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19 嘘吐き

 
「来年の新年会のスケジュール案を今日までに仕上げとけ。それから、公聖会と半田組の資料を明日の朝一会議までに全部揃えて、五十部ずつコピー用意しておけよ」
 
 
 デスクの上に書類の束を積み上げられながら、矢継ぎ早に雑用が命じられる。
 
 傍らに溜まった書類の厚みが十センチを超えた時点で、保田は溜息を吐くのをやめた。溜息を吐く度に、酸素不足で眩暈がするようになったからだ。気付かず、呼吸数が随分と少なくなっているらしい。
 
 それも仕方ない。ここ二週間まともに家に帰ってもいなければ、睡眠時間も二日に四時間取れればいいほどしか取っていないのだから。
 
 その間に保田が何をしていたかといえば、先ほど命じられたような誰でも出来るような雑用ばかりなのだ。捜査四課の刑事がやるような仕事とは思えない雑用が当たり前のように保田へと回されてくる。捜査とはまったく関係のない飲み会の幹事やら、捜査資料のコピー取り、あげくの果ては廊下の電球換えから便所掃除まで。
 
 
 ――嫌がらせもここまで来たら、いっそ清々しいな。
 
 
 頭の中で、そう気休めを漏らす。右手は報告書を書き続けるままに、冷めた出涸らしの茶をおざなりに口へと含む。舌に残る茶渋の味で、蓄積された睡魔が少しだけ晴れた気がした。ちらりと横目で卓上カレンダーを眺める。
 
 十二月二十日、クリスマスまで後五日。この時期になると、苦い思い出ばかりが蘇ってくる。六年前の事件の記憶、幼い子供の命が掌から零れ落ちていった日のこと。だが今年は、その記憶以上に痛々しい出来事が保田の脳裏を占めていた。
 
 泉健一君。ヤクザに囚われた少年を、むざむざと吾妻真澄に返してしまった。一度は彼を助け出したと思ったのに、その手を掴み続けることが出来なかった。その事実が今保田の心臓をぢくぢくと甚振っている。
 
 
『俺のこと人間って言ってくれて、ありがとう』
 
 
 切ない言葉だった。それは、彼が人間として扱われていないという事の証明に他ならなかった。自分を非道に扱う男のもとへと戻って、彼は一体どんな酷い目に合わされたのだろう。それを思うだけで酷い後悔が溢れ、保田は頭を掻き毟らずにはいられなかった。
 
 直ぐに彼を助け出しに行きたかった。今度は、絶対に彼の手を離さない。そう心に誓ったものの、少年と別れた直ぐ後に、保田は沼野に署へと引き摺り戻された。そうして、山のような書類をデスクへと置かれて、こう言い放たれたのだ。
 
 
『こいつらの処理が全部終わるまでは、この椅子から一歩も動くな』
 
 
 初めの三日間は、身体をロープで椅子に縛り付けられるという徹底振りだった。トイレの時だけ解放され、それも同僚の見張り付きだった。それは殆ど異常とも思える沼野の嫌がらせだった。だが、捜査四課の長年の悲願でもある、吾妻組の検挙のチャンスを取り逃したのだから、沼野が目を血走らせて怒り狂うのも解らなくもない。その怒りの矛先が少年を庇った保田へと向かうのも仕方のないことなのだろう。今はとりあえず命じられた事を、ただ黙々とこなすしかないと、保田は諦め半分に思っている。
 
 不意に、デスクの端に置いていたはずの湯飲みが倒れた。書き終りかけていた報告書にじわりと茶色い染みが広がっていくのを眺めて、保田は唖然とした。嘘だろ、と唇が掠れた声を漏らす。
 
 
「あーあ、残念。初めっから書き直しだなぁ」
 
 
 いつの間にか、横に沼野が立っていた。にたにたと嫌らしい笑みを浮かべたまま、保田の反応を楽しげに窺っている。
 
 一瞬猛烈な勢いで怒りが込み上げたが、直ぐにふにゃふにゃと疲労の奥へと押し込められていく。結局、保田は追従するような情けない笑みを浮かべた。あんたが倒したんだろうが、とは言えなかった。
 
 
「何の御用ですか」
 
 
 自分のものとは思えない弱々しい声が零れた。それが何とも虚しくて、空笑いが続けざまに溢れる。
 
 沼野の笑みが深まる。そうして、無精髭の生えた頬を、保田へと摺り寄せるように近付けると、ひそひそ声で話し掛けてきた。まるで悪巧みをたくらむ越後屋のようだ。
 
 
「別に用ってほどじゃないんだけどなぁ、お前の耳に入れておいた方がいいかなぁって思ってさ」
「何ですか」
「どうやらお前の大好きなあの可愛い子ちゃんがヤバイことになってるみたいだぞ」
「可愛い子ちゃん?」
「吾妻組長の愛人」
 
 
 一瞬皮膚に鳥肌が立った。目を見開いて、まじまじと沼野を凝視すると、沼野はニィと口角を吊り上げた。
 
 
「銃の密売人に接触したって報告があった」
「…銃の、密売」
 
 
 物覚えの悪い子供のように繰り返して、呆然と沼野を見上げる。銃という単語とあの少年とが上手く結び付かず、脳味噌が不完全燃焼を起こしたようにぷすぷすと燻る。
 
 
「ガキが一体何をするつもりか解らねぇが、チャカまで手に入れたら警察も無傷であのガキを捕まえるわけにはいかねぇよな。まだ年少には送られねぇから、保護観察所にも入れるか、それとも手っ取り早くアタマの病院にでも突っ込んじまうか」
 
 
 平然と吐き出される沼野の言葉に、刺々しい何かが皮膚に突き刺さるのを感じた。
 
 堪えられなくなりそうだった。沼野の胸倉を掴んで殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
 
 だが、沼野を睨み付けた瞬間、保田は息を呑んだ。沼野の唇は卑しい笑みに歪んでいるのに、その瞳は悲しげに曇っていたからだ。唇と目がこれほどちぐはぐな人間を今まで見たことがない。
 
 
「チャカを手に入れたら、あのガキはお終いだ。いいか、全部お終いなんだ」
 
 
 一体何がお終いだと言うのか。沼野の口調は偏執的で、何処か祈るような響きがあった。
 
 しかし、それは一瞬だった。沼野は殆ど殴るような勢いで保田の背を叩くと、一転して不機嫌そうな声でこう言い放った。
 
 
「かもめ公園捜査会議用の弁当と茶を三十人分買い出し、十二時までに用意しろ。少しでも遅れたら承知しねぇぞ」
 
 
 
 
 
 
 冬晴れの暖かい正午だった。白々とした空から蛍光灯じみた青褪めた太陽光が降り注いでいる。ウール製の厚めのコートを羽織ってきたが、額からは微かに汗が滲み始めていた。
 
 三十人分の弁当とペットボトルを乗せて軋んだ音を立てる台車を止めて、コートを脱ぐ。コートの内側から饐えた樟脳の匂いが漂ってきて、保田は軽く噎せた。一度クリーニングにでも出しておくべきだったか、それとも日干しでもしておくべきだったか、そう思いを馳せたがそんな時間も余裕もない事に気付いて、おざなりに畳んだコートを台車の手すりへと引っ掛けた。
 
 コートを脱いだおかげか、随分と肩が軽くなった気がする。久々に吸った外気も心地よかった。両腕を伸ばして、大きく深呼吸をする。肺の中に満ちる冷たい大気が全身に溜まった疲労を洗い流していくようだった。
 
 傍らの公園から、子供達がはしゃぐ声が聞こえてくる。視線を向けると、まだ幼稚園にも満たないであろう幼い子供達が砂場で遊んでいた。その傍らでは、ベンチに座った母親が慈愛に満ちた眼差しで子供達を見守っている。
 
 その時、不意に保田は泣きたくなった。
 
 この子供達の中に、リョータ君や健一君が混じっていないことが無性に悲しかった。生きてさえいれば、あんな男に捕まりさえしなければ、あの子供達と同じように無邪気に過ごしていくことが出来ただろうに。どうして、こんなにも世界は不公平なのか。
 
 思いがけず滲んだ涙を拭っていると、予期せぬ声が聞こえた。
 
 
「保田君、買い出し?」
 
 
 公園端のベンチに、青柳が座っていた。真っ白な手袋を嵌めた掌を軽く掲げて、ひらひらと振っている。
 
 台車を転がして傍へと近付くと、青柳はゆったりとした仕草で足を組んだ。無駄に長い足といい、白いファーのついたコートといい、妙にアイドルじみているというか王子様じみている人だと思う。だが、その掌に握り締められているのはお汁粉の缶ジュースで、それが何とも不釣合いに見えた。
 
 
「はい、かもめ公園の捜査会議が開かれるので」
「かもめ公園って捜査ってアレだよね。ホームレスが二人撃ち殺されてたやつでしょ」
 
 
 お汁粉を啜りながら、長閑な公園には似合わない悲惨な事件を堂々と口に出す。周りの親子に聞かれていないか心配で、保田は二三度周囲を見渡してから小さく頷いた。
 
 
「そうです」
「まだ犯人が捕まってないんだっけ?」
「まだですね。金品目当てでないのは歴然ですから、今は愉快犯か、試し撃ち目的ではないかと話しています」
「試し撃ちだとしたら、随分物騒だよね。恐ろしくて、おちおち外を歩けやしない」
 
 
 そう言う青柳の頬には、怖気など欠片も覗けない朗らかな笑みが浮かんでいる。そのアンバランスさに喜劇じみた馬鹿馬鹿しさを感じたが、保田は曖昧に笑うだけに留めておいた。
 
 
「銃はグロッグ一七だったっけ?」
「はい、日本ではかなり出回っている銃なので、捜査本部も出所の特定が難しいってぼやいてるみたいです」
「子供でも扱えるような軽量の銃だね」
 
 
 それを聞いた瞬間、首の後ろが微かにささくれ立った。他愛もない一言に、寒気を覚える。
 
 思い出すのは、先ほど沼野と交わした会話だ。あの少年が銃の密売人と接触したという話。
 
 まさかな、と思う。まさか、あの子が関わっているはずがない。
 
 拭い切れない不安が心臓を覆う。思い沈んだ保田の顔を見上げて、青柳がそっと微笑む。
 
 
「あの子、色っぽいよね」
「え?」
「あんまり惑わされちゃダメだよ」
 
 
 意味深な青柳の言葉に、無意識に咽喉が上下する。唾液を嚥下しながら、保田は胡乱気に青柳を眺めた。
 
 
「それは健一君のことを言ってるんですか?」
「そう、吾妻の囚われのお姫様」
「その表現は、あまり好きじゃないです」
 
 
 率直に返すと、青柳は一瞬困惑したように目を瞬かせて、それから咽喉を逸らして笑った。笑い方も何処か演技じみていて、妙に神経を逆撫でする。
 
 
「でも、事実だ。でしょう?」
「事実だとしても、口に出しちゃいけない事ぐらいあります」
「体面なんか気にしている内に、あの子は手の届かないところへ飛んでいっちゃうよ」
 
 
 まるで何かを暗喩するような言葉だ。
 
 
「手の届かないところって一体何処ですか」
「何だろう、アウトローの世界、とでも言うのかな?」
 
 
 自分で言っておきながら、青柳は語尾に疑問符をつけた。お汁粉の缶を弄びながら、にやっと悪餓鬼じみた笑みを浮かべる。
 
 
「あの子は、きっと大物になるよ」
「大物って…何を言ってるんですか」
「このまま育てば、誰もが平伏す大物ヤクザになれる。ヤクザじゃなくても、別のもっと恐ろしいモノにだってなれるかもしれない。あの子の目を見てみなよ。十二歳の子供があんな畜生の目をしているだなんて、気味が悪いくらいだ」
 
 
 悪意の篭った台詞だったが、その声音は淡白だった。単なる事実を告げるようなその口調が保田には酷く恐ろしかった。
 
 
「僕には、健一君は普通の子供にしか見えません」
「嘘吐きだなぁ」
 
 
 青柳の声音に、微かな嘲笑が入り混じる。
 
 
「吾妻じゃないけどさ、あの子見てると解っちゃうよね」
「何がですか」
「どうして、吾妻があんなガキに拘るのかが。わざわざ危険を冒してまでリスクの高い一般人を攫って、愛人にしっちゃったのかが。僕にはよく解る。あの子を見てると、理由もなく顔面を殴り付けてやりたいような衝動に駆られるよ。あの薄い腹を蹴り飛ばして、身体押さえ付けてぐちゃぐちゃに犯してやりたくなる。怯える顔があんなに欲を煽る相手を、僕は見たことがない。なぁ、君もそう思わないか?」
 
 
 半笑いで語られる台詞に、はらわたを無遠慮に漁られたような不快感が襲ってきた。だが、それと同時に、青柳の言葉に、保田は本来は感じてはならない奇妙な同調を感じていた。
 
 指先に柔らかい感触が蘇る。血が薄っすらと滲んだあの子の下唇を、親指の腹でそっと拭ったあの瞬間。その甘美な柔らかさを、血のぬめり気を、吸い付くようなぬくもりを、保田はあの夜から一時も忘れることが出来ない。そうして、今でも思うのだ。まるで口紅のように滲んだあの子の唇の血を、その舌で拭うことが出来たのだったら。嫌悪と敵意に満ちたあの子の顔を、快楽と服従に溶かせたら、それはどれほどの快感を伴うのかと。あの柔らかさを、自分だけのものにできるのなら、何だってするのに――
 
 だが、それは絶対に考えてはいけない事だった。人間としても、大人としても、それは罪深いものに他ならない。だから、保田はあえてその欲から目を背け続けていた。
 
 それなのに、目の前の男はそれを易々と口にするのだ。保田が胸に秘めた欲望を、無神経に抉り出そうとする。
 
 
「ぼくは…」
 
 
 掠れた声が零れた。咽喉が知らず酷く渇いていた。唇が無意識に震える。
 
 胸の底から暗い記憶が蘇ってくるようだった。脳髄にきつく絡み付いてくる、保田には受け容れがたい残酷で醜悪な記憶だ。
 
 それを飲み込む。飲み下す。腹の底へ収めて外には決して出さないと、保田は心に深く誓っている。
 
 下唇をきつく噛み締めて、青柳を睨み付ける。
 
 
「僕は、あの子を助けたい。それが例え偽善だとしても、自分がそうだと思える最善ができる人間でありたい」
 
 
 口に出した瞬間、それが自分自身の本当の願いのように聞こえた。そうであって欲しいと思った。青柳はほのかな笑みを浮かべたまま、保田を眺めている。
 
 
「それが君の本意かい?」
 
 
 一瞬咽喉を引き攣らせてから、無言で頷く。青柳が肩を竦めて、口角を歪めた。その顔に滲んでいるのは、紛れもない嘲笑だ。
 
 
「みんな嘘吐きばっかり!」
 
 
 まるで子供のような言い草だった。青柳は、周りがハッとするような高らかな笑い声を一言あげて、それから胸元のポケットから一枚の名刺を取り出した。それを恭しい仕草で、保田へと差し出す。
 
 わけもわからず名刺を受け取る。名刺は、竹の皮を削いで作った洒落たものだった。その表面には【はらの企画(株)常務取締役 土方順吾】と行書体で書いてある。
 
 
「誰の名刺ですか?」
「今からは君の名刺だ。魔法の紙だよ」
 
 
 くだらない冗談に、眉を顰める。
 
 
「そういう悪ふざけはやめて下さい」
「悪ふざけなもんか。ねぇ、保田ちゃん、まずは一等いいスーツを着て、ピカピカに磨いた靴を履いて、そのぐしゃぐしゃな髪を整えるところから始めよう」
「だから、一体何を始めようって言うんですか」
 
 
 殆ど苛立ち混じりに問い掛けると、青柳は一瞬きょとんと目を瞬かせてから、不意に弾けるような笑みを浮かべた。
 
 
「ゲームだよ」
 
 
 そう言って、空っぽになったお汁粉の缶を傍らのゴミ箱へと放り投げる。綺麗な投球フォームだった。ゴミ箱の中へと綺麗に入った缶を見て、青柳はやったと子供のようにはしゃいだ声をあげた。
 
 

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