるような憎悪が噴き上がって来る。もう一度吾妻を蹴り飛ばそうと足を振り上げた瞬間、不意に頭に思い浮かんだことがあった。吾妻の太股へとぞんざいに踵を置いて、値踏みするように吾妻を眺める。
 
 
「俺にキスしたい、って?」
「はい」
 
 
 従順に吾妻は答えた。その様子に、頬に薄笑いが滲む。
 
 
「キス一回十万払うなら、いいよ」
 
 
 吾妻の膝頭を軽く蹴り飛ばして、素っ気なく言い放つ。言った瞬間、その言葉の馬鹿馬鹿しさに小さく嗤いが零れた。
 
 キス一回十万円だなんて阿呆らしすぎる。あまりにも現実味がない。
 
 勿論本気ではなかった。ただ、吾妻が狼狽する姿が見たかっただけだ。キスに十万出す人間がいるだなんて思いもしなかった。
 
 それなのに、吾妻は狼狽も困惑もしなかった。ただ、色褪せた顔色で、健一をじっと見詰めた。それから、そっと立ち上がって、別の部屋へと歩いていく。
 
 健一はその背中を眺めながら、くつくつと小さく笑っていた。吾妻が逃げ出したのだと思った。無茶な要求から、尻尾を巻いて逃げたのだと。
 
 だから、笑いが収まってテレビを見始めた時、頭の上からパラパラと紙が降って来たことに上手く反応が出来なかった。何が何だか解らず、膝や床の上に落ちた紙を呆然と眺める。それは、お正月にしか見たことのない紙幣だった。一度だけお年玉で貰ったことのある福沢諭吉が書かれた紙幣。
 
 背後には、吾妻が立っていた。掌からぱらぱらと一万円札を零しながら、何処か冷めた眼差しで健一を見下ろしている。
 
 
「とりあえず、十回分」
 
 
 吾妻の両手が背凭れへと掛けられる。ギシッとスプリングが軋む音が響いて、大きな影が健一の身体を覆っていった。
 
 

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