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21 したたか

 
 気付けば、街から少し外れたうらぶれた商店街の通りを、健一はひた走っていた。
 
 真昼が不意に方向を変えて、商店街の一角にあるゲームセンターへと飛び込む。何も考えずに、健一もその中へと走り込んだ。
 
 ゲームセンターの中は薄暗く、酷く煙草臭かった。店内に紫煙が立ち込めており、霧がかったような視界の悪さを感じる。
 
 ゲーム機の横を擦り抜けながら、真昼は奥へ奥へと進んでいく。そうして、一番奥にあるスタッフルームと書かれた鉄製の扉の中へとその身体を飛び込ませた。健一も同じように続く、つもりだった。
 
 だが、健一の行く手を阻むように扉の前に男が立ちはだかった。勢いをつけていた身体が止まりきれず、男へと正面からぶつかる。健一は尻餅をついたが、男は微動だにしなかった。
 
 
「ここは関係者以外立ち入り禁止です」
 
 
 マニュアルをそのまま読んでいるような機械的な口調だった。言い返したかったが、全力で走り続けたせいか呼吸困難になったように咽喉がひゅうひゅうと音を立てて、上手く言葉を出せなかった。
 
 尻餅をついたまま、健一は荒い呼吸を繰り返しながら、じっと男を見上げた。
 
 こんな場末のゲームセンターには似つかわしくない屈強な体格をした男だった。その強張った表情も、明らかに堅気のものではない。
 
 それを着ていれば一般人に溶け込めるとでも思っているのか、まったく似合わない蛍光緑のパーカーとダメージジーンズを身に付けているのが何とも滑稽に見えた。
 
 疲労でガクガクと震えそうになる足を奮い起こして立ち上がる。立ち上がると、男との身長差が明らかになって余計に威圧感を感じた。
 
 
「中に友達が入ったんだ」
「そうですか」
「友達に会いたいから入れて欲しいんだけど」
「出来ません」
「どうしても、どうしても友達に会いたいんだ。少し顔を見たら、直ぐに帰るから」
「出来ません」
「頼むから、別に難しいこと言ってるわけじゃないだろう? 一瞬ドアを開けてくれるだけでいいんだよ。あんたを困らせるような事はしないからさ」
「出来ません」
 
 
 本気でロボットじゃないかと思った。代わり映えのない応酬に、次第に苛立ちが込み上げてくる。口角をひね曲げて、健一は男の顔を下から見上げた。男は身じろぎもしない。
 
 
「あんたさ、その服似合ってないよ」
 
 
 揶揄するように言ってやる。無表情だった男の眉が微かにだがピクリと戦慄いた。その変化を見止めて、健一は口角に嘲るような笑みを乗せた。今の自分は、とてつもなく醜悪な表情をしていると思った。
 
 
「これって今時の若者って奴のフリしてぇんだろうけどさ、全然似合ってねぇよ。顔とか表情とか、立ち方とか、あんた全然『らしく』ねぇもん。露骨にヤバイ臭いぷんぷん振り撒きながら、そんな格好してんだから超笑える。本当に普通っぽく見せるつもりあんの?」
 
 
 男の眉が続けて二度跳ねる。苛付いているのが手に取るように解って、健一は笑みを深めた。更に、わざと噴き出してやる。
 
 
「それにさぁ、その蛍光緑のパーカー何それ? あんたが選んだわけ? だとしたら、センス壊・滅・的。今時そんな緑着てんのってカメムシぐらいじゃねぇ? なぁ、もしかしてあんたカメムシになりてぇの? 今時の若者じゃなくて、実はカメムシになりてぇとか? すっげぇ、斬新すぎて笑える」
 
 
 わざとらしいぐらいの挑発を繰り返す。男の眉尻が痙攣し始めた。無表情だった顔面に、明らかな憤怒が滲み出ている。コメカミに浮き上がった血管がのたうつ蛇のようにひくひくと震えていた。
 
 上手く行っていると思う。このまま門番らしき男が怒り狂えばいいと思う。怒鳴り散らし、健一を殴り飛ばせばいい。そうすれば、間違いなく隙は生まれる。
 
 ゲームセンター内に何名かの客がいるのは見た。子供が大声で泣き喚けば、介入してくるおせっかいな人間も必ず居るはずだ。その人間に男が気を取られた隙に、中に潜り込めばいい。安易な考えかもしれないが、一番簡単な方法だ。
 
 怒りで赤黒く染まり始めた顔面を、健一は背伸びして覗き込んだ。至近距離に、熱を孕んだ眼球が二つあった。それを怖気もせずに見据えたまま、健一は最後の一言を零した。
 
 
「いや、もうカメムシになってんのか。なぁ、虫けら」
 
 
 男の目がカッと見開かれる。振り上げられた拳を見て、健一は笑いそうになった。
 
 目をギュッと瞑って、思いっきり歯を食いしばる。殴られる準備は出来ていた。痛みを負う覚悟も。
 
 だが、いつまで経っても、男の拳は振り下ろされなかった。
 
 違和感に目蓋をそろりと開くと、見覚えのある男が拳を振り上げた男の目の前に立ちはだかっていた。
 
 健一を守るように両腕を大きく広げている男は、保田だ。以前とは見違えるほど身なりを綺麗には整えてはいるが間違いない。健一を助けたいと言う、あの甘っちょろい刑事。
 
 
「…子供の、冗談です」
 
 
 保田の声は震えていた。その膝も、よく見たらカクカクと前後に揺れている。救いのヒーローにしては、あまりにも情けない登場の仕方だ。
 
 
「この子があなたに無礼なことを言ったのは謝ります。ですが、大人が子供を殴ろうとするのは、どんな事情があっても許される事ではありません」
 
 
 訥々と保田が噛み締めるように呟く。男は、保田の正論過ぎる正論に一瞬面食らったように目を見開いた後、すっと感情が抜けたように仏頂面に戻った。
 
 
「どなたですか」
 
 
 口調も完全にロボットに戻っている。
 
 保田は慌てたように忙しない手付きで胸元から一枚の名刺を取り出した。一瞬名刺の表面が視界に入った。
 
【はらの企画(株)常務取締役 土方順吾】と書かれているのを見て、健一は思わず噴き出しそうになった。どこをどう誤魔化せば、保田が常務取締役に見えるんだか。
 
 名刺を受け取った男が一瞬眉根を寄せてから、保田へと無遠慮な視線を向ける。
 
 
「はらの企画さんの…」
「社長から紹介を受けてやってきました。お話は既に通っているかと思います」
「ええ、確かに原野社長から、会社の方が遊びに来られるというのは伺っています。ですが、常務取締役にしては、随分と若いですね」
「最近出来たばかりのベンチャー企業ですから。社員の平均年齢は二十四ですよ。原野社長も、まだ二十七歳ですし」
「はぁ、原野社長が若いのは、確かにそうですが」
 
 
 健一の理解出来ない話が頭上で繰り広げられている。それが気に食わず、健一は保田のコートの袖を引っ張った。ギクリと保田の身体が強張る。
 
 
「ジュン叔父さん、俺も中に入れるように言ってよ」
 
 
 強請るように言うと、保田の顔が困惑に歪んだ。男が眉を顰めて訊ねてくる。
 
 
「知り合いですか?」
「ちょ、ちょっと、待って下さい」
 
 
 男の非難の眼差しに、保田が慌てて健一の腕を掴む。そのまま、有無を言わさずゲームセンターの端まで連れて行かれた。
 
 一番奥にあったプリクラ機の中へと押し込まれる。薄暗い店内に対して、プリクラ機の中は目が眩むほど眩しかった。
 
 保田が額に浮かんだ汗を腕で拭いながら、疲れ切った溜息を吐き出す。そうして、健一と視線を合わせるようにしゃがみ込むと、勢い込んで喋り始めた。
 
 
「何で、君がここにいるんだ…!」
「俺も聞きたい。何で、あんたがここにいんの?」
 
 
 同じ質問を互いに投げ掛ける。だが、強いのは健一の方だ。答えを促すように軽く顎をしゃくると、保田は狼狽したように視線を左右に巡らせた。
 
 
「そ…それは、捜査の機密上言うことはできない…よ」
「潜入捜査とか?」
 
 
 適当に言った言葉に、保田の肩がビクリと跳ねる。つくづく嘘の付けない男だと、いっそ哀れになってくる。
 
 
「ただのゲームセンターのスタッフルームにあんな厳つい男が張り付いてるわけねぇもんな。なぁ、中は何になってんの?」
「…そんなの言えないよ」
 
 
 保田が困り果てたように肩を落とす。しゃがみ込んだまま膝頭に額を押し付けた姿は、親に叱られた子供のようで何とも気の毒だ。その姿に申し訳なさを感じないわけではない。だが、それ以上に健一には切願することがあった。
 
 
「保田さん、俺あの中に入りたいんだ」
 
 
 膝を抱える腕にそっと触れながら呟く。途端、保田がバッと顔をあげた。その顔にはありありと驚愕が浮かび上がっている。
 
 
「何、言ってるんだ君は」
「あの中に友達が入るところを見たんだ。俺はその子に会いたい。会わなくちゃいけない」
「君の友達? 賭博場に一体誰が…」
 
 
 瞬間、口を滑らしてしまったことに気付いたのか、保田が唇を引き攣らせて顔を歪めた。賭博場と保田は確かに言った。
 
 賭博、あぁギャンブルのことか、と頭の中でようやく単語が繋がる。だが、その言葉に現実味はなかった。TVで放送される競馬場の喧騒がちらりと過ぎっただけだ。
 
 
「賭博場、なんだ」
「…そうだよ。それに非合法の、とても危険な場所なんだ。だから、そんなところに君を連れて行くわけにはいかない」
 
 
 よろよろと鈍い動作で立ち上がりながら、保田はハッキリと言い放った。珍しく付け入る隙のなさそうな決然とした声だ。
 
 
「でも、友達がいるんだ」
「それなら、僕が中に入って探して来るよ。必ず見つけ出すから、君はここから出て、どこか…外の喫茶店で待ってて欲しい」
「……いやだ」
 
 
 保田の申し出を、子供っぽい駄々で拒絶する。保田が溜息を吐くのを聞きながら、健一は俯いて緩く下唇を噛み締めた。
 
 嫌だった。どうしても嫌だった。自分が馬鹿げた我侭を言っているのは解る。常識から考えて、保田が言っていることが一番正しいことだって解っている。どこの大人が子供を賭博場に連れて行く。倫理的にも狂ってるし、それ以上に保田は刑事だ。刑事が子供を同伴させて捜査など、リスクが高いだけで何の得にもならない。下手をすれば、お互いを危険に晒す可能性だってある。
 
 首を左右に振りながら、保田が子供に言い聞かせるような声音で喋る。
 
 
「健一くん、こればかりはダメだ。絶対に、君を連れて行かない。外で待つんだ、いいね?」
 
 
 保田の決意は固い。それはその表情や言葉からも見て取れる。俯く健一の頭を躊躇いがちな手でゆっくりと撫でて、保田は健一を残して歩き出す。
 
 解ってる。全部解ってる。どんなに馬鹿げた事を自分が言ってるかも。保田が受け容れられないことも。それでも――
 
 去っていこうとする保田のコートの裾を掴む。引っ張られる感覚に、保田が振り返る。その顔を見ずに、健一は掠れた声をあげた。
 
 
「……真昼に会いたい」
「真昼…?」
「俺の…大事な子…もう死んじゃった、女の子…」
 
 
 健一の震えた声に、保田の身体が強張るのが解る。
 
 
「吾妻の妹で…このあいだ、首吊って、死んじゃったんだ…。でも、さっき…あの中に入るの見て…もしかしたら、生きてるのかも、って…思って…」
 
 
 ぐずっと鼻を啜る。耐え切れなくなったように健一は、保田のコートにしがみ付いた。保田の脇腹に額を押し付けて、そのままたどたどしく続ける。
 
 
「げ、幻覚かも、って思ったけど…俺、あたま可笑しくなったのかも、って思ったけど……でも、幻覚なんて、思いたくないし…生きてて欲しい、から……自分の目で確かめたい…人から聞くんじゃなくって…自分の目で、ちゃんと…真昼が生きてる、って…」
 
 
 保田は明らかに狼狽している様子だった。しがみ付いて小さく震える健一の肩の上を、保田の手が彷徨っているのを感じる。抱き締めようかと逡巡している手だ。
 
 保田がぐらついているのが健一には手に取るように解った。先ほどまでは付け入る隙なんてなかったのに、今は足元から崩れ始めている。
 
 
「だけど…」
 
 
 弱々しい保田の声に、健一は今だとばかりに盛大に鼻を啜った。俯いたまま、涙の一切滲んでいない目をわざとらしく擦る。
 
 
「…真昼は…俺のせいで死んだんだ…」
 
 
 保田の身体に、一瞬震えが這い登った。健一は保田にキツクしがみ付いたまま、うっうっと短い嗚咽を零した。
 
 
「俺のせいで…殺されたんだ…。俺は好きな女の子を、見殺しにしちゃったんだ…。だから、謝りたい。ちゃんと、顔みて、ごめんなさい、って…幻覚でも、夢でも、いいから…探して、ごめんなさいって言わないと…俺、苦しくて死んじゃうよ…」
 
 
 そうして、一際強く保田にしがみ付くと、健一は誰が聞いても可哀想と思えるような哀れな声をあげた。
 
 
「ねぇ…おれのこと、助けてくれるんでしょ…お願いだから、おねがい…保田さん…」
 
 
 第三者が聞けば馬鹿げて聞こえるだろう台詞も、保田には効果覿面だった。
 
 保田は、健一の肩の上で彷徨っていた手をわなわなと震わせた後、ゆっくりと健一の身体を抱き締めた。その瞬間、健一には保田が『落ちた』のが解った。解って、笑いを堪えるのが大変だった。
 
 
「うん、うん…解ったよ…。何とかしてみる、よ」
「ほんとう?」
「本当だよ。ただ…さっきみたいな無茶はしちゃいけないよ。大人に殴られるのは、とても痛いことなんだから…」
 
 
 そんな事はとうの昔に知っている。保田は涙ながらに自分に縋り付いてきた健一を普通の子供だと勘違いし始めているのかもしれないが、健一は大人の暴力をとっくに体感している。殴られ蹴られ、犯される痛みと屈辱を身をもって知っている。
 
 一瞬、馬鹿じゃねぇか、と保田を嘲ってやりたくなったが堪えた。折角ここまで健一に同情をしてくれたのに、それを叩き崩すのは勿体無かった。この調子なら、もっと上手く使えるはずだ。
 
 
「うん、解った。俺、ちゃんと大人しくするから…」
 
 
 素直で殊勝な子供を装って答える。保田は安堵したようにほっと肩から力を抜いた。
 
 その安堵を感じて、健一はふと『どうしてだろう』と思った。こんな三文芝居じみた嘘を、どうして簡単に信じることが出来るのか。何故疑おうとしないのか。
 
 そうして、不意に気付いた。
 
 
――俺が子供だからか…。
 
 
 青柳が言っていた通りだ。子供であることに絆され、油断する大人は幾らでもいる。その通りだった。保田は、健一が嘘を付いているだなんて微塵も思っていない。嘘泣きだなんて欠片も疑っていない。子供を疑うという思考を持っていないのだ。
 
 不意に、全身が沸き立つような正真正銘の震えを感じた。予期せず膝がガクガクと震える。保田が驚きの声をあげる。
 
 
「健一くん、大丈夫かい…?」
「だ、いじょうぶ」
 
 
 声が掠れていた。だが、怯えているわけではなかった。健一は、今紛れもなく高揚していた。
 
 自分が大人を『利用』できると知った瞬間、体内にどす黒い何かが生まれた。それは憎悪でも嫌悪でもなく、したたかに生きる心だった。
 
 
 ――俺は、したたかになれる。今この時から、今以上に、誰よりも…。
 
 
 腹の底で育っていく黒いものを、健一は心地よく受け容れた。憎悪や嫌悪よりも、それはずっと健一に馴染んだ。
 
 保田のコートを掴む手の力が強くなる。保田が自分を心配しているのが解る。だから、もっと可哀想な子供のフリをしてやりたくなった。
 
 
「…ごめんね、保田さん、迷惑かけて…。おれ…おれっ…ほんとに…ごめんなさっ…」
 
 
 言葉に詰まったフリをする。咽喉の奥で、嗚咽を噛み締めるフリをする。
 
 気丈な子供が哀れげに泣いている様子に、保田が狼狽するのが面白い。簡単に騙されてバッカじゃねぇの!と頭蓋骨の内側で自分の高笑いが聞こえる。
 
 だが、その反面、酷く胸糞の悪い感情も湧き上がった。保田は、本気で健一を思いやっている。その気持ちを踏み躙っているのではないかという罪悪感。利用して、馬鹿にして、そんな自分は最低だった。込み上げてくる自己嫌悪に、健一はゆっくりと奥歯を噛み締めた。
 
 五月蝿い、自分が最低だなんてもう解り切ったことじゃないか! 今更何を躊躇う!
 
 両手で顔を覆ったまま、保田から離れる。
 
 
「…目ぇ赤いから…、ちょっと一人にしてくれると、うれしい…」
 
 
 弱々しい声で訴えかける。保田は暫く逡巡したように左右を見渡した後、すぐそこにいるから、と言ってプリクラ機から出て行った。
 
 保田の気配がなくなったところで、健一はプリクラ機に備え付けられていた小さな鏡を覗き込んだ。
 
 そこには渇いた目をした子供が映っていた。卑怯者の顔だ。掌でゆっくりと頬を撫でてから、健一は目の下辺りを指先で執拗に擦った。赤く腫れていなければ、嘘泣きだとばれると思ったのだ。涙袋がぷっくりと膨れ上がったところで健一は再度鏡を覗き込んだ。矢張り目は渇いていた。
 
 
 
 
 
 
 プリクラ機の傍で不安げに立っていた保田へと声を掛ける。保田は健一の目が腫れているのを見ると、痛々しげに顔を歪めた。その腫れが意図的に作られたものとは欠片も疑っていない表情だ。その痛ましげな表情に、健一は微かな切なさを感じた。
 
 いっそ嘘泣きに気付いて、最低な子供だと罵って欲しかった。
 
 卑怯者、人間のクズ、嘘吐きの狼少年だと言って欲しかった。すべてをバラしてしまいたくなる欲求を抑えながら、保田の指をそっと掴む。保田の指先がピクンと跳ねた。
 
 
「ねぇ…」
「…何?」
「…俺のこと、イヤになんない…?」
 
 
 女々しい問い掛けだった。言った瞬間、顔がカッと熱くなった。
 
 咄嗟に駆け出そうと足が動くが、その前に背中に誰かの体温を感じた。保田が背後から健一を抱き締めていた。まるで壊れ物を抱き締めているかのような、やさしく柔らかい抱擁だった。
 
 
「――嫌じゃない。嫌にならない」
 
 
 保田の声が耳元近くに吹き込まれる。その息は、思った以上に熱かった。その熱に、首筋がぞくりと粟立つ。
身体に絡まった腕から逃れようと身じろぐと、不意に息が止まるような強さで抱き締められた。祈るような声が届く。
 
 
「君が可愛い。誰よりも可愛い」
 
 
 それは告白にも懺悔の言葉にも聞こえた。腕から力が抜ける。保田の腕の中から逃れ出ると、健一はじっと保田を見上げた。保田はどこか悲しげな表情で微笑んでいる。
 
 
「君を助けたい。心から、そう思ってるんだ」
 
 
 独白するように言い放つと、保田は緩く首を左右に振ってから歩き出した。その後ろを、慌てて付いていく。
 
 保田の言葉の意図を、健一は上手く理解することが出来なかった。ただ、保田が自分を嫌っていないのだけは解る。今はそれだけが唯一の救いのように思えた。
 
 
 
 
 
 
 扉の前には、相変わらず蛍光緑のパーカーを着た男が立っていた。男は保田と健一に気付くと、一瞬目を細めた。無言の威圧感に、保田が舌を縺れさせる。
 
 
「あ、あのっ、やっぱりこの子も一緒に連れて行きたいんだけど…、こ、この子は好奇心旺盛で…」
 
 
 保田が言い終わる前に、男は無言のまま扉を開いた。その様子に、ぽかんと保田が口を開く。
 
 
「え?」
「原野社長から先ほど電話がありました。土方常務が甥っ子を連れて来たら、一緒に遊ばせて欲しいと」
 
 
 男の口調から、露骨にしぶしぶといった様子が見て取れる。どうやら保田と健一がまごついている間に、裏から手助けが入ったらしい。それが警察からの手助けなのか、それとももっと別のところからの手助けなのかは解らないのが。
 
 
「原野、社長からですか…」
 
 
 保田の口角が微かに歪む。苦々しさを押し殺そうとしている表情だ。保田の知っている人物なら、間違いなく警察側の人間の加担だろう。
 
 
「原野社長たっての願いですから、今回はオーナーが特別に認めました。どうぞ甥っ子さんと心ゆくまで楽しんで下さい」
 
 
 言葉は丁寧なのに、口調には紛れもない苛立ちが滲んでいた。保田は完全に萎縮しているが、健一は右から左に聞き流した。
苦虫を噛み潰したような表情をした男を無視して、さっさと扉の中へと入ろうとすると、保田が慌てて健一を押し留めた。
 
 
「ちょ、ちょっと待って。僕が先に入るから、君は後ろから着いてきて」
 
 
 それが保田なりの気遣いだと解っているから、健一は不服に思いながらも従った。
 
 扉の中は、地下へと続く階段だった。保田が恐る恐るといった足取りで階段を下っていく。それに続こうと足をあげた時、不意に男が健一へと声を掛けてきた。先ほどとはまったく違う、砕けた口調だった。
 
 
「なぁ、やっぱり似合ってねぇか?」
「…はぁ?」
 
 
 唐突な問い掛けに、健一は露骨に顔を歪めた。男が蛍光緑のパーカーの胸元を掴みながら、これだよこれ、と促すように言う。健一は、男とパーカーを数度見比べて頷いた。
 
 
「似合ってない」
「やっぱ、そうか」
 
 
 男が深い溜息を吐き出す。ロボットじみていた面に人間の感情が滲み出ていた。それを見た瞬間、健一は不意に男に対して愛着を感じた。人間だと思えば、可愛げを感じる。
 
 パーカーを指先で弄くりながら、どこか落ち込んだ様子の男を見て、健一は言った。
 
 
「あのさ、さっき虫ケラとか言って悪かった」
 
 
 さらっと謝罪の言葉を零す。男が驚いたように顔をあげた。次に男が何かを言う前に、健一は階段を勢いよく下りた。
 
 

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