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31 慟哭

 
 暫く走ると、大通りに出た。クリスマスのせいか、夜の二十二時を回っているのに人通りは鬱陶しいぐらい多かった。
 
 広場の中央に、巨大なクリスマスツリーが飾られている。その周りで、カップルや家族連れが賑やかにはしゃいでいる。色とりどりのライトやモニュメントで飾られたツリーが綺麗で、健一は一瞬現実を忘れてぼんやりとツリーを眺めた。虹色に輝くツリーは目が眩みそうなほどの光で輝いていた。
 
 ツリーの周りには無数の笑顔が満ち溢れている。それなのに、この場所で健一だけ笑っていない。たった独り、呆然と立ち尽くしている。
 
 母親と手を繋いで歩いていた少女が健一の傍を通り過ぎる。腕には買ってもらったばかりであろう大きなクマのぬいぐるみが抱き締められていた。通り過ぎる瞬間、少女が鼻をひくつかせて露骨に眉をしかめた。
 
 
「ママ、あの子くさい」
 
 
 それが自分へと向けられた言葉だと一瞬気付かなかった。だが少女の嫌悪の眼差しが自分を見ていると気付いた瞬間、健一は狼狽し、そうして猛烈に恥じた。全身から生ゴミの臭いを発し、頭や手足は汚い汁でべたついている。まるでホームレスのようだ。健一は、誰から見ても薄汚い存在へと成り果てていた。
 
 少女の母親が困ったように微笑んで、少女を窘める。
 
 
「そんなこと言っちゃ駄目よ」
「でも、くさいんだもん」
「あの子が可哀想でしょ」
 
 
 哀れみの眼差しが健一へと向けられる。だが、その目は直ぐに逸らされる。まるで見てはいけないものを見てしまったかのように。健一は愕然とした。とうとう誰からも拒絶される存在に成り果てたのだと気付いた瞬間、健一は耐え切れずにその場から一目散に逃げ出した。
 
 人混みを縫うように走る。健一の汚らしい姿を見ると、誰もが顔を顰めて左右に避けていく。避けきれずに健一の腕が鞄に掠った女子高生は「もぉ、やだぁ~」と涙声で呟いた。
 
 
 
 
 
 
 気付いたら、住宅街にある公園に立っていた。錆びたジャングルジムと色褪せたすべり台しかない小さな公園だ。
 
 公園の端に設置された水道へとふらふらと近付いて、蛇口を捻る。流れ出した水へと手を突っ込むと、その冷たさに首筋の産毛が総毛立った。
 
 熱いものにでも触れたかのように掌をパッと放してから、数秒躊躇った後、もう一度掌を突っ込む。一瞬で指先が鮮やかな赤に染まるのが見えた。雪が降る中、手にこびり付いたネバネバした液体を躍起になって洗い流す。
 
 掌から汚れが取れると、次は腕の汚れが気になった。長袖をまくり上げて、二の腕まで水を掛ける。途端、肌が波打つ勢いで鳥肌が浮かび上がった。あまりの寒さにカチカチと歯の音が鳴り始める。
 
 だが、健一はやめなかった。薄汚い自分にもう耐え切れなかった。
 
 腕が洗い終われば、次は足。ズボンを膝までまくり上げて流水に晒した。蛇口の下に頭を突っ込んで、髪の毛まで洗う。上着を脱ぐと、水で乱暴に洗う。身につけているものはタンクトップとズボンだけになり、剥き出しの腕がガクガクと尋常じゃない勢いで震えた。それはもう痙攣に近かった。
 
 洗い終わった服を、力任せに絞る。あまりの寒さに腕に力が入らず、どれだけ絞っても服は水を滴らせたままだった。諦めて、濡れた上着をそのまま身につける。冷水で湿った服はまるで氷のように皮膚にぺったりと貼り付き、健一を凍えさせた。
 
 腕を鼻先へと近付けて、くんと臭いを嗅ぐ。まだ異臭は漂っているが、先ほどに比べれば気にならない程度だ。
 
 その事に健一は酷くほっとした。ほっとした瞬間、悲しみが満ちた。満ち溢れた。
 
 水道の前にぺたんと座り込んだまま、健一は空を見上げた。灰色の雲から、ゆっくりと雪が降り続けている。
 
 
「――死にたい」
 
 
 ハッとした。両手で唇を押さえて、健一はとっさに左右を見渡した。それは自分ではない、他の誰かの声だと思った。だが、周りには誰もいなかった。健一以外は、誰も。
 
 それが自分の無意識の声だと気付いた瞬間、健一は愕然とした。「何でだよ…」と小さく囁く。
 
 
「なんで、俺が死ななきゃなんないんだよ…」
 
 
 泣き笑いじみた声が漏れる。唇からハハッと乾いた笑い声が零れて、その瞬間、心臓が張り裂けた。唇を塞ぐ間もなく嗚咽が溢れ出した。
 
 
「ぅ、アァ…あー…!」
 
 
 涙が出ない。涙が出せない。それが苦しい。悲しみは溢れることなく、体内へと蓄積されていく。もうやめてくれ、身体はパンパンだ。心が無惨に切り裂かれる。穴だらけの心は、もう心の形を成していない。ずたぼろになった雑巾のような心は、それでもまだ平凡な子供のように傷付く。
 
 溢れる慟哭を止めたくて、両手で咽喉を締める。今度は苦しげな嗚咽が零れる。
 
 
 死にたい、死にたい死にたい、でも、どうして、何で死ななくちゃいけない。
 
 
 具体的な理由なんて解らない。ただ、もう終わりにしたかった。この辛くて苦しいだけの残酷な世界から逃げ出したかった。ただ、それだけで死ぬ理由は十分だった。
 
 生きていたって良いことなんか何一つとしてない。健一が生きているだけで家族や好きな子は殺された。そうして、健一自身も誰かを傷つけ、自分だけではなく他人まで破滅させている。まるで動くダイナマイトだ。他人を巻き添えにして爆発している。そうして、生き続ける限り、頭の可笑しい男に死ぬまで嬲られ続け、苦しむだけの人生が続くのだ。こんな人生に何の価値がある! 死んだ方がずっとマシじゃないか!
 
 ――それなのに、
 
 
「…死にたくない…」
 
 
 嗚咽に紛れて、死にぞこないが掠れた声で叫ぶ。こんな酷い終わり方をしたくない。畜生のように野垂れ死ぬなんて嫌だ。何で生きてるのか、何で死なないのか、そんなものに答えはない。ただ俺は、死にたくない。後悔ばかりの人生を、自分の手で終わらせるなんてそんな惨めなことは絶対にしたくない。
 
 何故こんなにも矛盾しているのだろう。死にたいのに死にたくない。生きたいのに上手く生きれない。優しくなりたいのに優しくなれない。生きるだけで、どうしてこんなにも苦しくて辛くて、それでも生きたいと願うのだろう。
 
 嗚咽が次第にやんでいく。雪はまだ降り続け、健一の肩へとそっと落ちてくる。濡れた服が重たくて冷たい。だが、全身の震えは止まっていた。
 
 波打っていた心が静まっていく。達観や悟りじみた空虚さが心を満たす。一体、何を悲劇ぶっていたのか。こんなところで一人へたりこんで、涙も出ないのに泣きじゃくって、傷付いた自分を誰かに見せつけようとでもしているのか。慰められるのを待っているのか。馬鹿馬鹿しい。苦しい辛い悲しい、そんなのは当たり前だ。生きているのだから。ずっと昔、健一が生まれる前から、生きることは平等に残酷だったのだ。
 
 ふらりと立ち上がる。ゴミ袋を片手に、ずるずると身体を引き摺るように歩き出す。
 
 
「死んでたまるか…」
 
 
 呪詛のように吐き出す。死なない。絶対に死なない。死んでたまるか畜生。頭の中で何百回も繰り返して、唇に滲む血を手の甲で粗雑に拭った。
 
 そうして、生きるのなら、健一がやることは一つしかなかった。
 
 

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