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25 臓物

 
 保田をトイレから先に出て行かせて、健一は洗面台の鏡を覗き込んだ。
 
 焦燥が色濃く滲んだ自分の面は、見るに耐えなかった。白目の部分が血走って、緊張に口角の筋肉が小刻みに痙攣している。頬は青ざめているのに、目尻だけが目が覚めるほどに赤い。金に固執した醜悪な面だ。こんな面をしていれば負けるのも当然だった。
 
 健一は一度息を大きく吸って、それから水を流す蛇口の下に乱暴に頭を突っ込んだ。後頭部から顔面へと水が伝ってくる。冷たい水の感触が熱した頭に心地良い。開いたままの眼球に水が入って、目の前の光景がぐにゃりと歪んだ。
 
 健一は、ゆっくりと顔を上げた。そこに居たのは平坦な顔をした子供だ。何処にでもいるありふれた子供の顔。それなのに、目だけが泥でも詰め込んだかのように澱んでいる。深い闇の色だ。
 
 その目を見た瞬間、健一は死ぬことを決めた。今から訪れる勝負に勝つためには、健一は死ぬ覚悟をしなくてはならない。金のためではなく、勝利のために自分の命を投げ捨てる。もう迷ってはいけない。迷えば、一歩も進めなくなる。だから、迷わず、躊躇わず崖から飛び降りる。勝利を掴むために、ここで死ぬ。そう、心に決めた。
 
 勝つために死ぬという皮肉な考えに、健一は鏡の中の自分に小さく笑いかけた。鏡の中の自分がケタケタと声をあげて笑っている。健一を指さして、『死ねよ死ね! 死んじまえ!』と金切り声をあげる。狭い空間を狂気の笑い声が甲高く満たす。
 
 これは幻覚だろうか。それとも、こちらが現実の自分の姿なのか。夢と現実のボーダーラインが曖昧になって、狂気の世界へじわじわと、だが確実に呑み込まれていく。
 
 前髪から滴る水滴を掌で雑に拭って、健一は鏡の中で笑う自分を見据えた。声に出さないまま『ばぁか』と唇だけ動かす。そうすると、はは、と短い笑い声が零れた。笑ってるのに、重石でも乗せられたかのように胸が苦しかった。身体と心が正反対に動く。もう自分の心すら解らない。本当に心があるのかすら解らなくなっていた。
 
 それから、五分後に健一はテーブルへと戻った。馬鹿女ことチオリに腕をガッチリと掴まれた保田が不安そうに健一へと視線を向ける。その表情に、もう苛立ちは覚えない。気持ちは凪のように穏やかだった。
 
 無言で席につく。頭をしたたかに濡らした健一を見て、怪訝そうに斉藤が顔をしかめた。
 
 
「君、水浴びでもしてきたん?」
 
 
 問い掛けに、健一は小さく頷いた。ついでに、淡く微笑む。とろけるような健一の笑みに、斉藤が一瞬虚を付かれたように咽喉を反らした。
 
 
「…気味の悪いガキやな」
 
 
 初めて斉藤の口から苦渋にも似た嫌悪の言葉が零れた。斉藤の仮面が外れかかっている。
 
 ゲームは静かに再開した。健一は、淡々と賭けた。負ける度に胃がぎゅっと収縮するような苦痛があった。だが、健一は息を殺して耐えた。ただ、じっと『その時』が来るのを待ち続けた。
 
 
「随分と大人しくなったね。さっきまでは大勝負がしたいって息巻いてたのに」
 
 
 手持ちのカードを交換している時に、時岡が健一へと声を掛けてきた。健一は数度瞬きをしてから、困ったような笑みを時岡へと向けた。
 
 
「叔父さんにトイレで怒られたからね。あんまり無茶するなって」
「君は、人の言うことなんか聞かない子だと思ってたよ」
 
 
 ちらりと肩越しに保田へと視線を向ける。ウイスキーが入ったグラスを両手で持ったまま、保田はどこか泣き出しそうな表情で健一を見ていた。
 
 
「叔父さんは、俺のことを真剣に考えてくれてる。だから…」
「だから?」
「嫌いになれないよ。そういう人は」
 
 
 これは健一の本心だった。保田の対して苛立ちを覚えながらも、それでも健一は保田のことを心の底から嫌いになることは出来なかった。
 
 不器用で単純ながらも、保田は健一に対して真摯でいてくれる。馬鹿にしたり、軽蔑したりしない。それがどれだけ自分にとって救いなのか、健一はよく解っていた。
 
 背後で保田が驚いているのが空気を通して伝わってくる。それがやけにむず痒かった。
 
 時岡は一瞬真顔になって、それからふと頬を笑みに緩めた。子供のように小首を傾げて、時岡は健一の顔を覗き込んで来る。そうして、耳元に淡く囁いた。
 
 
「君は、可愛いね。叔父さんが夢中になるのも解る」
「は…何言ってんの?」
「不安定で鮮烈なその心は、きっとたくさんの人を魅了し、堕落させる事ができる。君が喜ぼうが悲しもうがそれは変わらない。いずれ君は他人を破滅させる事も簡単にできるようになる」
 
 
 健一には、時岡の言っている言葉の意味が理解できなかった。だが、それは呪いのように健一の鼓膜にべったりと貼り付いた。
 
 不可解そうに眉間に皺を寄せた健一を見て、時岡が軽やかな笑い声を漏らす。
 
 
「これはその第一歩目だよ」
 
 
 思わせぶりな時岡の声音に、不快感が背筋から駆け上がって来る。震えるような嫌悪に襲われながら、健一は薄く息を吐いて交換したカードへと視線を落とした。
 
 その瞬間、眩しくもないのに目が眩んだ。眼球の裏側で鋭い光が四方八方に乱反射して、健一の意識を酩酊させて行く。
 
 一瞬、咽喉を鳴らしてしまったかと思った。だが、自分の頬や身体は、動揺を必死に押し隠している。ポーカーフェイスのまま、いつも通り指先でつまらなさそうにカードをいじる。だが、本心は指先が震えないようにするので精一杯だった。

    

 他愛のないワンペアだ。だが、健一はこのカードを待っていた。
 
 健一は、乾いた咽喉を潤すためにオレンジジュースのグラスを右手に掴んだ。そうして、背後の保田へと視線を向ける。保田がぱちりと目を瞬かせる。そのきょとんとした顔に、健一は快活に笑い掛けた。
 
 
「ねぇ、これ終わったらご飯食べに行こうよ。俺、栄華園の中華が食べたいな。あそこのフカヒレってすっごく美味しいからさ。ね、ジュン叔父さん、いいでしょ?」
 
 
 何を暢気なことを、と斉藤が呆れ返っているのが伝わってくる。だが、斉藤にどう思われようと構わなかった。
 
 保田は一瞬面食らったように目を大きく見開いたが、直ぐにどこか安堵したような柔らかい笑みを浮かべた。
 
 
「そうだね。食べに行こうか」
「叔父さんの奢りで?」
 
 
 首を竦めて、わざとイタズラっぽく訊ねた。保田が「こらっ」と戯れに怒ったような声をあげて、健一を小突こうと軽く手を振り上げる。
 
 その時、保田の振り上げた手がグラスを乗せたトレーを持って歩いていたバニー姿の女に丁度ぶつかった。あっ、という短い驚きの声の後、グラスが弾ける甲高いガラス音が響き渡る。トレーに乗っていたグラスの中身だけでなく保田が持っていたウイスキーまで、保田や絡み付いていたチオリの全身にしたたかに掛かった。
 
 
「うわっ…冷たい…!」
「キャア、もうやだぁ~!」
 
 
 上着だけでなくズボンまで濡らした保田が狼狽したように小さく叫ぶ。それに続くように、チオリが悲鳴をあげた。
 
 
「叔父さん、大丈夫?」
 
 
 健一は片手に持っていたカードをテーブルの上へと伏せて、保田へと心配そうに声を掛けた。
 
 保田は何とも情けない笑みを浮かべて、大丈夫だよ、と弱々しく答えた。辺りに盛大に撒き散らされたグラスの破片を眺めて、保田が溜息を吐く。
 
 
「…着替えの服はあるかな?」
「あります」
 
 
 それに答えたのは、ずっとこの場を離れていた椿だった。グラスが割れる音で駆け付けたのだろうか。
 
 
「別室を用意しますので、そちらで着替えて下さい」
 
 
 早口でそう言うと、椿はちらりとチオリへと視線を移した。冷たい眼差しだ。
 
 
「貴女も着替えて」
「えー、あたしはこのままでも大丈夫ですよぅ」
「そんな酒臭い身体でフロアをうろつくなって言ってんのよ」
 
 
 椿の口調は寒々しかった。チオリへの軽蔑を隠そうともしていない。
 
 チオリは二三度神経質に唇を引きつらせたが、すぐに馬鹿っぽい笑みをへらっと浮かべた。保田の身体へときつく胸を押し付けて、さりげなくその手を股間へと滑らせる。おそらく、斉藤への『合図』だ。
 
 
「やぁん、ここも濡れちゃってるぅ。あたしが乾かしてあげますねぇ」
 
 
 困惑の表情を浮かべたまま、保田はチオリに引きずられるようにして別室へと連れて行かれた。水を滴らせる保田の耳朶を、ちおりが悪戯っぽく指先で弄っているのが見える。
 
 立ち去る瞬間、保田は縋り付くように健一を見つめた。その視線に、健一の胸は微かに痛んだ。これから健一がすることを知れば、保田はきっと健一を許さないだろう。
 
 グラスの破片が片付けられ、周囲の喧騒が収まったところで椿が声をあげた。
 
 
「さぁ、どうぞゲームを続けて下さい」
 
 
 椿は健一の斜め後ろに立ったまま、その場を離れる気配はなかった。
 
 
「君の番よ」
 
 
 ベットする番になっても動かない健一に、焦れたように斉藤が言う。健一は残った自分のチップを目測で数えた。五十万もないぐらいか。それをすべて卓の中央へと無造作に寄せた。残金すべてを賭けた健一に、斉藤が目を丸くする。
 
 
「え、どうしたん君ぃ」
「叔父さんもいなくなったし。お腹空いたから、このゲームで終わりにする」
「だから、全部いっぺんに賭けるって乱暴すぎん? ほんまにええのん?」
「いいよ。少なくて不満なら、もっと賭けようか?」
 
 
 斉藤の目がずる賢く光る。この貪欲な男がたかだか百万そこそこ毟り取ったぐらいで満足するわけもない。叔父がいない隙に、この馬鹿な子供からありったけの金を奪おうと動くことも予想していた。
 
 
「叔父さんもおらんのに、そんなこと言うてええのん?」
「叔父さんがいないから言ってんじゃん。いたら、怒られちゃうもん」
 
 
 わざと子供っぽい口調で答える。斉藤は何処か値踏みするような眼差しで健一をじろじろと眺め回している。きっと今斉藤の頭の中では、計算機がカチャカチャと音を立てて動いているのだろう。だが、既に答えは出ている。斉藤は必ず勝負に乗る。自らの勝利を既に知っているのだから。
 
 
「ぼくぅ、賭ける金あるぅん?」
 
 
 喰い付いた、と思った。粘っこい斉藤の声に、健一は必死で笑みを噛み殺して、斜め後ろに立つ椿へと視線を向けた。椿が察したように先に口を開く。
 
 
「ここは金貸し屋じゃないからね。借金の申し入れなら断るよ」
「後で返すって言っても?」
「言葉だけなら何とでも言えるさ。無駄な不良債権を抱えるつもりはないんだ」
 
 
 そのすげない言葉に、健一は落胆を覚えることはなかった。初めから予想していた事だ。こんな子供がお金貸してと言って貸してくれる大人がどこにいる。
 
 
「なら、現物は?」
「現物?」
 
 
 訝しげに顔を歪めた椿から視線を逸らし、時岡の顔を見据える。時岡は相変わらず我関せずといった風采で、遠くをぼんやりと眺めたまま煙草を吸っている。
 
 
「俺の内臓買ってくれる?」
 
 
 怯えも昇ぶりもなく、その言葉は唇からすんなりと出てきた。その事に健一は小さな満足すら覚えた。だが、それは自己嫌悪と紙一重の満足感だった。
 
 時岡はちらりと健一へと視線を向けた後、再び視線を逸らして長閑に紫煙を吐き出した。
 
 
「君は、その意味が解ってるのかい?」
「目玉と肺と腎臓の片方ずつ、これで幾ら?」
「まぁ、一千万ぐらいかな」
「じゃあ、売るよ」
 
 
 潔いというよりも、何処か投げやりな口調だった。俺は自分の人生に投げやりになっているのだろうかと健一は一瞬考えて、どちらでも同じことかと直ぐに思考を放棄した。潔くても投げやりでも、訪れる結果は変わらない。
 
 
「まだ、買うとは言ってないよ」
「何で? 子供の内臓は高く売れるんでしょ? 俺は病気も持ってないし、自分で言うのも何だけど結構活きのいい内臓してると思うよ。俺が負けたって、あんたの損にはならないじゃん」
「子供の口約束は嫌いだ」
「俺のことは好きになってきたって言ったくせに」
 
 
 戯れるように健一はおどけた口調で返した。それまで視線をあらぬ方向へと向けていた時岡が健一へと眼差しを向ける。その眼差しは、微かな親しみに緩んでいた。
 
 
「君は、本当に小賢しくて可愛いね。さりげなく大人を懐柔しようとする」
「カイジュウ?」
 
 
 言葉の意味が解らず、健一は不思議そうに目を瞬かせた。健一の仕草に、時岡が咽喉を笑いに震わせる。健一もつられるように笑みを浮かべた。
 
 
「俺のこと好き?」
「あぁ、好きになったよ」
「じゃあ、買ってくれる?」
 
 
 まるで悪徳商法の営業マンにでもなった気分だ。それよりかは水商売の女か。高いブランド品を強請るかのように、自分の内臓を買ってくれるように強請る。嗚呼、気色悪い。
 
 時岡が笑みを深める。そうして、椿へと向かって軽く頷いた。椿が呆れたように肩を竦めて、一人の男を呼び寄せる。椿から耳打ちを受けた男はスタッフルームらしき扉へと走り、その数分後に黒いアタッシュケースを持って戻ってきた。開かれたアタッシュケースに入っていたのは数え切れないほどの札束だ。
 
 
「君の内臓を担保に一千万を貸し出すよ。ただ、君が金を返せなかった時は、」
「文句は言わないよ」
 
 
 時岡の言葉を遮って、健一は寒々とした声を返した。時岡は無言で健一を見つめて、それから深く頷いた。一千万返せなかった時は、健一は目玉と肺と腎臓の片方を失う。そんなのは大した覚悟でもない。
 
 健一と時岡の遣り取りを聞いて、斉藤が唖然とした声を零す。
 
 
「君、どうかしとるんやない? どこの子供が自分の内臓担保にすんや…」
「だって、借金が駄目ならこれしかないじゃない」
「君は死にたいんか?」
 
 
 滑らかに動いていた唇が不意に凍り付いた。思いがけず、斉藤の言葉が突き刺さった。健一は唇を二三度震わせて、それから殊更穏やかに微笑んだ。
 
 
「まさか」
 
 
 そう答えたが、それが本心なのか自分でも解らなかった。死にたいのか生きたいのか、もう判別が付かない。死にたいのなら、何故自分は生きてるんだろう。何故こんなにも苦しみながら戦っているのだろう。
 
 心は酷く空虚だった。健一には何もなかった。
 
 笑顔が歪みそうになる。涙も出ないくせに、顔が泣き顔になりそうになる。頬骨が軋みそうなほど顔面に力を込めて、必死で堪えた。今は悲哀なんか欠片も見せてはいけない。余裕綽々な子供のフリをし続けなくてはならない。感傷なんか、もう必要ないんだ。
 
 健一の余裕の笑みに、斉藤が身体から力を抜く。内臓を売るという健一の主張をブラフか、子供の冗談とでも思い込もうとしているのだろう。きっと負ければ、叔父さんにでも泣きついて金を用意して貰うはずだ。そう考えているに違いない。
 
 
「内臓売る言うたら、僕が降りるとでも思ったぁ? 僕だってこう見えても、生粋のギャンブラーよ。売られた勝負はきっちり買わせて頂きまひょ」
 
 
 わざとふざけた斉藤の口調。だが、その額には微かに脂汗が滲んでいる。斉藤の動揺を感じながら、健一は肘の高さまで積まれた札束へと手を伸ばした。もうチップに変える必要もない。無造作に百万円の束を掴み取ると、積み上げられたチップへと向かって雑に投げた。チップを薙ぎ倒して、百万円がテーブルの真ん中に落とされる。
 
 
「レイズ」
 
 
 自分の声は、まるで人形のように生気がなかった。札束が落とされる音に、斉藤がビクリと肩を震わせる。その怯んだ様子を見て、ようやく対等に並んだと思った。今同じフィールドに立つことが出来た。
 
 
「イヤやわぁ、これだから生意気なガキは。意地になってもうて、鬱陶しくて叶わん。そのぐらいで大人が怯むとでも思ってるのかねぇ」
 
 
 先ほどよりも斉藤は饒舌になっていた。ぺちゃくちゃと健一に対する悪態を並べ立てて、自分の言葉に自分で笑い声をあげる。それは一人芝居じみた滑稽さと痛々しさがあった。
 
 斉藤は手元の古びた鞄を引き寄せると、その中から百万円の束を一つ引き摺り出した。斉藤の顔は引き攣っている。だが、必ず賭けると健一は解っていた。この男は、自分の欲に勝てない。勝利が事前に解っている勝負なら尚更、逃げることは出来ない。
 
 
「コール」
 
 
 斉藤が言い終わる前に、健一は更に百万円を掴み取った。卓中央へと向かって投げながら「コール」と返す。そこからはお互いにコールが続いた。
 
 まるでゴミクズのように百万円の束がぞんざいに積まれていく。その異様さに、健一達の卓の周りに客が集まり始める。野次馬がざわつく声を聞きながら、健一は最後の札束まで賭け切った。手元の金がなくなった健一に、既に脂汗まみれになった斉藤が勝ち誇った表情を浮かべる。
 
 
「あれぇ、もう金残っとらんと違う、僕ぅー? 賭けられんのんやったら、もう諦めるしかないなぁー」
 
 
 下卑た斉藤の声に耳を傾けず、さっさとドロップしてしまった時岡へと健一は視線を向けた。
 
 
「まだ買ってくれる?」
「もう売れるものはないだろう?」
「まだ半分しか売ってない。目玉も肺も腎臓も、胃も肝臓も、はらわただって残ってるじゃない」
 
 
 もう迷いはなかった。躊躇うだけの感情もなかった。まともな自己愛はとっくの昔に捨ててしまった。
 
 時岡が紫煙を吐き出しながら、ふぅ、と短い溜息を吐き出す。
 
 
「それじゃあ、全部売るのかい?」
「うん、全部」
「その意味が解ってるか?」
「内臓取られて死ぬだけ。それで幾らになる?」
 
 
 余りにも淡泊な自分の口調に、健一は思わず笑ってしまった。死ぬだけ、って完全に馬鹿の台詞だ。ゲームを遣り過ぎの子供が言うような失笑ものの言葉。
 
 だが、健一は死を強く意識していた。負ければ死ぬ。身体から臓器をすべて摘出されて、眼球を抉り出され、骨と皮だけになった自分が残る。それは紛れもない現実だ。ゲームのようにリセットボタンは押せない。
 
 
「君…頭おかしいわ…」
 
 
 斉藤が力無くぼやいた。健一は、とうとう声をあげて笑った。何も可笑しくなかったが笑いが止まらなかった。
はははは、あはははは。壊れたピエロのような笑い声がホールに響き渡る。斉藤が気味悪そうに健一を見ているのが解った。
 
 時岡は、暫く品定めするように健一を見詰めていた。煙草を灰皿へと押しつけながら訊ねてくる。
 
 
「髪の毛と歯も抜いていいかい?」
「抜いてどうすんの?」
「髪の毛も歯も売り物に出来るんだよ。だが、嫌がる奴もいる。臓器は売っても、髪の毛や歯だけは抜かれたくないと言うんだ。髪と歯がなくなっただけで、顔っていうのはガラッと変わっちまうからね」
「へぇ、別に死んだ後の顔なんかどうだっていいよ。鏡見るわけでもあるまいしさ」
 
 
 スタイリングも歯磨きだってもう二度とすることはないのに、一体最期まで何にこだわる必要があるのか。
 
 健一は、快く承諾した。
 
 
「いいよ、抜いちゃって」
 
 
 答えながら、健一はハイになりつつある自分を感じていた。自分の命を投げ捨てるのが無性に楽しかった。腹が凍えるような恐怖は、まるで危ないクスリのように精神を高ぶらせる。それは性的興奮にも似ていた。
 
 
「それじゃあ、全部あわせて三千万かな」
「三千万?」
「サービス価格だよ。明日はクリスマスだからね。サンタさんからのプレゼントだ」
 
 
 冗談を漏らして、時岡がふっと頬を綻ばせる。臓器売買の取引をしているとは思えないほど柔らかな表情だった。
 
 そういえば、明日はクリスマスだった。去年のクリスマスは家族で過ごした。クリスマスプレゼントは、五万円もする最新のゲーム機で、健一は飛び跳ねて喜んだ。だが、今は五万円どころか三千万円が健一の横に積み上げられている。だが、それはただの紙切れでしかなかった。
 
 斉藤の額から止めどもなく汗が流れているのが見える。斉藤の持ち金が幾らかは知らない。だが、その鞄に入っているのが全財産なら、もう既に斉藤のタネ金は尽きかけているのかもしれない。
 
 
「それじゃあ、お金も増えたことだし、レイズしようかな」
 
 
 一気に一千万をつぎ込んだ。両手ですくい上げた札束の塊を一息に放り投げる。どさどさっと音を立てて落ちる札束に、周囲の野次馬から驚きの声があがった。そうして、斉藤の咽喉からは、ウグッという引き潰れたカエルのような声が零れる。
 
 
「…君、君はぁ…」
「何? 斉藤さん、早く賭けなよ。じゃないと、俺が勝っちゃうよ。今までの賭金、全部俺が貰っちゃってもいいの?」
 
 
 斉藤の呻き声を無視して、健一はわざと挑発するような言葉を選んで喋った。
 
 既に卓には三千万以上の金がつぎ込まれている。斉藤がここでドロップすれば、それはすべて健一のものとなる。斉藤は、この一勝負で一千万円を失うことになるのだ。だが、斉藤の性格から言って、退くことは出来ないだろう。それに斉藤の頭の隅には、きっと勝利への確信があるはずだ。
 
 
「君は…馬鹿やな。もうどっちも退けんでぇ…」
 
 
 呪詛のように斉藤が鈍く呟く。鞄の中から札束を無造作に掴み出すと、まるで汚いものにでも触れたかのように卓へと乱暴に投げ付けていく。
 
 
「コールや」
 
 
 破滅の音が聞こえる。バリバリと正気を喰い尽くしていく音だ。その音が健一には、どんなオーケストラの音楽よりも心地よかった。一歩一歩死へと向かって歩いていっている。漫然と呼吸を繰り返すよりも、こうして魂を擦り削っている今の方がずっと生きている実感があった。
 
 そこからは、互いにコールを繰り返した。卓の上の金が六千万を越えたところで、斉藤がぐっと呻き声を上げた。
 
 
「どうしたの斉藤さん?」
「…もうこれで終わりや」
「お金がもうないってこと?」
 
 
 悔しそうに斉藤は頷いた。
 
 
「もうこのへんで勝負といかんか?」
「ダメだよ。俺はまだ賭けるよ」
「そないつれない事言うなやボクゥ」
「人のことボクって気安く呼んでんじゃねぇよバァカ。金ねぇなら今すぐ作ってこいよタコ」
 
 
 猫撫で声をあげる斉藤に対して、健一は一気に口調を崩した。わざと低俗な罵声を浴びせかける。
 
 それは、斉藤の怒りを煽るためだ。怒れば人は冷静な判断が出来なくなる。一瞬ぽかんと口を開いた後、斉藤は緊張と屈辱で顔面を赤く染め上げた。赤を通り越して、顔色がどす黒く見えるほどだ。
 
 
「勝ってから、そない口聞けやクソガキがァ…」
「あんたがこれ以上賭ける金がないって言うんなら、自動的に俺の勝ちが決まる。残念だね、折角ここまで積み上げたのに、ぜーんぶパァ!」
 
 
 鋭い哄笑を漏らす。斉藤がギリギリと奥歯を噛み締めて、ヤケクソになったように鞄の奥から一枚の紙を取り出した。
 
 
「僕の家の権利書や! これで文句ないやろッ!」
 
 
 テーブルへと権利書を叩き付けて、斉藤はまるで駄々をこねる子供のように喚き散らした。もう涙声だ。
 
 椿がひらりと細い指先で権利書を拾い上げる。数十秒ほど目を通すと、お話にならないとばかりに首を左右に振った。
 
 
「こんなもん、五百万にもならないですよ」
「そんなわけあるか! 建てるのに一億近うかかったんやで!」
「あのねぇ、斉藤さん」
 
 
 まるで覚えの悪い子供を窘めるように椿が声をあげる。
 
 
「不動産っつうのは厄介なもんですよ。貰ったところで即座に金に変わるわけでもない。むしろ持ってるだけで金を食い潰していく。社員寮にするぐらいしか価値がないもんに五百万出そうってだけ、うちは随分貴方に優しくして差し上げてると思いませんか」
 
 
 何せ斉藤さんはお得意様ですから。そう囁く椿の声には、紛れもないサディズムが滲み出していた。詰め寄られた斉藤は、もう殆ど泣き顔に近い。
 
 
「そんな…五百万はあんまりや…」
 
 
 健一の残り賭金は一千万はある。五百万では、競り合うことすら出来ない。指を咥えて、金が奪われるのを眺める羽目になる。
 
 
「ねぇ、時岡さん」
「何だい?」
「斉藤さんの内臓も買ってあげなよ」
 
 
 流石に笑ってはまずいと思ったが、結局含み笑いになってしまった。斉藤がギョッとしたように目を剥く。
 
 
「なに言うとるんや君は!」
「だって、お金ないんでしょ? 俺と同じように内臓売ればお金も手に入って万々歳じゃない?」
 
 
 にたにたと笑う健一に、斉藤は一気に青褪めた。まるで宇宙人でも見るかのような異様な眼差しで、健一を凝視している。
 
 
「そうだな。大人だし、貴方は不健康そうだから、かなり安くなるにしても、角膜と肺と腎臓を片方ずつ、五百万で買って差し上げますよ」
 
 
 にっこりと微笑みながら時岡が言う。斉藤は唇をはくはくと上下に動かした後、あんたら気が狂っとる…と途方に暮れた声を上げた。
 
 
「ねぇ、どうすんの斉藤さん。まだ続ける? それともやめる?」
 
 
 臓器を担保にして賭け続けるか。それとも今までの賭金をすべて失ってドロップするか。選択は二つしかない。
 
 勝てばすべてを手に入れる。だが負ければ、金を失った上に内臓を抜かれる。勝者と敗者には、容赦のない差別が与えられる。
 
「君は…君は…なに考えとるんや…」
「なにって?」
「何で…ここまでするんや…」
 
 
 健一は、まるでアメリカ人のようなオーバーリアクションで肩を竦めた。
 
 
「さぁ」
 
 
 はぐらかしたわけではない。自分でももう解らなくなっていたからだ。勝者になるために戦っていたはずなのに、今は自分の命を賭けることが楽しい。もう楽しさのためにやっているような気すらしてきた
 
 
「ねぇ、どうする? 早く決めて」
 
 
 焦れたように斉藤を急かす。爪先をぶらぶらと揺らして、健一はケタケタと声をあげて笑った。頭を抱えた斉藤が泣き出しそうな声で言う。
 
 
「やるわ…やる…」
「じゃあ、内臓は売っちゃうんだね」
「……」
「ちゃんと口に出して言えよッ!」
 
 
 黙り込んだ斉藤を、健一は粗相をした子供のように叱り付けた。斉藤の肩が震える。
 
 
「…売る…売るから…」
 
 
 その弱々しい声に、健一は一際高い笑い声を張り上げた。
 
 

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