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23 紫煙 *未成年喫煙描写有

 
 目の前から着実に金が消えていく。ゲームを始めてから一時間が経過していた。百万円分あったはずのチップは、初めの量から確実に半分は消えている。それは五十万円がこの場に『溶けた』という事実に他ならない。つまりは、健一の金は目の前の男達に着実に奪われつつあるということだ。
 
 手元の五枚のカードを指先で曖昧に弄くりながら、横目で減っていくチップを苦々しく眺める。
どうしてこうなった、と健一は頭の中で考えた。勿論、大人相手に素人の子供が簡単に賭博に勝てるだなんて思っていたわけじゃない。あえなく負けて、百万円をドブに捨てる覚悟も持っていた。だから、これは訪れて当然の現実だとも思う。
 
 だが、何かが変だった。
 
 ポーカーを始めた当初は、まだゲームらしい勝ち負けというものが存在した。負けることもあれば勝つこともあった。健一のチップは一時は百万円よりも多くなったりもしたのだ。
 
 だが、健一の指南役をしていた椿が席を立ち、そうして三十分を過ぎた頃から何かが狂い始めた。
 
 勝てない。健一に良い手がくれば、斉藤はすぐにドロップしてしまう。逆に健一に悪い手がくれば、賭金をとことんつり上げられる。また、良い手だと思ってレイズすれば、それよりも一歩強い手を出されてギリギリで負ける。
 
 微かな違和感を感じ始めた時から、健一は一度も斉藤に勝てていないのだ。
 
 いい加減健一だって異常だと気付く。子供で素人だからといって、数十分にも渡って一度も勝てなくなるなんて明らかにおかしい。延々と負け続けることなどあり得ない。
 
 
「レイズ」
 
 
 斉藤の横に座る男が卓の中央へとチップを放り投げる。その声に、健一は慌てて手元のカードへと視線を落とした。ファイブとセブンのツーペア。普通に考えれば、それほど悪くはない手だ。
 
 
「貴方、は?」
「あ…、コール」
 
 
 パクヒョルの鈍い問い掛けに、傍らのチップから数枚を卓中央へと寄せる。寄せている途中で重ねたチップが崩れて健一は狼狽した。本当はそんなに動揺することもなかったのかもしれない。だが、その瞬間はまるで下らない粗相でもしてしまったかのような困惑があった。健一のぎこちない手つきを見て、斉藤が滑稽なものでも見たかのように笑う。
 
 
「ドロップした方がええと思うけどぉ?」
 
 
 にちゃりと粘着いた声音に、微か背筋が粟立つ。斉藤を横目で見遣って、健一は小首を傾げた。
 
 
「ドロップした方がいいって思う?」
「思う思う。ドロップしちゃいなさいな」
「じゃあ、レイズ」
 
 
 斉藤の忠告とは正反対の行動を取ったのは、単なる意地だ。舐めた態度を取られるのが一番腹立たしい。
 
 更に数枚のチップを加算した健一を見て、斉藤があーあ、と言わんばかりに首を小刻みに振った。
 
 
「じゃあ、僕もレイズするわ。高慢なお子さまの鼻は早いうちにへし折っとかんとねぇ」
 
 
 嘲りを含んだ笑い声に、健一は体内がカッと焼け付くような怒りを覚えた。カードを握る指先が微かに戦慄いて、吐き出す息が長く深くなる。いとも簡単に翻弄されている自分を感じると、自虐心にも近い自己嫌悪を覚えた。
 
 まずは落ち着こうと深呼吸をしようとした時、斉藤がカードをめくった。
 
 クイーンのスリーカード。
 
 健一の負けだ。卓に広げられた健一の手札を見て、斉藤が卑しい笑みを深める。
 
 
「だから言ったのにさ」
 
 
 その一言に、皮膚の温度がすっと冷えた。卓に積まれたチップを斉藤が掻き集める。
 
 思わず叫び出しそうになった。
 
 畜生、俺の金が!
 
 身体を切り売りしてようやく手に入れた金がいとも簡単に下劣な男に奪われていく。それが耐えられない。
 
 今の大敗で、チップはすでに数えるほどまで減った。背後で保田が不安げに健一を眺めている。だが、今はその視線すら鬱陶しかった。
 
 
「あはっ、僕お金なくなってきちゃったねー」
 
 
 ゲームが始まってからずっと保田の腕に絡み付いている女がおかしげに声を張り上げる。その小馬鹿にした声に、怒りよりも先に情けなさを覚えた。俺は、こんなノーブラ女にすら馬鹿にされているのか。
 
 
「ねぇ、もうそろそろやめた方が…」
 
 
 怖じ気づいたように保田が弱々しい声をあげる。とっさに保田に殴り掛かりたくなる衝動を抑えて、健一は肩越しに微笑みを向けた。
 
 
「何で? 俺、まだやりたいな」
「でも…」
「まぁまぁ、もうちょっとええじゃないですか。ケンイチくんもやる気なことだし。僕もやさしゅうしてやりますからぁ」
 
 
 渋る保田の様子に、斉藤が慌てたように口を挟んでくる。たかだか百万の端金を奪った程度で金蔓を逃がしてたまるかという思惑がありありと滲んでいた。
 
 
「そんなことを言われても…」
「カード」
 
 
 保田の言葉を遮って、健一はディーラーへとカードを配るように言った。パクヒョルが素早くカードをメンバーへと配り始める。保田がぐっと口を噤むのが見えて、健一は心の内で舌を出した。
 
 保田がどれだけ渋ろうが健一はゲームをやめるつもりはなかった。たとえ金がすべて消えても最後までやると決めていた。それは意地からの決意ではない。意地なんて言葉では片付けられない。
 
 このゲームに負ければ、健一は人生の敗者であり続ける。真昼にも会えず、拳銃も手に入らず、吾妻の下で家畜のような生活を送り続ける人生が待っている。
 
 他人が聞けば、何を大袈裟なと言われるかもしれない。ここで負けても、また別のチャンスはあると諭されるかもしれない。だが、そのチャンスは人生に数えるほどしかないものだと健一は考えている。そうやって巡ってきた少ないチャンスを負け続ければ、いずれ待っているのは自身の破滅だ。一度負け癖をつければ、それはイコール終わりを意味する。だから、健一は今、今ここで勝たなければならない。人生の敗者にならないために。
 
 そう思えば、保田が言うように簡単にゲームをやめられるはずもなかった。健一は、何が何でも勝たなければならない。勝利以外に自分の未来を開く方法など存在しないのだ。
 
 配られたカードを開く。ジャックのワンペアだ。残った三枚のカードを交換させようとした時、不意にもう一人の男が健一に声をかけた。斉藤と一緒にこの卓についた残りの一人だ。
 
 
「君は幾つなんだい?」
 
 
 初めは自分へ向けられた言葉とは思わなかった。この男が健一に話し掛けるのは初めてだ。
 
 男は、二十代とも四十代ともとれる童顔じみた穏やかな顔をしていた。だが、目尻に刻まれた皺と手の甲に浮かんだ血管がやけに男の印象を老衰させている。煙草を指先に挟んで、ゆっくりと紫煙を吐き出す姿が嫌味にもニヒルにも見えた。
 
 
「十二歳」
「そうか。私は三十九歳だ」
「…ふぅん、それが?」
「私に君ぐらいの子供がいてもおかしくないと思っただけだよ」
「おじさん子供いないの?」
「いないね」
「作らないの?」
 
 
 男が口元に苦笑を滲ませて、肩を竦める。
 
 
「作らない。売り物にしてしまうからね」
「売り物?」
「子供の内臓は高く売れるんだよ」
 
 
 思わず乾いた笑いが零れた。男の言葉は冗談とも本気とも取れなかった。そういえば、腹沢からも言われた事がある。子供の内臓はまだ持っていないから欲しいのだと。
 
 
「俺の内臓も売れる?」
「ああ、きっと高くね」
「おじさん何してる人?」
「いろいろさ」
「いろいろって何」
「いろいろはいろいろだよ」
 
 
 男は投げやりに煙草の先端を揺らして、肩を竦めた。
 
 
「時岡さん、そんなこと言うたらお子ちゃまが恐がりますよぅ」
 
 
 斉藤が横から口を挟んでくる。だが、その声音からは下卑た覗き見根性が透けて見えた。
 
 どうやら、もう一人の男は、時岡という名前のようだった。健一は、何となく時岡はヤクザだろうと検討をつけていた。その鈍く研ぎすまされた眼光や醸し出すオーラが吾妻家で見たアウトロー達と被るところがある。
 
 喋っている間も、健一は負け続けた。それも斉藤にばかりだ。時岡はさして勝敗に拘る様子もなくのらりくらりとドロップとコールを繰り返すが、斉藤は健一が親の時ばかり狙ったように金をつぎ込んでくる。健一は、散々『溶かされた』。とうとうチップの最後の一枚もなくなる。
 
 
「あっれーぇ、もう銭がないんと違うん? 僕ぅー?」
 
 
 鼓膜にべたりと貼り付くような斉藤の声が聞こえる。その気色悪さに健一は微かな吐き気を催した。
 
 
「こりゃお金持ちな叔父様に追加出してもらうしかないねぇ」
 
 
 初めから手前はそれが狙いだったんだろうがと吐き捨てたくなる。斉藤のねっとりと絡んでくる声に、背後の保田がビクリと肩を震わせるのを感じた。だが、保田に金を出させるつもりは勿論なかった。
 
 健一は、無言のままビニール袋に入れていた残りの百万を取り出した。百万の束をぞんざいにテーブルへと投げ捨てる。
 
 
「俺がやるって決めたんだ。叔父さんは関係ない。金が足りなくなりゃ俺が全部払う」
 
 
 テーブルの上に置かれた札束を眺めて、斉藤はほへぇと奇妙なため息を吐いた。
 
 
「君、幾らお小遣いもらっとん?」
「遊ぶのに困らないだけ」
 
 
 健一は肩を竦めて、口角に薄っすらと笑みを滲ませた。まだまだ金に余裕のある子供のふりをする。
 
 実際は、健一の全財産はもう手元の百万だけだった。それがなくなった瞬間に、健一の負けは決定する。だが、引く気はなかった。ここまで来たら、逃げようがすべてを失おうが一緒のことだ。
 
 
「ゲーム続行だ」
 
 
 時岡が冷静な声音で、カードの配布をパクヒョルへと命じる。パクヒョルは、それに目と行動で答えた。小気味の良い音を立ててカードがシャッフルされる。
 
 その間に、斉藤が「ぼく、おトイレ」と言って席を立った。時岡は相変わらず眠たげとも見える無表情のまま煙草を吸っている。
 
 
「ねぇ、煙草って美味しいの?」
 
 
 ふと好奇心から尋ねると、時岡は紫煙を吐き出しながら「美味くはないね」と答えた。
 
 
「なら何で吸ってんの?」
「頭がクリアになるからかな」
「クリア?」
「冷静に」
 
 
 時岡の言葉に、どこか根拠のなさを感じながらも健一は「ふぅん」と頷いた。
 
 
「なら、俺にも吸わせて」
「未成年の喫煙は法律で禁止されているよ」
「法律って、ヤクザがそんなこと言うわけ?」
 
 
 かすかな嘲笑を持って、健一は言った。ヤクザと口に出した瞬間、時岡は一度目を大きく開いた。それから、気だるげな溜息を吐き出す。
 
 
「ヤクザっていう言い方は好きじゃないな」
「じゃあ、どういう言い方ならいいわけ?」
「さぁ。暴力団とか任侠団体とかかな」
「そう。でも、お綺麗な言い方にしたところで本質は変わらないじゃないか」
「本質? 君はヤクザの本質を知ってるのか?」
「ただ、奪い取る。それだけだろ」
 
 
 蔑みも敬いもなく、健一は淡々と答えた。略奪こそが吾妻や吾妻を取り巻く人間たちの本性だと、健一はそう信じている。そうして、それはあながち間違ってはいないとも思う。
 
 時岡は黙って健一を見つめ、それから煙草の箱を健一へと差し出した。健一は、箱から一本煙草を抜き取った。
 
 
「火をつける時に、フィルターから空気を吸い込むんだ。初めは肺まで吸わずに、咽喉ぐらいで止めておけ。慣れてから深く吸え」
 
 
 そう教授されて、健一はフィルターを口に咥えた。背後から保田の制止の声がかかる。
 
 
「ちょ、っと、煙草なんてやめるんだ! 君はまだ…!」
「お姉ちゃん、ちょっと叔父さんを黙らせて」
 
 
 保田ではなく、保田の腕に絡み付く女へと声をかけた。女は「はぁい」と気の抜けた声をあげると、保田の唇へと猛烈に吸い付いた。突然唇を奪われたことに保田が恐慌したように手足をバタ付かせている。その動きが滑稽で、健一は煙草を咥えたまま薄く笑い声を零した。
 
 銀色に鈍く光るジッポを持った時岡が火を近付けてくる。
 
 
「子供は嫌いだったんだけど、何だか君のことは好きになってきたよ」
 
 
 そう囁く時岡は、冷めた眼球に微かな好意を滲ませていた。その悪意と紙一重の眼差しは心地よかった。保田の同情の眼差しよりもずっと。
 
 煙草の煙を浅く吸い込む。初めに感じたのは舌の上に走る苦味だ。息苦しさすら覚えるほどの苦さに咽喉が収縮して、小さく噎せた。それでも、健一は煙草を離そうとも思わなかった。確かにこの苦さは、頭を多少は醒ましてくれると思ったからだ。
 
 
「これ、まずいな」
「だから、言っただろ」
「でも、慣れたら癖になりそう」
「子供が随分と生意気言うもんだね」
 
 
 呆れたような時岡の声音に、健一は時岡の仕草を真似て唇から紫煙を吐き出した。それを見て、時岡が目を細めてにやりと笑う。健一と時岡は、互いにとって不快感を感じない距離間を心得始めていた。
 
 パクヒョルが無言で、健一の前へと灰皿を置く。長くなった灰を落としながら、健一は一瞬煙草を持つ自分の指を他人の物のように感じた。
 
 数ヶ月前は、自分が煙草を吸うだなんて考えもしなかった。コンビニの前でたむろして煙草を吸っている高校生を最低だなんて軽蔑していたのに。自分はまだ小学校も卒業していないのに、こうやって賭博に参加し、慣れないながらに煙草まで吸っている。セックスも無理矢理ながらに経験させられている。
 
 紫煙を吐き出しながら、溜息混じりに独りごちる。
 
 
「呆気ないな」
「何がだい?」
「駄目になっていくのが」
 
 
 これ以上のクズになりようがないと思っていたのに、まだまだ堕ちていくことが出来る。自分自身を際限なく貶め、憎むことができる。心は底無しだ。
 
 煙草の煙を吸い込む。だんだんと舌や咽喉が麻痺してきたのを感じる。初めはあんなに苦しかったのに、今はもうそれすらも感じられない。慣れは、痛みや苦しみを当たり前に変えていく。
 
 時岡は一度首を傾げて、それから酷く愉快そうに微笑んだ。穏やかな笑みなのに何処か酷薄さが滲んでいる。
 
 
「ねぇ、君、本当はその金はどうやって稼いだんだい? 君のいう『叔父さん』からのお小遣いじゃないんだろう?」
 
 
 不意に、時岡が無遠慮に健一の心へと踏み込んできた。健一はそれを惰性で受け容れた。拒絶するのが億劫だったのもあるが、時岡なら面倒なことを言い出したりしないであろうという奇妙な信頼にも似た感慨もあった。
 
 
「知りたい?」
「あぁ、とても」
 
 
 健一は唇から煙草を離して、時岡の耳元へと寄せた。自分でも子供らしかぬ崩れた仕草だと思った。
 
 
「身体を切り売りした」
 
 
 時岡が目を瞬かせる。イタズラげな光が眼球に浮かんでいた。
 
 
「自分の身体を、まるでマグロみたいに言うんだな」
「そう。喰われたから」
「身体を?」
「うん」
 
 
 まるでこの上なく面白い冗句でも聞いたかのように、時岡が咽喉を慣らして笑う。そうして、健一の耳元に囁いた。
 
 
「本当は言わないでおこうと思ってたんだけどね。君が面白いことを聞かせてくれたから、私も一つ面白い話をしよう」
「面白い話?」
「そう」
 
 
 軽く頷いて、時岡はそっと健一の瞳を指で示した。
 
 
「次のゲームでは、カードではなく相手の目を見ることだ。そうすれば気付くこともあるはずさ」
「気付くことって?」
「君がコケにされてるってことだ」
 
 
 時岡の指が下ろされる。そうして、時岡は先ほどまでの遣り取りなどまるでなかったかのように悠然と煙草を吸った。遅うなってえろうすんません、と言いながら、斉藤が戻ってくる。
 
 健一は時岡の言葉を頭の中で反芻しながら、煙草を灰皿へと押しつけ再びカードを手に取った。
 
 

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