気が付いたらマンションを出てから、随分と時間が経っていた。もう夜の七時を過ぎている。
傍らに五千万が入ったゴミ袋を置いたまま、健一はぼんやりと宙を眺めていた。何十分待っても、保田は戻って来なかった。服を着替えるにしろ、風呂に入るにしろ、酒をかぶった程度でこんなに時間が掛かるものだろうか。思案しながら、緩く溜息を吐き出す。
「オジさん、戻ってこない、ですね」
健一の溜息を聞き取ったのか、テーブルの前に佇むパクヒョルがぽつりと呟く。
健一が居座っているせいか、パクヒョルのテーブルには新しい客が来ることはなかった。わざわざパクヒョルが声を掛けてきたのは、手持ちぶさで暇だったからかもしれない。
「うん、戻って来ない。どうしたんだろう」
そう呟いた声は、自分でも思いがけないほど心細げだった。その事に健一は酷く驚いた。無意識に保田に気を許し始めている自分を感じて、健一は堪らない自己嫌悪を覚えた。
「貴方、お腹すきますか?」
「少しすいてる」
「これ、食べますか?」
差し出されたのは、透明なフィルムに包まれた飴玉だ。フィルムの表面には、記号のような文字が書かれていた。確かハングル文字というものだっただろうか。人差し指と親指で飴玉を摘んで、まじまじと眺める。
「これ何て読むの?」
パクヒョルが健一に耳覚えのない言語を素早く呟く。意味は解らなかったが、綺麗な響きの言葉だった。フィルムを破って、中に入っている半透明の飴玉を口の中へと放り込む。じわりと甘酢っぱい果汁の味が舌の上に広がった。
「おいしい」
素直に呟く。パクヒョルは、ちらりと健一を見ると微かに頷いた。無表情なくせに、妙に甲斐甲斐しいというか、世話好きな男だなと思う。
「ねぇ」
「なにですか?」
「なんで何も言わなかったんだ?」
ずっと心に引っかかっていた疑問を投げ掛ける。主語がごっそりと抜けた脈絡のない質問に、パクヒョルは一重瞼を重たげに瞬かせた。
「俺がイカサマしてた事、あんたは最初から気付いてたんだろう? だけど、何も言わなかった。何で?」
おそらく健一が最初に手札からカードを抜き取った時、パクヒョルは既に気付いてた。二度のすり替えも知っていたはずだ。斉藤のような不抜けた馬鹿ならともかく、プロのディーラーがあんな陳腐なイカサマに気付かないはずがない。だが、パクヒョルが健一を告発することはなかった。
パクヒョルが緩く視線をあげる。
「あの人達も、イカサマしてました」
あの人達というのは斉藤とチオリのことだろう。
「だから、俺のことも見逃したの?」
「はい。それに…」
一度パクヒョルが口篭もる。どこか苦々しげな表情を滲ませて、それから一息に吐き捨てた。
「あの人達の遣り方、とても気持ち悪い。ロマン、ない」
能面なパクヒョルの口から、ロマンなどという情緒的な単語が零れたことに健一は面食らった。目を大きく見開いて、パクヒョルを見つめる。
「イカサマも、テクニックの一つ。私、それ責めるつもりない。だけど、ロマンないイカサマ、不愉快。後ろで女にカード覗かせる、犬でも出来る」
「犬でも出来るってのは言い過ぎじゃない?」
淡々と語られるパクヒョルの言葉に、健一は少しだけ窺うように意見を述べた。パクヒョルが眉を顰める。
「言い過ぎました。犬が気の毒です。ゴミクズでも出来る」
そういう意味で言ったのではないのだが。パクヒョルの声は冷静だが、その声音の底からは微かな怒りを感じた。
「あの人達、リスク背負わずずっと貴方騙してた。でも、貴方リスクちゃんと背負った。ゲームに命賭けた」
ぐっとパクヒョルの能面が近付く。
近くで見ると、パクヒョルの顔はこれといった特徴はないものの、パーツの一つ一つが精巧に整っていた。特にすっと通った鼻筋が彫刻のように美しい。
そうして、パクヒョルはにっこりと微笑んだ。微笑んだ瞬間、閉じていた蕾が一気に花開いたような情感が顔一面に浮かんだ。
「だから、貴方勝って、私嬉しい」
予期せぬ言葉だった。パクヒョルが好意にも似た感情を健一へと示すとは想像もしていなかった。だからこそ、胸を突かれるものがあった。
健一は二三度唇を曖昧に動かした後、パクヒョルからゆっくりと視線を逸らした。
思いがけない場所から差し出された好意を受け取るのが、どうしてだか酷く恐ろしかった。その好意を受け容れた瞬間、すぐに失われてしまうような気がして。
「客の肩持つなんてプロ失格だよ、パク」
背後から揶揄かうような声が聞こえてくる。どこから現れたのか、健一の隣で立ち止まった椿はにたにたと意味深げな笑みを浮かべてパクヒョルを眺めている。ターコイズブルーのスーツが目に痛い。
「私、ちゃんとイーブンにゲームした。もうゲーム終わった。私、今ディーラーじゃない」
元通りの能面に戻ったパクヒョルが淡々と返す。それに対して、椿は「はいはい」と言わんばかりに数度鷹揚に頷いた。
「解ってるよ。あんたを責める気つもりはない。ただ、珍しいと思ったのさ。パクヒョルが誰かを気に入るなんざね」
椿の軽口に、パクヒョルはもう答えなかった。俯いて、トレーに入ったチップの位置を人差し指で緩く直した。
反応が返って来ないのを見ると、椿は一度肩を竦めてから健一へと視線を向けた。
「私に、おめでとう、って言われたらムカつく?」
「滅茶苦茶ムカつく」
「でしょうね」
当たり前なことをわざわざ再確認する事ですらムカついた。カモになると解っていて、椿は健一を賭博の場に引きずり込んだとしか思えなかった。自分を崖から突き落とそうとした女に、おめでとうなんて言われて素直に喜べるものか。
「だけど、考えようによっては私のおかげで坊やは金を稼げたわけじゃない? いっそ私に感謝したっていいんじゃないかしら」
抜け抜けと厚顔無恥なことをよくも口に出せたものだ。こみ上げてくる憤怒に、健一は思わず椿に掴み掛かりそうになった。
だが、拳を堅く握り締めたところで、椿がぐっと健一へと顔を寄せて来た。鼻頭がぶつかりそうな程の距離に、健一は目を大きく見開いた。
「これでVIPルームにも入れる。坊やの望み通り」
VIPルームという単語に、ふと自分の目的を思い出した。自分は真昼を追い掛けていたんだった。五千万を稼ぐのも、すべて真昼に会うためのことだった。
椿が口角を歪めて問い掛けてくる。
「入る?」
健一は即座に頷いた。
「入る」
鸚鵡返しに答える。だが、答えた瞬間、椿の表情が一瞬曇った。
「ねぇ、坊やが探してる友達ってのは誰なのさ」
「あんたには関係ない」
「真昼ちゃんなら、あそこにいないよ」
椿の言葉に健一は目を見開いた。なぜこの女が真昼のことを知っているんだ。
「真昼ちゃんがもういないことぐらい、坊やだって解ってるだろう?」
「でも、真昼を見た。この目で、動いてるのを見たんだ」
「真昼ちゃんは死んだんだ。もう生きてない」
まるで諭すように、宥めるような口調が腹立たしかった。
真昼が死んだことぐらい、とっくの昔に解っている。健一は、真昼の死体に触ったのだ。その死に触れて、深い絶望と自分自身への耐えがたい嫌悪を知った。だからこそ、真昼が生きている姿を見て、ほんの僅かな希望を抱いたのだ。
それなのに、その僅かな希望すら許されないのか。こうやって健一をろくに知りもしない女に、鼻先で叩き潰されないといけないのか。
お前に何が解る! 俺のことも、真昼のことも、何にも知らないくせに!
そう叫ぼうとした瞬間、ドアが勢いよく開かれる音が聞こえた。保田の悲痛な叫びが届く。
「健一君、逃げろ!」
聞き返す暇もなかった。保田の声に続くように、地鳴りにも似た轟音が地下中に響いた。
28 轟音
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