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18 代償 *R-15

 
 馬鹿げたことを言ったと、後悔だったら幾らでもできる。冗談だったと一笑に付すことだって、やろうと思えばできたはずだ。だけど、健一は何も言わなかった。
 
 肩の上に落ちた一万円札を指先で拾い上げて、小さく奥歯を噛み締めて考えた。頭の中に浮かんでいたのは、【ひとつ二百五十万】という文字だった。二百五十万円をどうやって用意するのか、それまでの健一には検討も付かなかった。だが、今目の前に百万円がある。健一が幾ら頭を捻ろうとも手に入れることの出来ないであろう金が、この手の中に。
 
 本当は、何考えてんだ、本気にしてんじゃねぇよ、薄気味悪ィんだよ糞が、と散々罵ってやりたい。だが、金のことを考えると、唇がどうにも動かなくなった。プライドと金を両天秤に掛けて、ぐらぐらと揺れる自分の心を感じた。そんな自分が情けなかった。
 
 吾妻が背後から掌を、そっと健一の肩へと添える。ひたりと張り付くようなその皮膚の感触に、一気に鳥肌が立つ。うなじの皮膚がぷつぷつと隆起して、腹の底で内臓が戦慄いた。
 
 身体が拒否反応を示す。これ以上触られたら、ましてやキスなんかされたら、吐いてしまうかもしれない。そんな予感すらした。
 
 咄嗟に、吾妻の掌を叩き落した。無意識の拒否反応だった。吾妻がきょとんと健一を眺める。その何故払われたのか理解出来ないとでも言いたげな眼差しに苛立つ。吾妻の顔を睨み付けながら、健一は唇を薄く震わせた。
 
 
「触るな」
 
 
 声が掠れた。吾妻は、一度首を傾いでから、落ち着き払った声音で呟いた。
 
 
「でも、言い出したのは健一だ。一回十万円、僕はちゃんと払った。払った以上、健一だって言ったことは守るべきだ」
 
 
 ぐ、と咽喉が詰まった。一瞬、怯んでしまった。吾妻の言っていることを真正面から否定することが出来なかった。冗談でも嫌がらせでも、そう言ってしまったのは健一本人なのだから。
 
 吾妻は、健一の怯みを見逃さなかった。今度は強引な手付きで健一の下顎を押さえると、そのまま唇に噛み付いてきた。殆ど獲物を食らうかのようだった。下唇に歯を立てられて、微かな痛みが走る。生ぬるい唇の温度が伝わってきて、全身の筋肉が怖気に蠕動した。
 
 吾妻の唇は、微かに湿っていた。そのくせ、微かにざらついた感触がした。何だか中途半端に温めた高野豆腐を、唇に押し当てられたような不愉快な感触だった。
 
 唇が暫く押し付けられて、それから離れる。至近距離から吾妻は健一の目を覗き込んで、それからソファの上に散らばった紙幣を乱雑に握り締めると、健一の胸へと押し付けた。
 
 
「まず、十万」
 
 
 酷く事務的な言い方だった。愛情など欠片もない、まるで決められたことをしているかのような響きがあった。それを聞いた瞬間に、健一も自分自身に強く言い聞かせることにした。
 
 これはビジネスだ。金を稼ぐための手段なんだ。一瞬、たった一瞬我慢すればいい。終わった後は、この時間を、この記憶を、人生の有害物として脳味噌のゴミ箱に捨ててしまえいい。これは『単なる作業』だ。
 
 緩く息を吐き出して、吾妻から顔を背ける。それは、諦念と紙一重の許諾だった。健一が自分の身体を投げ売った瞬間だった。
それを感じ取ったのか、吾妻の唇が耳の付け根に柔らかく落とされる。
 
 
「二十万」
 
 
 耳元で淡く囁かれる。隠微な響きに、ひくりと咽喉が戦慄く。震えを追うように、今度は喉元に口付けられた。まだ淡くしか浮いていない喉仏を、上下の唇で食んで、吾妻は三十万と小さく呟く。喉仏越しに、その声が体内へと響く。
 
 そのまま、顔の至るところに唇が落とされる。繰り返すうちに、吾妻の唇は熱く濡れていった。皮膚に吸い付くような感触に、不快感と紙一重の熱を覚える。気色悪いのに、嫌で堪らないのに、皮膚の下で熱が脈動し始める。
 
 そのくせ、指先や足先、身体の末端は氷ように冷たかった。身体や心がちぐはぐに動く、この感覚には何回経っても慣れない。
 
 鎖骨を噛まれて、びくりと身体が跳ねた。ギリギリと骨ごと噛み砕くかのように、歯が食い込んでくる。薄い皮膚が捻れて、破けるのを感じた。
 
 
「いっ、…!」
 
 
 非難するように、正面に回った吾妻の太腿をぞんざいに蹴り付ける。吾妻が飼い主の機嫌を窺う犬のような視線で健一を見上げる。その視線を睨み返せば、鎖骨を噛む力が弱まった。微かに滲んだ血を舌腹で緩く舐め上げて、懐くように健一の胸元へと頬を擦り寄せてくる。
 
 
「お前、犬かよ」
「健一の犬だよ」
 
 
 侮蔑の言葉に、吾妻は真顔で返した。ぐいと背筋を伸ばして顔を近付けたかと思うと、そのまま健一の口角をぺちゃりと舐めた。
 
 
「犬だったら、少しぐらい愛してくれるだろ?」
「お前が本当に犬だったら、今すぐ叩き殺してやる」
 
 
 甘ったるい言葉を、一瞬で叩き潰す。吾妻はぎゅっと目を細めて、それから気の抜けたような笑みを頬に浮かべた。丸っきり痴呆じみた微笑みだ。
 
 
「僕は未練がましい」
「あぁ?」
「愛されなくてもいいと思っていたはずなのに、未だに健一に愛されることを諦め切れない」
 
 
 その惨めったらしさに、思わず身体から力が抜けた。馬鹿じゃねぇのか、とせせら笑ってやりたいような、馬鹿だなぁ、と頭を撫でてやりたいような、複雑怪奇な感情が胸に押し寄せて、それから体内からだらっと溢れていく。
 
 結果、健一は虚脱した。唖然と吾妻を眺めていると、吾妻が縋り付くように健一の身体を掻き抱いた。
 
 
「すき、すきだよ、すき。僕以上に健一のことをすきになれる奴なんかいやしない」
 
 
 産毛が逆立った。耳の穴に直に吹き込まれる言葉は、まるで呪いのようだった。身体に絡まる両腕を振り解きたいのに、それは力を増して健一に絡み付いてくる。
 
 
「やめろ」
「健一に、優しくしたい」
「何、言ってんだ」
「それなのに、もっと酷い事をしてやりたいとも思う」
 
 
 僕のところまで堕ちてきて欲しい、と強請るように語られる言葉に、全身が戦慄いた。吾妻の掌が健一の背をゆるゆると撫でる。背骨を一つ一つ辿るような撫で方に、ぞっと鳥肌が立つ。
 
 潤んだ瞳が近付いてくる。恐る恐る唇を触れ合わせて、吾妻はゆっくりと舌先を咥内へと忍び込ませてきた。生ぬるくぬめった舌同士が一度絡まって、くちゃりと湿った音を立てる。歯列をそろそろとなぞって、飴玉をしゃぶるような丁寧な動きで咥内を舐め回された。
 
 
「…これで、百万」
 
 
 唾液の糸を伝わせながら、舌がそっと引き抜かれる。寂しげに囁かれたその言葉に、健一は大きく安堵の溜息を吐き出した。
 
 だが、次の瞬間、全身が強張った。吾妻の掌がズボン越しに股間に触れてきた。
 
 
「ふざけんなよ…、もう十回分終わっただろうが」
「ここにもキスしたい」
「死ね、死んじまえド腐れ野郎」
「もう百万出すって言ったら?」
 
 
 ひくっと咽喉が上下した。もう百万という単語に、脳味噌がぐらりと揺らぐ。吾妻の手には、いつの間にか札束が握り締められていた。健一の目元へと札束を掲げて、吾妻が首を傾げる。
 
 
「健一は座ってるだけでいい。目を閉じて、じっとしてれば直ぐに終わるよ」
 
 
 これは、健一を堕とす言葉だ。自分の身体を金で切り売りするようなものだ。屈辱的で、堪らなく自己嫌悪に苛まれる行為だ。
だが、後百万手に入れれば、二百五十万に限りなく近付く。その事実が健一を苦しめた。
 
 
「…キス以外は、何も、しないな?」
「しないよ」
 
 
 子供のような従順さで吾妻は答える。吾妻の手にある百万円の束を眺める。
 
 たった一瞬の我慢。別に、心まで売るわけじゃない。だから大丈夫、大丈夫、拳銃を手に入れたら直ぐにこいつの頭を吹っ飛ばしてやればいい。そうすれば、この屈辱だって直ぐに忘れられるはずだ。
 
 そう自分に言い聞かせながら、健一はぎこちなく頷いた。
 
 
「…さっさと、終わらせろ」
 
 
 平静を装って、素っ気なく言い放つ。だが、言葉に反して、心臓が不整脈を起こしたように滅茶苦茶な鼓動を打ち始めた。
 
 吾妻がゆったりとした動作で、健一のズボンへと手を掛ける。ジッパーが引き下ろされるジジッという微かな音に、皮膚がぞわぞわと震える。咽喉から今にも絶叫が迸りそうだった。唇を両手で押さえて、健一は目蓋を閉じて必死で頭の中で繰り返した。
 
 一瞬、一瞬の我慢だから、大丈夫、俺は大丈夫。
 
 下着の中から性器が取り出されたのか、外気がひやりと触れる。そうして、ひたりと湿った粘膜が萎えた先端へと触れた。ぺちゃりと淫靡な水音が響いて、下から上へと向かって先端を舐め上げられる感触に、内太腿がびくりと跳ねる。下腹の辺りでぐんと何かの熱が膨れ上がるのを感じて、閉じた目蓋に力が篭る。
 
 
「…っヴ…」
 
 
 眉間に深く皺を寄せて、くぐもった鼻声を上げる。ぺちゃりぺちゃりと先端を丁寧に舐める舌の動きは止まらず、時折尖らせた舌先で穴を弄くっていく。直に神経を抉られるような鮮烈な快楽に、健一は首を左右に大きく打ち振った。
 
 性器が緩く勃ち上がり始めると、濡れた舌はひたりと竿に貼り付いた。唾液をまぶした舌は、まるでスライムのように性器にねちゃねちゃと絡み付いてくる。
 
 
「ぅ、グ…っ」
 
 
 声を殺し切れず、時折咽喉から縊られた鶏のような呻き声が零れた。咽喉を逸らすと、閉じた目蓋の奥に、蛍光灯の光が鋭く突き刺さる。
 
 眩しさに思わず目蓋を開くと、途端惨い光景が視界に映った。
 
 ソファの上で、女のように足を開かされている自分。そうして、開かれた両太腿の間に顔を埋めている吾妻の姿。はしたなく勃ち上がった性器はてらてらと濡れ光り、赤い舌がねっとりと絡まっていた。まるで赤い蛞蝓が性器の上を這っているような気色悪い光景だと思った。金で自分の身体を売った結果がこんな醜悪な光景なのかと思うと、胸が引き千切れそうなほどの嫌悪を覚えた。
 
 
「もっ…無理だ…ッ!」
 
 
 両手で吾妻の頭を押し返して、限界を告げる。すると、吾妻は性器から唇を離して、こう呟いた。
 
 
「無理でも、最後までやり通さないと。健一は金を貰って、自分の身体を売ったんだ。身体を売るっていうのは、こういうことだよ」
 
 
 堪らない後悔が込み上げてくる。どうして、自分の身体が金に変えられたんだろう。こんなのは泥のついた靴で心を滅茶苦茶に踏み躙るのと同じことだ。
 
 唇が震える。吾妻の掌が健一の目蓋をそっと覆った。
 
 
「目を閉じて。苦しい時は、自分の身体が物だと思えばいい。次に目を開いたときには、全部終わってる」
 
 
 苦しませている本人が一体何の講釈を垂れているのか。下らないと思いながらも、暗闇に覆われた視界で、健一は目蓋を固く閉じた。
 
 自分の身体を、単なる物だと思おうとする。自分は肉の塊で、感覚も心も在りはしないんだと思い込もうとした。
 
 だが、その思い込み以上に、性器を包み込む粘着いた感触は生々しかった。性器を根元から咥えられて、思いっきり吸い上げられる。
 
 
「ヒっ、アァぁ…!」
 
 
 内臓ごと吸い出されるような強烈な感覚だった。下腹がビクビクと痙攣して、両脚が滅茶苦茶に暴れる。すると、両足首を乱暴に掴まれた。そのまま、大きく押し開かれて、性器を更に深く呑み込まれる。吾妻は唇を窄めて、小さな性器を上下に扱いてきた。唾液や溢れ出した先走りが交じり合ったものがぷちゅぷちゅと唇と性器の隙間で卑しい音を立てる。
 
 その音に、頭の芯を冒される。
 
 朦朧とする意識の中、健一は自分の身体が泥へと浸っていくのを感じた。沈んでいく。泥の深く深く底へ。薄汚く、暗く冷たい場所へと。引き摺り込まれて行く。
 
 そうして、性器を緩く甘噛みされながら先端の穴へと舌を突き入れられた瞬間、体内の熱が爆発した。吾妻の髪の毛を鷲掴んだまま、咽喉を逸らして絶叫する。
 
 
「ヤ、ぁああぁアァ!」
 
 
 腰がびくんびくんとソファの上で大きく上下に跳ねる。性器は吾妻の口に入ったままで、まるで自分の意思で吾妻の咥内へと突き入れているようにも見えた。
 
 先端から噴き出る精液を、吾妻はすべて咽喉の奥で受け止めた。性器の痙攣すら味わうかのように、その舌は精液を噴き出す先端のくびれをゆるゆると舐め上げている。
 
 すべて出し終わった後も、なかなか痙攣が止まらなかった。ソファの背凭れへと身体を投げ出して、健一は荒い呼吸を繰り返した。脳味噌の奥で、熱がぐるぐると渦を巻いてうねっている。
 
 萎えた性器を唇からずるりと引き出すと、吾妻はゆっくりと咽喉を上下に動かした。こくり、と液体を飲み込む音が健一にまで聞こえてくる。あんな薄汚い排出物を飲み込む神経が理解出来ない。
 
 
「健一、気持ちよかった?」
 
 
 平然と問い掛けてくる、その面を殴り飛ばしてやりたい。だけど、吾妻以上に、別のものに対しての激しい怒りがあった。
 
 
「消えろ…」
「気持ちよかったでしょ?」
「消えろ、消えろ消えろ消えろッ! 今すぐ俺の目の前から消えろォッ!」
 
 
 喚き散らして、傍らにあったクッションで吾妻の身体を殴り付ける。吾妻は、表情を変えなかった。人形のような無表情のまま、わかった、と素っ気なく呟いたかと思うと、身を翻して別の部屋へと去っていった。
 
 なおも怒りが収まらず、クッションを閉じられた扉へと投げ付ける。肩で息をしたまま、それでも憤怒がとめどなく込み上げてくる。これは、吾妻に対する怒りではなかった。自分自身に対する猛烈な怒りだ。今すぐ自分自身を徹底的に叩きのめしてやりたかった。なんて無様な奴なんだろうと罵って、唾を吐きかけてやりたい。
 
 髪の毛をぐしゃぐしゃに掻き毟って、健一はその場に蹲った。足元には、一万円札が散らばっている。これが自分の身体を売って手に入れた金だと思うと、許せなかった。足裏で踏み躙って、ぐちゃぐちゃに千切って燃やしてやりたい。
 
 だけど、出来ない。金が欲しかった。吾妻を殺すために、金が欲しかった。だけど、ここまでして手に入れる価値は本当にあったのだろうか。憎い男に身体を売って、心を踏み躙ってまでして、手に入れるべきものだったんだろうか。吾妻を殺すために吾妻に身体を差し出す。まさしく本末転倒だ。
 
 そうして、思った。
 
 
「…奴隷、だ」
 
 
 横田が言っていた言葉は本当だった。時には他人だけでなく、自分自身ですら自分を貶められる。今この瞬間、健一は自分を奴隷にまで貶めたのだ。金のために自分の身体を売った瞬間に。
 
 震えるような後悔が込み上げてきて、背筋が震えた。泣きたい、だけど泣けない。それが苦しくて堪らなかった。膝頭に額を押し付けて、健一は涙を流さないままに嗚咽を零した。
 
 
「…もう、二度とこんな事はしない」
 
 
 二度と、自分自身を踏み躙るような事はしない。自分の身体を切り売りして、惨めな思いを味わったりはしない。性を貪られるくらいだったら、命ごと投げ売った方がずっとマシだ。このまま惨めったらしい奴隷で甘んじたりはしない。必ず、吾妻の咽喉を食い千切る日がやってくる。
 
 床に散らばる紙幣を鷲掴んだまま、健一は自分自身の惨めさを噛み締めた。いつか自分の力になる日が来ると信じて、この惨めさを決して忘れない。
 
 

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