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30 幸福

 
 あれから何分、何時間経ったのだろうか。時間の感覚はすでに肌から消えていた。
 
 ゴミバケツの中にずっと蹲っていると、次第に虫の羽音のような隠微な音が聞こえてきた。そのざわざわとした音は徐々に言葉を伴って、暗闇から健一へと語りかけてくる。
 
 その声は、卑怯者!この人殺し!と健一を甲高く罵ったかと思えば、お前のここが悪いだの、ここでこうしたのが最低な選択だっただのと、ねちねちと鬱陶しい嫌味を並べ立ててくる。それなら、まだ耐えられた。単なる幻聴だ。これは自分の妄想の声なんだと言い聞かすことが出来た。
 
 だが、暗闇が微かな泣き声をあげ始めた瞬間、健一は途方に暮れた。勘弁してくれ、と呻きそうになった。暗闇は子供の声でしくしくと切なげな嗚咽を零す。
 
 
 なんで、なんで、俺がこんな目に。
 くさい、せまい、こわい、こんなのひどい、ひどすぎる。
 俺は何にもしてない。
 ただ、ボールをキャッチしただけだ。
 たった、それだけなのに。
 ボールをキャッチして、ありがとうって言っただけで、どうしてこんなに人生が狂わされる。
 殴られるのも蹴られるのも犯されるのもいやだ。
 誰にもひどいことされたくない。
 誰かにひどいことするのもいやだ。
 それなのに、なんで、こんな、こんなのいやだ。
 こんな人生はいやだぁ…。
 
 
 うんざりするような自己憐憫の言葉が耳鳴りのように響く。それは健一が何百回何千回と繰り返した自問自答だった。今更そんな事を悔やんだり考えたりしても仕方ないと解ってるはずなのに、未だに時折思ってしまう。
 
 あの時、ボールをキャッチしなければ、と。
 
 ボールは川に落ち、吾妻に囚われることもなく、健一は昔と同じような穏やかな日々を送れていたはずだ。家族と暮らし、伸樹と野球をし、この世の残酷さを知らずに済んだ。あの一瞬で、健一の運命は絶望的に変わってしまった。
 
 
 やだ、やだ…戻りたい。
 お父さんとお母さんに会いたい。
 お姉ちゃんに会いたい。
 伸樹と野球がしたい。
 家に帰りたい…。帰りたいよぉ…。
 
 
 五月蠅い黙れ!と叫びそうになった。もう戻れないんだ。もう二度と戻らないものを思い返してどうなる。ただ惨めになるだけじゃないか。
 
 暗闇の中で必死に健一は両耳を塞いだ。それなのに、声は健一の脳味噌へと直接囁き掛けてくる。まるで洗脳だ。
 
 狭いゴミバケツの中で、誰かの息遣いを身近に感じた。耳朶を生ぬるい呼気が吹きかけられる。一体誰の、一体誰が。
 
 閉じていた瞼を恐る恐る開く。瞬間、健一は息を呑んだ。暗闇にもう一人の自分が見えた。鼻先が触れ合いそうなほど間近で、涙に濡れた眼球が健一の顔をじっと覗き込んでいる。まだ吾妻に囚われる前の、幼い表情をした自分がそこに居た。
 
 
『なんで、生きてるの?』
 
 
 残酷な問い掛けだった。思わず、ヒッと咽喉が鳴った。健一は顔を左右に振って、幻覚から目を逸らした。だが、視線を逸らした先にも同じ目が待ち受けていた。悲しげに歪んだ目が問い掛ける。
 
 
『なんで、死なないの?』
 
 
 息が途切れる。唇が酸欠になったように上下にはくはくと動く。見開いた目が閉じられない。幻覚が健一の両頬をそっと包み込む。冷たい掌がひやりと皮膚を凍えさせる。そうして、幻覚は泣き出しそうな笑みを浮かべて、健一へと切なげに懇願してきた。
 
 
『楽になりたい。楽になりたいので、もう俺は死んでください。お願いします、死んでください』
 
 
 何で、俺が、俺に、そんなこと言うんだ。死んでくれ、なんて、酷いこと。
 
 
「やめて…」
 
 
 もう堪えられなかった。咽喉からか細い拒絶の声が零れた。それなのに、幻聴は鼓膜に貼り付いたまま剥がれない。むしろ、声は段々と大きく心臓を揺さぶってくる。
 
 
『お願い、死んで。死んでください。お母さんとお父さん、お姉ちゃんのところに逝きたい…。ここはさみしい、さみしいよぉ…。もうひとりぼっちはいやだ…。お願い、死んでよ。お願いだから…死んで、どうか俺を助けて…』
 
 
 幻覚に幻聴、自分は一体どうなってしまったんだろう。何故こんなものが見えるのか、聞こえるのか。とうとう完全に狂ってしまったのか。
 
 両耳を塞いだまま、健一はひたすら「やめて、やめて…」と掠れた声で繰り返した。それでも、もう一人の自分は消えることなく、延々と健一に付き纏った。
 
 
 
 
 
 
 周囲から人の気配が消えたのがいつなのかも解らない。不意に頭上からゴミ袋の重みが消えて、代わりのように、ふわり、と頬に冷たい感触が落ちる。霞んだ目を緩くあげると、酷く苦しげな声が聞こえてきた。
 
 
「…なんて顔してるんですか…」
 
 
 頭上から白いホコリのようなものがふわふわと舞い降りているのが見えた。雪だ。淡雪の中、横田が健一を見下ろして、泣き出しそうに顔を歪めている。
 
 
「…横田、さん」
 
 
 掠れた声で名前を呼ぶと、横田は微かに目を潤ませた。健一の両脇に手を差し込むと、健一をゴミバケツの中から掬い上げる。地面へと下ろされた瞬間、くらりと足下が揺らいだ。横田が慌てて、健一の腰を腕で支える。力強い手だった。そのまま支えられていると、横田はそっと健一の唇へと指先を寄せた。親指の腹で、下唇をゆっくりと撫でられる。
 
 
「噛まないで下さい…血が…」
 
 
 無意識に歯が唇に深く食い込んでいた。横田の指に促されるように、強張っていた唇をゆっくりと解く。途端、剥がれた薄皮から血が滲むのを感じた。横田がポケットから取り出したハンカチを健一の唇へと押し当てる。白いハンカチに赤い斑点が浮かぶのが見えた。
 
 視線をふっと逸らす。横田の背後に、暗闇の中でずっと寄り添っていた自分の幻覚が立っていた。横田の影から、様子を窺うように不安げな眼差しで健一を見ている。
 
 
「…俺が…」
「え?」
「そこにいる」
 
 
 幻覚を指さす。横田が肩越しに振り返って、痛ましげに顔を歪めた。
 
 
「誰も…」
 
 
 横田が言いよどむ。誰もいないとは言えなかったのだろう。それは、健一の頭が可笑しくなったと言うのと同じだから。その思いやりが余計に苦しかった。
 
 
「俺が、俺に死ねって言う。俺は死ななきゃいけないの?」
 
 
 横田ではなく、幻覚へと向かって問い掛ける。幻覚は弱々しく、しかし確かに頷いた。『死んで』と声なく唇が動く。
だが、不意に喧しい泣き声が聞こえた。健一の幻覚の後ろに、幼稚園ぐらいの小さな子供が立っている。幻覚の服の裾を両手で掴んで、両目から大粒の涙をぽろぽろと零している。
 
 
『やだぁ、やだ、死なないで。健一、死んじゃやだ』
 
 
 何だこの幻覚の茶番劇は。こんな子供は知らない。泣きむせぶ小さな子供をじっと見つめる。どこか見覚えのある顔だ。だが、それが誰なのかは解らない。
 
 目線を合わすように膝を折った横田が健一の両肩を掴む。そのまま、目を覗き込むとゆっくりと囁きかけてきた。
 
 
「何か飲んだり食べたりしましたか?」
「…うん。オレンジジュースとアメ、食べた」
「どちらかに薬が入っていたんだと思います」
「くすり?」
「幻覚剤か何かだと思います。大丈夫、貴方は大丈夫です。死ななくていい」
 
 
 諭すような横田の声に、うん、と小さく返事を返す。言われた言葉が自分に対するものだと上手く理解することが出来なかった。そもそも幻覚剤という言葉すらどこか絵空事じみて聞こえた。
 
 もしかしたら横田は、健一が狂い始めているのを、幻覚剤のせいだと言って誤魔化そうとしているだけなのかもしれない。だが、結局本当のことは解らなかった。
 
 
「横田さん、なんで、ここわかったの?」
「パクから連絡があったんです。貴方をゴミバケツの中に隠したから助けに来てくれと」
「パクって、パクヒョルのこと?」
「はい」
「あの人、捕まった?」
「捕まりました」
 
 
 そっか、と健一は素っ気ない相槌を返した。だが、気持ちはぐしゃぐしゃに掻き毟られる。
 
 嗚呼、俺のせいだ。俺が自分の無事と引き替えに、パクヒョルを売ったんだ。そう思った。
 
 
「助けられる?」
 
 
 横田の顔が微かに歪む。どこか苦しげな表情だ。
 
 
「違法労働の外国人は強制送還されます」
「キョウセイソウカン?」
「国に戻らされるんです」
「助けられない、ってこと?」
 
 
 端的な問い掛けに、横田は一瞬押し黙った後、深くゆっくりと頷いた。
 
 
「助けます。健一さんが望むのであれば」
「助けて。絶対に」
 
 
 即答した。横田が迷いなく頷く。横田はそっと健一の掌を両手で包み込むと、冷えた指先を掌で温めた。健一の全身に纏わり付く悪臭を気にとめる様子もない。
 
 
「帰りましょう、健一さん」
 
 
 横田の声は、まるで祈るようだった。微かな懇願と哀切が入り交じった声音は、健一の背筋を微かに戦慄かせた。
 
 
「どこに?」
「家に」
「家なんかない」
 
 
 当たり前に健一は答えた。健一の家は、家族と住んでいた家だ。今は灰になって影も形もないあの家だけが健一の帰りたい場所だ。
腹の底で憎悪が蠢く感触がした。ぞわぞわと腹の襞を嘗めるように憎悪が揺らめいて、そうしてチリチリと皮膚を炙る。
掌を包む温かい手を一息に振り払って、健一は目を見開いて横田を凝視した。
 
 
「お前は、俺を檻に閉じ込める気か」
 
 
 触れてくる手は優しい。だが、それは健一を優しく檻へ引き込む手だった。
 
 横田が指先を微かに震わせて、健一を見つめる。しかし、心を決めたように唇を引き締めると、残酷な言葉を吐いた。
 
 
「でも、貴方の帰る場所はあそこしかない」
 
 
 拳が震えた。力で敵うはずもないのに、目の前の優しくて傲慢な男を殴り倒したかった。肩を怒らせて、健一は横田を睨み付けた。
 
 
「帰るんじゃない。あいつを殺すために戻るだけだ」
「健一さん、貴方が真澄さんを拒絶すればするほど貴方は泥沼にはまっていく。傷付つけられるばかりです」
 
 
 他人事だからと随分と身勝手な事を言う。健一は、鼻で笑った。
 
 
「じゃあ、あいつを受け容れればいいのか? あいつを許して、黙って犯されてやればいいのか?」
 
 
 込み上げてきた不快感に、両腕をガリガリと掻き毟る。健一の自虐的な行動に、横田が泣き出しそうに顔を歪める。
 
 
「そうじゃない。そうじゃないんです。自分はただ、貴方に別の道を見つけて欲しい。殺す殺されるだけがすべてじゃない。今の貴方は、人生を終わらせようと躍起になっているようにしか見えないんです。ですが、貴方の人生はこれからも続いていくんです。まだ何年も何十年も。そのことを、もっと貴方に考えて欲しい」
 
 
 一瞬気が遠くなった。何年も何十年も自分の人生が続いていくなんて、横田に言われて初めて気が付いた。だが、それは健一にとって救いにはならない。長い人生を素直に喜べるのは、今が幸福な人間だけだ。
 
 
「嫌だよ、そんなの…」
 
 
 声は掠れていた。怒りは萎んで、あるのは胸を占める空虚さだけだった。
 
 
「何にも…何にも解ってないよ…。今がつらいのに、今がこんなに嫌なのに、何で未来のことなんて考えられるんだよ…。これ以上進んだらもっと泥沼に落ちるって、あんたはそう思ってるかもしれないけど、でも、俺は、今が地獄なんだよ。ここが、今ここが地獄なんだよ…。地獄で、将来のことなんか考えられるわけないじゃんか…」
 
 
 悲しげな横田の眼差しを見ていると、まるで自分が悪いことを言ったような気がしてくる。だけど、自分の言葉を撤回することは出来なかった。
 
 
「自分は、健一さんに生きて欲しい。死んだら終わりなんです。すべて、終わるんです」
 
 
 横田は真摯に、正しい言葉を健一へと語りかけてくる。
 
 横田は誠実だった。誠実だからこそ、健一を余計に苦しめる。
 
 
「いつか、必ず今が幸福だと思える日がやってきます。必ずです。だから、その日まで生き続けて下さい。どれだけ苦しくて、悲しくて堪らなくても、生きていれば…いつか…」
 
 
 みんな、『いつか』と不確実な言葉を口にする。真昼も、保田も、横田も、優しい人はみんな『いつか、いつか』と健一に訴えかける。
 
 だけど、それはどれだけ長い年月なのだろうか。訪れるかどうかも解らない『いつか』を待つのは腸を引き裂くような苦痛があると、どうして気付いてくれないのだろうか。地獄で足掻きながら生きる人生に、『いつか』が本当に来るのだろうか。
 
 横田の目は、透明な液体で薄く覆われていた。ゆらゆらと波打つ眼球に、虚ろな目をした自分の姿が映っている。その時、不意に鼓膜に粘着いた声が蘇った。
 
 
『彼の子供は、君と同じぐらいの歳だったんだよ』
 
 
 不愉快で堪らない、青柳の悪意の声。だった、と過去形で語られた言葉。
 
 
「あんたの、子供は…」
 
 
 ぽつりと吐き出した一言に、横田の身体がギクリと強張るのが解った。悲しげな眼差しに、困惑と狼狽がじわりと滲み出す。
 
 その瞬間、横田の視線が健一から逸らされた。まるで自分の罪から目を背けるような仕草に、健一は何かを感じ取った。感じた瞬間、絶望と憎悪がないまぜになって込み上げた。
 
 
「死んだのか。あんたの子供」
 
 
 冷酷な健一の声音に、横田がハッと逸らしていた視線を健一へと戻す。だが、もう遅い。健一は悟った。この男も、健一のことを想っているようで想っていない。健一を通して、他の誰かを見ていた。みんな、みんなそうだった。
 
 
「健一さん…」
「俺はあんたの子供じゃない」
「自分は、そんなつもりは…」
「黙れ。もううんざりだ。どいつもこいつも人を舐めやがって」
 
 
 ギリギリと奥歯を噛み締めて、一息に吐き捨てる。横田の手を払いのけて、健一はその温められた掌をズボンへと擦り付けた。まるで汚いものでも触れたかのように。横田が傷付いた表情をする。だが、傷付けられたのは健一の方だ。
 
 
「あいつも、あいつもあいつもあいつも、誰も彼も、俺を勝手に他の誰かの身代わりにするんだ。俺は、あいつのお父さんでもなければ、お母さんでも家族でもない。殺された園児でもなければ、お前の子供でもないッ!」
 
 
 健一は健一なのに、他の誰にもなれないのにみんな健一に何かを押し付け、求めてくる。
 
 吾妻は与えられなかった家族の愛情を健一に求め、健一を愛してもいないのに愛を囁く。保田は救えなかった園児への罪悪感から健一を助けようとする。そうして、横田は死んでしまった子供の影を健一に重ね、健一に幸せになってくれと祈る。
 
 だが、健一の為を思っているようで、結局はみんな自分のためじゃないか。どれだけ高尚な大義名分を掲げたところで、根底にあるのは偽善だ。ただの自己満足だ。誰も、健一を見ていないくせに。
 
 
「何で、あんたの子供死んだの」
 
 
 冷え冷えとした声で訊ねた。横田の顔が悲痛に歪む。その顔を見据えて、健一はせせら笑った。健一の傷の分だけ、目の前の優しい偽善者を傷付けてやりたかった。
 
 
「なぁ、何で死んだんだ? 病気? 事故? それとも、殺されたの?」
 
 
 ハッと横田が息を呑む。無骨な男が青褪める姿に、健一は醜い満足感を覚えた。口角を卑しく吊り上げて、ゆっくりと囁き掛けるように言ってやる。
 
 
「あぁ、殺されたんだ。どうやって?」
 
 
 唇を微かに戦慄かせて押し黙る横田の姿に苛立つ。もう我慢する理由はなかった。健一は片腕を振り上げると、その拳をしゃがみ込む横田のコメカミへと叩き付けた。ガツッと鈍い音が鳴って、横田の顔が痛みに強張る。
 
 
「質問に答えろよ」
 
 
 何度も何度も横田のコメカミを殴り付ける。ガツッガツッとまるで固いサンドバックでも叩いているかのような音が路地に響く。小さな拳が叩き付けられる度に、横田の頭が左右にぐらりと揺れる。その度に健一の指の関節も軋んだが、そんな痛みは気にもならなかった。
 
 
「言えよ、言え。言え」
 
 
 単調な言葉に執拗な暴力、他人に暴力を奮っていることに何も感じなかった。コメカミが真っ赤に腫れ上がった頃に、横田が薄く唇を開いた。
 
 
「…妻と娘は…自分がいない間に攫われて、散々嬲られ、痛め付けられた後に、ゴミ捨て場に遺体を捨てられました…。娘は、十一歳でした」
 
 
 血を吐くような横田の言葉に、健一は横田を殴り付ける手を止めた。俯く横田を凝視したまま、ふぅん、と愛想のない相槌を漏らす。
 
 
「何で、殺されたのさ」
「自分が、何処のグループにも属せなかったからです」
 
 
 ふと横田が言っていた言葉を思い出す。
 
 
『稀に何処のグループにも属せない奴がいます。そんな人間がどういう扱いをされるか、健一さんは知っていますか?』
『迫害されるんです』
 
 
 あれは横田の事を言っていたのか。だが、何故横田がどのグループにも所属できなかったのか理由は解らなかった。
俯いていた横田がふっと顔を上げる。
 
 
「俺の本当の名は、グァンソンと言います」
「グァンソン?」
「俺は在日です」
 
 
 横田が淡く微笑む。泣き出しそうな、自嘲的な、それは笑顔よりも泣き顔に近かった。
 
 
「俺は日本人からは在日だと疎まれ、中国人からは裏切り者だと憎まれました。お前は祖国を捨てた売国奴だと――俺は何処のグループにも入れてもらえなかった…」
 
 
 酷く心細げな声は、まるで仲間はずれをされた小学生のようだった。教室の中でぽつんと独り佇む少年を想像させる。
 
 
「自分と家族というだけで、妻と娘も同じように迫害されました。俺は迫害してくる奴らを憎みました。迫害には徹底的な暴力で対抗しました。暴力を奮えば奮うほど、俺や俺の家族に対する迫害はより激しくなりました。だから、俺は更に暴力を駆使しました。倍々ゲームのように、お互いに対する憎しみが高まって行くのが解りました。ですが、もう止められなかった…。止め方も解らなかった…」
 
 
 横田の声には、後悔が色濃く滲んでいた。過去を悔やみ、自らを断罪するかのような苦しげなその声に、健一は唇を固く閉ざした。
 
 
「そうして、俺ではなく妻と娘が殺されました。俺は、今まで自分がやってきたことがいかに愚かだったのか、その時はじめて気付いたんです。憎めば、憎まれるのは当たり前で、誰かを傷付ければ、傷付けられるのも当然のことだったのだと。気付いた時には、もう遅かった」
 
 
 掌をじっと見詰めて、横田が微かに咽喉を震わせる。
 
 
「墓場で呆然としていた自分を、真澄さんが拾いました。真澄さんは、俺にこう聞いたんです。お前は日本人になりたいのか、中国人になりたいのかと。自分は、どちらにもなりたくないと答えました。人にはもう…生まれたくない…」
 
 
 それは独白のようにも、赤子が愚図る声にも聞こえた。俯いていた顔をあげて、横田が健一を見詰める。
 
 
「貴方には、自分のように間違って欲しくない。このまま憎悪だけをもって進み続ければ、貴方は今よりももっと酷いものを見せられる。心を壊されて、死しか選ぶことが出来なくなる。だから、お願いですから、たった一瞬でもいいんです。立ち止まって、生きる道を探して下さい。貴方自身の幸福について考えて下さい」
 
 
 懇願するように横田は言った。
 
 横田も弥生と同じだ。健一に幸せになって欲しいと願っている。だが、それは結局は第三者の実を伴わない願望でしかない。
 
 健一は、頭の中で『幸福』という言葉を思い浮かべた。形を持たぬ何かがゆらゆらと脳味噌の隙間をたゆたう。横田のいう理想はあまりにも漠然としていて、健一には上手く理解することが出来なかった。
 
 
「しあわせに…」
 
 
 譫言のようにぽつりと漏らす。実感はなかった。
 
 横田を見遣る。横田のこめかみは赤く腫れている。健一の暴力の痕。それを見た瞬間、健一は身体からふっと力が抜けるのを感じた。脱力じみた遣る瀬無さが全身を満たす。
 
 
「しあわせって、なに?」
 
 
 呟いた瞬間、健一は自分の口元が笑みを刻むのを感じた。悲しいのに、馬鹿馬鹿しくて笑える。
 
 幸せになんてなれるわけがない。たった今、健一は他人に暴力を奮った。吾妻を憎み、横田を刺し、斉藤を破滅させ、真昼を見殺しにした。そんな邪悪な人間がどうして幸せになんかなれるんだ。
 
 幸せは失った。家族と一緒に。真昼と一緒に。だから、もう健一には何もない。立ち止まったところで何も変わらない。だって、健一には幸せが何なのかも解らないのだから。
 
 だから、息を吸い込んで、健一は大きく腕を振り上げた。高く上げた肘を、思いっきり横田のコメカミへと向かって薙ぐように叩き落とす。ヒュッと風を切る音が聞こえた後、重たい花瓶を落としたような音が響いた。横田の頭がぐわんと揺れて、重心を崩したように地面へと掌をつく。
 
 
「ッ…健一さ…」
 
 
 傍らに置かれたゴミ袋へと視線を落とす。五千万が入った重たいゴミ袋を片手に引っ掴んで、健一は一気に駆け出した。背後から横田の悲痛な声が聞こえる。
 
 
「行っては駄目です! 健一さん…!」
 
 
 呼ぶ声に反応を返さなかった。
 
 頭の中で、再び破滅の協奏曲が鳴り響く。破滅へ、破滅へ、破滅へ、行き着く先はそこしかなかった。
 
 路地の角から幻覚がひょっこりと顔を覗かせる。涙に濡れた瞳が物言わず健一を見詰めている。健一の幻覚の後ろには、矢張りあの子供が立っていた。
 
 
『行っちゃだめ、健一、行っちゃだめだよぉ』
 
 
 大声で泣き喚く子供の幻覚、それが誰に似ているのかようやく解った。その子供の幻覚は、吾妻に似ていた。纏わり付く泣き声を振り払うように、健一は雪の中を駆け抜けた。
 
 

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