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29 卑怯者

 
 まるで映画のスローモーションのようだった。
 
 初めに見えたのは、蹴破られる扉だ。重厚な扉がまるでトタン板のように斜めに傾き、パタンと床へと倒れていく光景。それは酷く緩慢な動きに見えたのに、その衝撃は大きかった。
 
 扉が床へと倒れた瞬間、鼓膜を突き破るような大音響と共に、まるで地震でも起こったかのように身体が宙へと跳ね上がった。激しい衝撃に、体内の臓器が上下にシェイクされる。
 
 倒れた扉のせいで舞い上がった埃の向こうから、何十人もの大人の影が見える。それはまるで実体のない幽霊のようにも見えた。その幽霊達は「動くな!」と口々に叫んでいるようだが、痺れた鼓膜では上手く聞き取ることが出来なかった。
 
 一瞬の静寂が広がる。この場にいる誰もが、新たに現れた侵入者達に上手く反応が出来ていないようだった。だが、静まった空気を切り裂くように客の一人が叫んだ。
 
 
「警察だッ!」
 
 
 その声を皮切りに、地下に一斉に悲鳴が溢れ返った。硝子が割れる音に混じって、女達の甲高い悲鳴が皮膚に鋭く突き刺さる。チップが雪崩れるカチャカチャという安っぽい音がやけに現実味を薄くさせた。
 
 恐慌状態に陥った客達が出口へと向かって次々に駆け出す。互いを押し退けあい、突き飛ばしあいながら逃げる姿は安っぽいパニック映画のようだ。
 
 中には、まるで子供のかくれんぼのようにテーブルの下で四つん這いになって震えている男もいた。そういった男は、すぐさまテーブルの下から引き摺り出されたあげく、逃げ出そうとして警棒でしたたかに殴られていた。剥き出しの胸を左右に振り乱した女が警察官に羽交い締めにあって、ピンヒールを履いた足を滅茶苦茶に暴れさせている。そのピンヒールが額に直撃したらしい男が血を流しながら、床に蹲っている姿も見える。
 
 健一は、目の前の光景に上手く対処することが出来なかった。一体何が起こっているのか解らない。何故ここに警察がいるのかも。自分がどうするべきなのかも。こんな事態に遭遇したのは初めてで、今がどれだけ緊迫した状況なのかも理解することが出来なかった。
 
 悲鳴と怒号の中を硬直したまま突っ立っていると、逃げ出そうとした客に肩を突き飛ばされた。衝撃に耐え切れず足首がぐにゃりと曲がって、そのまま床へと尻餅をつく。尻餅を付いたまま横を見ると、五千万が入ったゴミ袋は逃げ出す客達に盛大に踏み付けられていた。健一は、それを呆然と眺めた。
 
 動くな、という怒声が段々と近付いてくる。ぼんやりと宙を見上げた瞬間、不意に肘をキツク掴まれた。ヘたり込んでいた身体を引き摺り起こされ、無理矢理どこかへと引っ張られて行く。
 
 視線をあげると、健一の腕を掴んでいるのがパクヒョルだと解った。パクヒョルは頑なに唇を引き結んだまま健一を引っ張って行く。歩幅が合わず、健一は駆けるパクヒョルに殆ど引き摺られているような状態だった。
 
 赤銅色の緞帳の裏に隠れていた扉へと入る。そこはバックヤードのキッチンのようだった。既にコックは逃げ出した後なのか、人っ子一人いない。コンロの上で、ぐつぐつとコンソメスープらしきものが煮えているのが見える。食欲をそそられる臭いが一瞬だけ鼻孔を掠める。
 
 そのままキッチンを風のように突っ切ると、奥に階段があった。階段を駆け上がると、裏通りらしき路地に出る。空を見上げると、ビルの間から欠けた月が見えた。冷たい外気がひやりと首筋を撫でて、鳥肌が浮かび上がる。
 
 
「あ、コート…」
 
 
 状況にそぐわない阿呆な一言が零れた。白い息がふわりと空中に浮かぶ。そういえば、コートを置いてきてしまった。きっと、もう取りに戻ることは出来ない。
 
 パクヒョルが素早く左右を見渡す。ビルの表にも裏にもパトカーの赤いランプが見えた。パクヒョルが短く舌打ちを零す。そうして、傍らに転がっていた青いゴミバケツを忙しなく起こすと、その中を指さした。
 
 
「貴方、ココ入って」
「え?」
「早く、入れ」
 
 
 困惑する健一を抱きかかえると、パクヒョルは有無を言わせず健一をゴミバケツの中へと落とした。途端、吐き気を催すような酷い生ゴミの臭いが鼻を突いた。健一が子供といえども、ゴミバケツの中は狭く、背中を痛いぐらい丸めなくてはいけなかった。
 
 ぐっと息を詰めて、不安げに頭上を見上げる。丸く切り取られた視界の先に、パクヒョルが健一を見下ろしているのが見える。パクヒョルが微かに微笑む。優しげな表情だ。
 
 
「サヨナラ」
 
 
 それは笑って言う言葉ではないと言いたかった。だが、健一が言葉を発する前に、パクヒョルが健一の頭の上にゴミ袋をどすんと落とした。その重みに丸まっていた背中が余計に詰まって、声が出なくなった。パタンと蓋が閉められる音が聞こえて、視界が暗闇で覆われる。
 
 蓋が閉められた瞬間、鼻を突く悪臭はより酷くなった。咽喉をぐっと締めておかないと、いつ嘔吐してしまうかも判らないほどの腐臭だ。ゴミバケツの内側に触れた手や髪の毛が気色悪い液体でべたべたと粘着く。狭いゴミバケツの中で赤ん坊のように丸まったまま、健一は喉元をせり上がってくる吐き気を必死で堪えた。
 
 サイレンの音が五月蠅い。外から、サイレンと大人達の怒声が聞こえてくる。幾つもの足音が何度もゴミバケツの前を通り過ぎる。その度に、健一はゴミバケツの中でビクリと身体を縮こまらせた。
 
 暗闇の中で、健一は必死で考えた。警察が来たということは、きっと賭博場が取り締まりにあったという事だろう。あの場にいた人間は、みんな捕まったのだろうか。椿やあのバニーガールの女。それにパクヒョルは無事なのか。健一をゴミバケツへと隠して、パクヒョルはどこに逃げたのだろう。路地はパトカーに取り囲まれていた。逃げ場所なんかどこにもない。
 
 不意に、パクヒョルに掴まれた肘が軋むように痛んだ。肘に連動するように、心臓にも鋭い痛みが走る。硬直し鈍化していた心がようやく恐怖を思い出す。それと同時に悲しみが胸に満ちて、唇から呻き声が零れそうになった。とっさに下唇を噛み締めて、両手で唇を押さえる。
 
 これはパクヒョルを心配しての悲しみではない。健一はパクヒョルの身を案じた瞬間、ふとこうも思ってしまったのだ。
 
 
『捕まるのが俺じゃなくてよかった』
 
 
 パクヒョルが捕まっても自分が助かるなら良い、と一瞬でもそう思ってしまったのだ。パクヒョルは危険も顧みず、健一を連れ出してくれたのに。助けようとしてくれたのに。そんな人を、健一は心のどこかで見捨ててしまったのだ。パクヒョルが捕まっても自分だけは絶対に助かりたい、そう残酷にも願ってしまった。
 
 自分のエゴを自覚した瞬間、自己嫌悪が全身を食い破る勢いで込み上げてきた。
 
 なんて醜悪な人間なんだ、と自分自身を罵りつつも、健一はその場から動けなかった。パクヒョルを助けに行こうとは思えなかった。だって、怖かった。健一は、警察に捕まるのが怖くて堪らなかった。
 
 もしゴミバケツの中に隠れているのを見つかったら、きっと健一もみんなと同じように捕まってしまう。警察に捕まったらどうなる。吾妻にされた事を全部説明しなくちゃいけなくなるのか? 家族を殺されて、ゴウカンされて、殴られて蹴られて――説明すれば同情の眼差しで見られるんだろう。健一は、きっと可哀想な子供として扱われる。
 
 だけど、それと一緒に健一がやったことも喋らなくちゃいけない。横田さんを刺したことを。真昼を見殺しにしたことを。斉藤さんを破滅させたことを。そんな事を言えば、きっとそれまでの同情の眼差しが軽蔑の眼差しへと変わってしまう。悪党のように見られて、何て子供だ、最低な子供だと声高に罵られる。
 
 不意に、ぶるりと寒気にも似た怖気が背筋を駆け上って来た。可哀想な子供として扱われるのは嫌いだ。哀れみの目も、差し伸べられる同情の手も不愉快で堪らない。だけど、それ以上に自分が完全な悪になってしまうのが怖かった。警察から悪党の烙印を押されてしまえば、健一は正しい世界と完全に決別してしまう。それが怖かった。
 
 気付いたら、指先が小刻みに震えていた。指先が氷ように冷たい。これは寒さからなのか、それとも恐怖からの震えなのか。
 
 狭く臭いゴミバケツの中でうずくまったまま、健一は全身を掻き毟りたいほどの恐怖と自己嫌悪を必死で押し殺した。
 
 鼓動がやけに大きい。狭く暗いゴミバケツの中で、自分の心臓の音が太鼓のように反響して聞こえた。知らず荒くなる呼吸を必死で抑える。唇から微かにフー、フー、という威嚇する猫にも似た掠れた音が零れていた。音が漏れないように両掌の下で下唇をキツクキツク噛み締めていると、次第に咥内に血の味が滲んできた。苦い錆の味だ。溢れ出た血液が唇の端を伝っていくのを感じる。
 
 このまま全身の血液が流れ出てしまえばいいのにと思った。こんな卑怯者はいっそ死んでしまえばいい。
 
 サイレンの音に混じって、遠くから華やかなクリスマスソングが聞こえてきた。それがなぜだか寂しくて堪らなかった。
 
 

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