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27 野火

 
 鼓膜の内側で鳴り続けていた破滅の協奏曲は、もう聞こえてこなかった。
 
 斉藤が消えて、テーブルの周りに残ったのは健一と時岡とパクヒョルだけだった。時岡は相変わらず飄々とした仕草で煙草を吸い、パクヒョルはテーブルの上のカードを黙々と片付けている。そのテーブルの上には、札束がゴミのように乱雑に積まれていた。
 
 八千万という金は、健一にとってただの紙でしかなかった。あれだけ求めた金が今手元にあるのに、酷く空しく、そして何処か苦々しい心地がした。こんなもののために人は簡単に破滅するのかと思うと、皮膚が粟立つような気色悪さがあった。
 
 
「あまり嬉しそうではないね」
 
 
 苦虫を噛み潰したような表情をしている健一に、時岡が声をかけてくる。時岡の好奇の眼差しが今は酷く鬱陶しかった。
 
 
「別に。それなりに嬉しいよ」
 
 
 わざと素っ気なく返して、戯れに百万円の束を手に取った。人差し指でパラパラと札束をめくりながら、その触り心地を確かめる。ただのざらついた紙だ。
 
 金を手にしても、やはり心は浮き立たなかった。ただ、ひたすら沈み込むように陰鬱になるばかりだ。
 
 なぜなら、今この手に掴んだ札束は斉藤の内臓なのだから。他人の内臓を売り飛ばしてもぎ取った金であり、誰かを破滅させて勝ち取った勝利なのだ。勝利とは、こんな物かと吐き捨てたくなった。こんなに気色悪く、後味の悪いものなのか。
 
 
「ねぇ、本当に斉藤さんの内臓抜いちゃうの?」
 
 
 ふと気まぐれに問い掛けてみる。時岡は一度斉藤が連れて行かれた扉の方へとちらりと視線を遣って、それから酷く醒めた表情で健一を眺めた。
 
 
「君が彼に内臓を売らせたんだろう?」
「そうだよ」
「なら、そんな言い方はしないで欲しいな。まるで私が彼の内臓を勝手に抜き取る悪党みたいだ」
 
 
 実際悪党じゃないか、という言葉は腹の底に呑み込んだ。健一は唇を噤んで、朗らかに微笑む時岡から視線を逸らした。
 
 後悔はなかった。見ず知らずの他人から金を奪い取り、家をもぎ取り、内臓を売らせたことに対する罪悪感など今更感じようとは思わない。だが、形容しがたい胸糞の悪さが健一に鬱陶しくまとわりついている。
 
 テーブルに山積みになった札束を事務的な手付きで数えていく。百万円の束を四十個抜き取ると、それを時岡の方へと寄せた。
 
 
「借りてた四千万返す」
 
 
 端的に言うと、時岡は鷹揚に頷いた。金を数え直すことすらしなかった。健一の前に残った札束の山を一瞥して、短く問い掛けてくる。
 
 
「このゲームで幾ら稼いだんだい?」
「たぶん、四千五百万ぐらい」
 
 
 どこかからヒュウと軽い口笛の音が聞こえてきた。時岡の背後に、斉藤を連れて行った男が戻っていた。蛍光緑から真っ赤なパーカーに着替えたあの男だ。
 
 男は無意識に口笛を鳴らしてしまったことを恥じるように唇を一文字に閉ざしたが、健一を物珍しそうに見ることはやめなかった。
 
 
「行儀が悪いよ、野火」
 
 
 茶化すように時岡が男へと声を掛ける。どうやらパーカーの男は野火という名前らしい。おそらくは時岡の部下なのだろう。
 
 
「すいません。でも、正直すげぇなって思って。ただのガキが四千五百万稼いで、普通そんな平然としてられるもんですか」
 
 
 最初のロボットのような口調から、随分と砕けた喋り方になっていた。表情も初めて見た時よりもずっと豊かになっている。
 
 
「さぁ。もしかしたらただのガキじゃないのかもしれないね」
「なら、ガンジーの生まれ変わりですか」
 
 
 時岡の言葉に対して、的外れな答えを返す野火の姿が面白かった。微かに浮かんだ健一の笑みを見て、野火も嬉しそうに頬を緩める。厳つい顔立ちに似合わない人懐っこそうな笑みだった。
 
 
「ガンジーって誰?」
「非暴力と不服従の神様」
 
 
 野火の言葉には迷いがなかった。それに対して、時岡が呆れたように首を左右に振る。
 
 
「すまないね、健一君。野火はガンジーを崇拝していて、彼の生まれ変わりを探しているんだ。聖人や神様を愛してやまないんだよ、こいつは」
 
 
 無言で肯定するように野火は微笑むと、そっと両手を合わせた。まるで祈るような繊細な手付きがその顔立ちに似合わなかった。
 
 
「変なの。ヤクザなのに非暴力とか不服従とか、そんなん正反対じゃん」
 
 
 正直な気持ちを述べると、野火は事も無げにこう答えた。
 
 
「真理を知ろうとするなら、時には正反対の道を究めることも必要だからな」
「意味がわかんない」
「美しいものを美しいというのは簡単で、醜いものから美しさを見い出すのとでは重みが違うってことだ」
 
 
 それでも怪訝そうに瞬く健一を見て、野火は穏やかに笑った。
 
 
「悪を極めた先に許しはあるのかが俺の人生のテーマなんだ」
 
 
 死ぬ瞬間に神様から何を言われるかが楽しみでさ。そう呟いて、野火はどこか恍惚とした視線を宙へと浮かべた。
 
 野火の言葉には一貫性があるようでなく、どこか狂信的な危うさが漂っていた。この男もやはり何かが決定的に狂っている。だが、不意に見せるその人懐っこい笑顔には独特の愛嬌があった。どうにも嫌いになれない男だ。
 
 カードを片付け終わったパクヒョルがテーブルに置かれた札束へと視線を滑らせる。札束を軽く手で示して、健一に問い掛けてくる。
 
 
「こちら、鞄いれますか?」
「黒のゴミ袋ある?」
「あります」
「じゃあ、それちょうだい」
 
 
 数分後に厚手の黒のビニール袋が届けられた。健一はその中へとぞんざいに札束を放り込んだ。その雑な行動に、時岡が咽喉を鳴らして笑う。その横では、野火が呆れたように唇を半開きにしていた。
 
 
「なぁ、この金どうするんだ?」
「もう一回賭ける」
 
 
 遠慮のない野火の質問に、健一は少し疲れた声で返した。四千五百万を稼ぎはしたが、真昼がいるVIPルームに入るには後五百万足りなかった。他のゲームに混じって、またこんな精神をすり減らすような戦いをしなくてはならないのかと思うと無意識に溜息が出てきた。
 
 疲労を滲ませる健一の顔を見て、時岡が不思議そうに問い掛けてくる。
 
 
「君は幾ら必要なんだい?」
「五千万」
 
 
 端的に呟く。黒のビニール袋の口を閉じようとした時に、時岡がゆっくりと口を開いた。
 
 
「それじゃあ残りの五百万は私が出そう」
 
 
 傍らに積み上げられた札束の山から五束ほど抜き取り、健一の方へと放り投げる。まるで至極当然のように零された時岡の申し出に、喜びを感じるよりも先に不信感が顔を出した。顔を顰める健一を見て、時岡が口角を微かに吊り上げる。
 
 
「その代わり教えて欲しいんだ」
「何を」
「君がどうやってあの男を騙したのかについてさ」
 
 
 声を潜めることもなく訊ねてくる。その不躾さに健一は露骨に頬を歪めた。
 
 
「俺は騙してなんかないよ。あいつが勝手に騙されたと思い込んでただけでしょ」
「全部あの男の勘違いだと?」
「そうだよ」
「なぁ、健一君。こういう下らないやり取りはやめないか? 私は君を警察に突き出すつもりもないし、正義感ぶった大人のように説教するつもりもないんだ。君も、少しぐらい私のお願いを聞いてくれてもいいんじゃないかな?」
 
 
 おどけた時岡の口調に、健一は少しだけ強張っていた身体の力を抜いた。逡巡はあった。だが、結局喋るだけで五百万を手に入れれるという誘惑に負けた。
 
 
「言わなくたって、あんた本当は解ってるんだろう?」
「大体はね。だけど、君の口から聞きたいんだ」
 
 
 テーブルの上に両肘を付いた時岡が軽く身を乗り出してくる。健一は、テーブルの上で散らばったチップを整理するパクヒョルを一瞥した。パクヒョルは伏せた視線のまま、こちらをちらりとも見ようとはしない。我関せずの雰囲気が漂っている。それを見て、健一は居直った気持ちになった。
 
 
「何から聞きたいの?」
 
 
 溜息混じりに問い掛けると、時岡は満足げに微笑んだ。
 
 
「まずは種明かしからかな」
「種なんか単純だよ。斉藤さんが言ってた通り、カードをすり替えただけ。ただあの男が勘違いしてたのは、俺が『一回』しかすり替えてないって思ってたところ」
「つまり?」
 
 
 健一は右手の人差し指と中指を立てた。
 
 
「俺は『二回』すり替えた」
 
 
 時岡がわざとらしく驚いた表情を浮かべる。健一は、それを白々しく眺めた。どうせ全部知ってる癖に。
 
 
「すり替え用のカードはどこで手に入れたんだい?」
「一回目はトイレに行く前。持ち札を捨てる時に一枚だけ抜き取っておいた」
「君がゲームがつまらないと言い出した時だね」
 
 
 大袈裟に欠伸を漏らして全員の視線を健一の顔に集めてから、持ち札をわざとぞんざいに捨て札の山へと向かって投げた。捨て札にぶつかったカードはぞんざいにばらけて、実際何枚捨てられたのかが解りにくくなる。抜き取ったカードを隠して、トイレに行く。
 
 
「抜き取ったのは、ハートのキング」
 
 
 パクヒョルに言って、カードを用意させる。カードをめくって、中からハートのキングを取り出して軽く示す。時岡は物覚えの良い生徒のように、うんうん、と小さく頷いている。
 
 
「後は、フラッシュになって、なおかつもう一枚カードをすり替えたら強くなれる手札が来るのを待つ」
 
 
 健一は、テーブルの上に五枚のカードを並べた。健一が持っていた最初の手札だ。

    

 この時点では、ただのワンペアだ。
 
 
「まずは、叔父さんがグラスを落とした騒ぎに混じって、抜き取っておいた一枚とすり替える」
 
 
 スペードのエースを抜き取って、手に持っていたハートのキングと入れ替える。

    

 これでフラッシュが完成する。
 
 
「君が叔父さんに事前に命令していたのかい?」
「俺がご飯の話をしたら、あの馬鹿女と自分にお酒を掛けて、出来るだけみんなの目を逸らしてとは『お願い』した」
「それは命令と同じだね」
 
 
 時岡が肩を揺らして笑う。健一は時岡が何故笑っているのか解らず、憮然とした表情を向けた。
 
 
「では、叔父さんが去った時の君の持札はハートのフラッシュだったんだね。だが、君はもう一度すり替えたんだろう? 何故、もう一度すり替える必要があったんだい? フラッシュなら、そのまま勝負しても勝機は十分にあったと思うよ」
「あの男に金を吐かせるために決まってんじゃん」
 
 
 自分でも傲慢な口調だと思った。人を蔑み貶める声だ。
 
 
「わざと一度目のすり替えを気付かせたのも、そのためかい?」
「そうだよ。あのガメつい男がこっちの手も知らずに、何千万も賭けてくるもんか。俺の手札がワンペアだと思ったまま内臓まで賭けてたんじゃ、いつ不審がってドロップするか解ったもんじゃない。俺がすり替えたことに気付いてて、なおかつ自分の方がフラッシュより強い手を持ってれば安心して全財産賭けてくれるだろう? だから、わざとあの馬鹿女が気付きやすいようにカードをすり替えてやったんだ」
 
 
 そうして、馬鹿女は健一が望んだように行動してくれた。健一のすり替えに気付き、きっちりと斉藤にサインを送った。おそらく保田の股間に触れた後に、耳たぶをしきりにいじっていたのがそれだろう。斉藤は、馬鹿女を使って健一の手札を覗いていたことが結果的に仇になったのだ。
 
 
「そうやって安心させてつぎ込ませた所で、更に二度目のすり替えをしたんだね」
「そう」
「可愛い女の子だったね。何処で拾ったんだい?」
 
 
 時岡の口調がねっとりとしたものに変わる。健一は、その声に応酬するように口角を意地悪く吊り上げた。時岡が言っているのは、あのバニーガールのことだ。
 
 
「トイレからの帰り道。びしょぬれになった俺に、大丈夫?って声掛けてくれたのあの人だけだったから…俺が手元のジュースを飲み干したら、新しいジュースと一緒に『指定したカード』を持ってきてくれるように頼んだ」
「共犯者を作ったわけだね。報酬は金かい?」
「金しかないだろう?」
 
 
 たかだか十数万程度で、共犯者が買えるなら安いものだった。おそらくこの賭博場ではイカサマが常習化しているのだろう。バニーガールは、さして悩む様子もなく健一の申し出を受け入れた。バニーガールは、健一が望んだ以上に素晴らしい共犯者になってくれた。さりげなく健一の胸元を撫でながらカードを手の中に滑り込ませる仕草は、悪行に慣れた人間のものだった。
 
 カードの中から新しくハートのクイーンを取って、それをテーブルの上に並べていたハートのスリーと入れ替える。

    

 これでストレートフラッシュの完成だ。
 
 
「種明かしはこれだけ」
 
 
 言い終わって、健一はどっと沈み込むような疲労感に襲われた。単純で陳腐な種明かしをさせられることほど面倒臭く、忌々しいものはなかった。
 
 
「もし君に思うような手札が来なかったり、あの男がフラッシュよりも弱い手で賭けに乗ってこなかったらどうしたんだい?」
「そしたら、俺が内臓抜かれる側になっただけ」
 
 
 あっさりと命を投げ捨てる健一の言葉に、時岡は一瞬途方に暮れたように首を左右に振った。
 
 
「君の計画は破綻してる。死ぬ確率の方がずっと高いじゃないか」
「だけど、勝った」
 
 
 時岡の大袈裟なリアクションに、健一は冷めた声を返した。元々勝算の少ない計画だなんて解り切っていた。だからこそ、健一は死ぬことを覚悟してゲームに挑んだのだ。そうして、勝った。
 
 野火が時岡の耳元にぽつりと呟く。
 
 
「こいつ、ちょっと頭おかしいですよ」
 
 
 小声だったが、健一の耳には十分届く音量だ。
 
 五月蠅ぇ、手前に言われたくねぇよ。
 
 と思わず手元のカードを投げ付けそうになった。健一は、無言で野火を睨み付けた。
 
 だが、野火は酷く長閑な表情をしている。そうして、不意に照れ臭そうにはにかんだ。
 
 
「なぁ、このパーカーなら似合ってるか?」
 
 
 野火が真っ赤なパーカーを指先で摘んで示す。健一は数秒眺めた後、首をきっぱりと左右に振った。
 
 
「似合ってない。残念だけど」
「やっぱ、そうか」
「でも、少し愛着が湧いてきた気もする」
「愛着?」
「うん、愛着」
 
 
 その緊張感のない遣り取りを聞いて、時岡がくつくつと笑い声を零す。
 
 
「なぁ、健一君。野火がこっちに戻ってきたら、こいつの兄弟分になってやってくれないか?」
 
 
 その一言に、野火がパッと表情を輝かせる。健一は時岡の言う意味が解らずに首を傾げた。
 
 
「兄弟分? こっちに戻ってきたらって、あんたどっか行くの?」
「あんたって呼ぶなよ。お前より年上だぞ」
「…じゃあ、野火さん」
「野火さんも距離がありすぎて駄目だ。呼ぶなら達朗…タツだな」
「タツ?」
「俺もお前のことケンって呼ぶからさ」
 
 
 わけもわからない内に話が進んでいく。だが、タツという響きは悪くなかった。野火は健一の手を軽く掴むと、軽快なリズムで上下に振った。
 
 
「予約な。俺が戻ってきたら、兄弟分になってくれよ」
 
 
 結局何処に行くのか聞くことは出来なかった。時岡がゆっくりと立ち上がる。
 
 
「それじゃあ、健一君さようなら。久しぶりに楽しかったよ」
 
 
 また会おう。などと不穏な言葉を残して、時岡が去っていく。その時岡の傍らに貼り付くようにして、野火の姿も消える。
 
 野火に握り締められた掌が暫く熱かった。

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