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20 お金

 
 にひゃくまんえん。
 
 声に出さないまま、ゆっくりと唇を動かす。
 
 にひゃくごじゅうまんえん。
 
 同じように唇を動かす。
 
 解り切ってはいるが、その差額は五十万円だ。たかが五十万。されど五十万。
 
 サラリーマンの一か月分か二か月分の給料だろうか。カップラーメンで換算したら、ひとつ二百円だとしても二千五百個は買える。二千五百個ということは、毎日食べても六年分はゆうにある。六年経てば、自分は十八歳だ。十八歳まで、自分が生きているかすら予想できない今、その空想すら曖昧に霧散する。
 
 とりとめのない思考をめぐらしながら、リビングの低い机の上に置かれた二つの札束を指先で弄くる。エアコンから流れてくる生ぬるい風が札束の端をぱたぱたと規則的に捲り上げる。
 
 床にべったりと座り込んだまま、厚さ二センチにも満たない札束をぱらぱらと捲ってみた。
 
 自分の身体を切り売りして手に入れた二百万。後五十万手に入れれば吾妻を殺すための拳銃が手に入る。
 
 残りの金を手に入れる一番簡単な方法は既に知っている。もう一度、胸糞悪い男にこの身体を対価に金をせびればいい。だが、それだけは健一の矜持が許さなかった。もう二度と、自分を奴隷へと貶めるような真似はしたくなかった。もう一度あんな気色悪いことをされるぐらいなら、舌を噛み切って死んだ方がマシだ。
 
 だが、健一には残りの五十万を手に入れる方法がどうしても思い付かなかった。たかが五十万。されど五十万。その言葉が重く心臓に圧し掛かる。
 
 しかし、幾ら頭で考えてもどうしようもなかった。溜息を緩く零してから、ゆっくりと立ち上がる。
 
 テーブルに置いていた二百万をぞんざいに掴むと、コンビニのビニール袋で包んだ。包んだ札束を、更にもう一枚のビニール袋の中に突っ込む。その上に、水を入れた清涼飲料水のペットボトルを入れた。
 
 こうしていれば、コンビニの買い物のように見える。初めはリュックやバッグに入れて持ち歩こうかと思ったが、万が一盗聴器や発信機を付けられていることを危惧して止めた。吾妻には前科がある。この家に置かれているものは何一つとして信用ならなかった。
 
 そのまま、室内の電気を消して、部屋から出る。止めるものは誰もいなかった。吾妻は、毎日夜の八時にならないと帰ってこない。そうして、数日前までは傍らにあった横田の存在も、健一が車から飛び出た日から消えてしまった。
 
 それを健一は寂しいとは思わなかった。ただ、やっぱり、という気持ちが胸の内に巣食っただけだ。結局、あたたかいものは健一の傍から消えていく。
 
 数日前から、健一はマンションから出歩くようになった。金を手に入れる方法を考えた時、家にいるだけでは決して金を稼げないという事実に行き着いた。可能性は低くても、外に出なければそのチャンスすら掴むことは出来ない。そう思い当たった日から、健一は昼間は外を出歩くことにした。
 
 近所の駅まで行って、借りているコインロッカーを開く。中に入れているのは、二日前に古着屋で買った服だ。
 
 躊躇無く一万円を差し出す子供に、レジの中年女はあからさまに不審げな眼差しを向けた。健一が昨日が誕生日だったんだと、わざとらしく子供っぽい声で言うと、しぶしぶといった様子で清算を済ませた。
 
 本当は身体を売って貰ったお金です、と言ったらこの女はどんな顔をするだろうと、健一は一瞬夢想し、馬鹿馬鹿しいと自分自身を嘲った。
 
 駅のトイレに入って、全身の服を着替える。コートも靴も靴下もすべて。マンションから持ち出したものはすべて脱いで、先ほどのコインロッカーへと突っ込む。全身を総入れ替えしなければ安心して動くことなど出来なかった。それが健一の幼稚な自己満足だとしても。
 
 
 
 
 
 
 街は、スーツを着た男達で溢れかえっていた。
 
 平日の真っ昼間に私服の子供がうろついていては目立つのではないかという健一の不安は、杞憂に変わった。誰も彼もが忙しなく歩き回っていて、噴水の縁に腰掛ける子供に目をとめる大人はいない。
 
 家から持ってきた水を飲みながら、健一はぼんやりと周囲を見渡した。
 
 高層ビルが立ち並んでいるこの場所には覚えがあった。横田と制服の採寸を合わせに行こうとして、途中で車から飛び降りて彷徨った場所だった。言い換えれば、真昼の幻覚を見た場所でもある。
 
 金を稼ぐ方法を探しに来たのに、気付けば健一の視線は真昼の幻覚を求めて彷徨っていた。幻覚は所詮幻覚でしかない。死んだものはもう戻ってこない。そんな事は幼稚園児だって知ってる。健一は、真昼が死んでいるのをハッキリと見た。その死に触れた。それなのに、未だ惨めったらしく真昼を追い求める自分は正真正銘の馬鹿でしかない。
 
 空っぽになったペットボトルを自販機の横のゴミ箱に捨てる。冬の乾燥した空気のせいか、まだ咽喉は渇いていたが、たった百二十円を使うことすら惜しかった。手元に二百万持っていても惜しいものは惜しい。自販機の前で悩んでいると、不意に誰かの視線を感じた。
 
 自販機の横に、誰かが蹲っていた。白髪混じりのボサボサ頭に垢で薄汚れた皮膚、どろりと澱んだ眼球、ボロ雑巾のような布を羽織ったホームレスが健一をじっと見ている。
 
 白目が黄色く濁った瞳と視線が合って、一瞬背筋に悪寒が走る。無視して横を通り過ぎようとした時、ホームレスが声を掛けてきた。
 
 
「ぼっちゃん、そのなか、おカネはいってるんじゃないですか?」
 
 
 思わず足が止まった。ホームレスは、思っていたよりもずっと溌剌とした声をあげた。だが、声音に反して唇はほんの数ミリ程度しか動いていない。それがどうにも腹話術のような不気味さを醸し出していた。
 
 ホームレスが迷いなくビニール袋を指差すのに、心臓が跳ねるのを感じる。だが、表情は変えず、健一は殊更ゆっくり首を左右に振った。
 
 
「入ってないよ」
「からだとことばがチグハグですね。わたくしがそれを指差したとき、ぼっちゃんビニール袋つかむ手にぎゅうって力がはいってました。だいじなものをもってるとき、ひとはそういう行動をするものですよ」
 
 
 見抜かれていると思った。だが、それを素直に認める気もなく、健一はもう一度首を左右に振った。
 
 
「大事なものなんか入ってない。変な勘違いすんなよ」
 
 
 やや乱暴な言い方にしたのは、他人からこれ以上の無駄な詮索をされたくなかったからだ。だが、ホームレスは健一の辟易に気付こうともせず、むしろ距離を縮めようと膝立ちで近付いてくる。
 
 距離が一メートルになったところで、強烈な腐臭を感じた。人間の体組織が発酵した腐臭だ。思わず後ずさると、ホームレスが「ほいほい」と奇妙な声をあげた。
 
 
「ほいほい。ちょっと待ってくださいな、ぼっちゃん」
「坊ちゃんで呼ぶな。何なんだよあんた」
「ぼくは何者でもござんせんよ。ただ、ほんのちょっぴりおめぐみが欲しいだけですよ」
「お恵み?」
 
 
 訝しげに顔を顰めると、ホームレスは酷く緩慢な動作で傍らに転がっていた酒瓶を取り上げた。瓶のラベルには『いいちこ』と書かれている。
 
 
「あと、十円で五百ミリリットルの瓶がかえるのですよ。わたくしめに十円くださいな、ぼっちゃん」
 
 
 悪びれもなくホームレスが金をせびるのを聞いて、どっと力が抜けた。いいちこの瓶にすりすりと頬擦りをするホームレスを眺めながら、健一は溜息を吐き出した。
 
 
「十円なら、……あげてもいいけど…」
 
 
 本当は一瞬躊躇った。なぜ見知らぬ他人に金を恵まなくてはいけないのかという不快感と、十円すらも惜しいというみみっちい感情が芽生えた。だが、たかが十円で延々と絡まれ続けることの方がずっと面倒だった。
 
 
「ほんとうですか。ぼっちゃんは、なんとお優しいお方でしょう」
「その代わり教えて」
 
 
 ホームレスが丸く目を開く。ポケットに入れていた小銭の中から十円を取り出しながら、健一は問い掛けた。
 
 
「何で、この中に金が入ってるって思ったの?」
 
 
 ホームレスが何だそんな事かと言わんばかりに、ほほい、と奇妙な声をあげる。
 
 
「かんたんですよ、ぼっちゃん。ただのビニール袋をそんなもちかたする者がいますか」
 
 
 指摘されて気付いた。健一はコンビニ袋を、両腕で胸元に抱き抱えていた。ただのコンビニ袋の持ち方にしてはあまりにも不自然だ。慌てて、普段通りの持ち方を変える。
 
 ホームレスがふんふんと鼻息を漏らしながら、小さく頷いた。
 
 
「ぼっちゃん、わたくしがこんなことを言うのはおこがましいのですがね、おカネをだいじにあつかうというのは愚の極みというものですよ」
「ぐのきわみ?」
「愚かしいということですよほいほい」
 
 
 ほいほい、というのはこの男の口癖なのか、それとも掛け声なのか。会話の途中に入れられる意味不明なその一言に、健一は顔を顰めた。
 
 
「金を大事にしない人間なんていないだろう」
「その考えからおかしいのですよ。金や権力、地位や名誉、そういったものは何よりもぞんざいに扱うべきものなのです。唾といっしょに吐き捨ててやるべきなのです」
 
 
 ホームレスの口調は、段々と宗教じみた響きを持っていった。いいちこの瓶を小脇に抱えながら、祈るように黒く汚れた両手を組み合わせる。その仕草に、健一は胡散臭さと紙一重の滑稽さを感じた。
 
 曖昧に頬を引き攣らせてから、十円をホームレスの足元へと向かって投げる。チャランと金属が跳ねる音が響いた。ホームレスが慌てたようによろよろと手を伸ばして十円玉を拾い上げる。その光景を、鼻で嗤う。
 
 
「それでも、俺には金が必要だよ」
「いずれぼっちゃんにもわかるでしょう。足掻いた先に手にはいるものの儚さと愚かしさを」
 
 
 薄気味悪い綺麗事だと思った。そんな綺麗事で救われる人間なんているわけがない。
 
 再び嘲笑を零そうと頬を歪めた瞬間、健一の顔は凍り付いた。
 
 視線の先に、ずっと追い求めていた彼女の幻覚が立っていた。人ごみの向こうから、気の強そうな目が健一を見詰めている。金髪のショートに真っ赤なスカート、以前見た時とまったく同じ幻覚だ。
 
 二度目の幻覚の出現に、健一は自分の足元がぐらりと揺らぐのを感じた。心臓からするりと心が抜け出して、彼女へと奪われていく。真昼の口元は笑みに湾曲しており、その唇が微かに動いた。
 
 
『――おいで』
 
 
 そう聞こえた。それも幻聴に過ぎないと解っていても、もう足は止まらなかった。雑踏へと飛び込んで、彼女へと向かって突き進む。背後のホームレスのことなど、既に頭にはなかった。脳味噌を占めるのは彼女のことだけ。真昼だけ。
 
 ひらりと真っ赤なスカートが翻って、真昼が健一へと背を向けて駆け出す。
 
 咄嗟に、何で、と叫びそうになった。
 
 何で、逃げる。何で、俺から逃げて、一体どこに。真昼、死んでなかったのか。生きてたのか。生きて、生きて、生きて生きて――
 
 頭の中が混濁する。思考が滅茶苦茶に絡み合って、健一を熱の塊にしていく。身体も心も、彼女に引っ張られていく。どことも知らない場所に連れて行かれる。
 
 真昼に追い付くことができない。だが、見失うこともなかった。一定の距離を保って走る様子は、まるで健一をどこかへと誘っているようにも思えた。
 
 

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