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32 駒鳥

 
 何時間も歩いて、日付が変わった頃にようやく神田川駅に辿り着いた。終電が終わった駅からは人の気配はなくなっている。
 
 暗がりの駅へと入っていき、トイレへと向かう。以前【拳銃一丁二百五十万】と示した男が入っていた個室は固く閉じられていた。
健一は乱暴にそのトイレのドアを叩いた。
 
 
「あけろ。金を持って来た」
 
 
 立て付けの悪い扉がガンガンと喧しい音を立てる。扉を叩く度に、限界までかじかんだ指先が根本から千切れるように痛んだ。指先だけでなく今は全身の皮膚が氷結したようにパリパリに固まっている。凍えているのに、どうしてだか感覚的には火傷をしたかのように熱かった。
 
 
「あけろ」
 
 
 もう一度短く繰り返す。返事は返ってこない。
 
 あけろ、あけろ、あけろ、拳銃を売れ、あいつを殺す拳銃を寄越せ、俺が生きるためにはあいつを殺すしかないんだ、あけろ、拳銃を出せ、俺にあいつを殺させろ、
 
 殆ど取り付かれたかのように、咥内でぶつぶつと繰り返す。今健一の脳裏を占めるのは、ただそれだけだった。
 
 吾妻への殺意。健一が生き延びようと思うのなら、吾妻を殺すしかなかった。あの男は生きているだけで健一を苦しめ、辱め、貶める。その元凶を殺さない限り、健一は生きている実感などできるはずがない。そうして、吾妻を殺すためには拳銃が必要なのだ。
 
 数分間扉を叩き続けた。だが、扉は開けられない。中から人の気配を感じることも出来なかった。
 
 諦めるしかないのかと健一が唇を歪めた時、不意にどこかからカタリと物が動く音が聞こえた。音の行方を探し出そうと視線を巡らせた瞬間、健一は視界の上部を銀色の何かをヒュッと通り過ぎるのを見た。それは健一の側頭部へ振り下ろされようとしている。
 
 唇が『あ』の形で固まる。次の瞬間、激しい衝撃と痛みが鉄杭のように脳天を貫いた。瞼の裏で赤い光が弾けて、ガクンと脳味噌がシェイクされる。身体が揺らぎ、そのまま骨がなくなったようにぐにゃりと床へと膝から崩れ落ちる。瞼の上を生温かい液体が伝って、眼前の光景を真っ赤に染め上げた。
 
 瞬きをしたいのに、瞼が動かない。瞼だけでなく、腕も足も、タイルの上に惨めに転がったまま微動だに出来なかった。
 
 最後に視界に残ったのは、金属バットを握る誰かの手だ。ぶよぶよと肥えた手を、健一は見たことがあった。だが、それが誰の手だったか思い浮かべる前に、意識は暗闇へと呑み込まれた。
 
 
 
***
 
 
 
「一体、何のつもりですかっ!?」
 
 
 甲高い怒声を張り上げて、会議室の机へと手を叩きつける。刑事ドラマでよく見る古臭く馬鹿げた仕草だと自分自身で思ったが、衝動が抑えきれなかった。怒りが体内で音を立てて煮えたぎっている。
 
 クリスマスイブなせいか署内には数えるほどの当直しか残っておらず、普段の喧噪を忘れるほど静かだった。喧しく叫ぶ保田の目の前に悠々と座っているのは青柳だ。
 
 
「何のつもりとは?」
 
 
 白々しく首を傾げる男をきつく睨み付ける。
 
 
「青柳警視は、あの賭博場に強制捜査が入ることを知っていたんじゃないですか?」
 
 
 余裕綽々な男は、自身が羽織るコートのボタンを指先でいじりながら「嗚呼、そうだね」と事もなげに答えた。暇つぶしに答えてやった、と言わんばかりの傲慢な様子に、保田の怒りは更に燃え盛った。
 
 
「強制捜査が入ることを知りながら僕に潜入捜査させたのは、本当は健一君の『お守り』をさせるつもりだったからじゃないんですか?」
 
 
 お守りという単語に、青柳が軽く噴き出す。咥内で「どっちがお守りだったんだか」と呟く声が聞こえて、保田は奥歯を噛みしめた。
 
 
「教えて下さい。貴方はどういうつもりで、健一君を賭博場に『誘導』したんです」
 
 
 健一が賭博場の真上のゲームセンターにいたのも、そこに丁度潜入捜査のために保田が現れたのも偶然ではない。誰かが周到に仕込んだ計画の一部だと、保田は思っていた。そうして、その誰かとは目の前の上司に違いなかった。
 
 青柳が粘着くような笑みを浮かべる。机に肘をつくと掌で顎を支えて、緩やかに首を傾げた。
 
 
「君こそ一体どういうつもいだい?」
「何がですか?」
「僕は確かにあの子を誘導したかもしれない。だが、最後にあの子を賭博場へと連れたのは紛れもない君だ」
 
 
 ギクリと身体が強張る。痛いところを突かれて、反論する言葉が上手く出てこなかった。言葉に詰まった保田を見て、まるで寛大な教師のように青柳が優しく微笑む。
 
 
「いいんだよ、君はちっとも悪くない。ただ、あの子の方が少し『したたか』だっただけさ。あの子は大人の扱いに異常に長けてるからね。どうすれば大人が自分に同情してくれるか、自覚なしに判って動いてるのさ」
 
 
 だから、始末に負えない。と青柳が薄笑いを浮かべて囁く。その寒々しい言葉に、保田は微かに唇を震わせた。
 
 
「それじゃ、まるで健一君が僕を利用したように聞こえます」
「その通りじゃないか。実際、君はあの子の望むままに動いたはずだ。賭博場へと連れて行き、その保護者を演じた。すべてあの子の思惑通りだ」
「健一君は、そんな子じゃありません」
 
 
 性善説に乗っ取ったような保田の一言に、高らかな嘲笑が返される。青柳は声を張り上げて笑い、くつくつと咽喉を震わせながら言葉を続けた。
 
 
「君はあの子をマリア様とでも思ってるの? あの子はヤクザの愛人だよ。セックスもしてる」
「でも、子供です。まだ十二歳の、小学校も卒業していないただの子供なんですよ!」
 
 
 声が抑えられなかった。胸の内側から焦げ付くような衝動が込み上げてくる。
 
 誰も彼も、あの子を化物のように扱おうとする。だが、保田からしてみれば、健一はただの子供にしか見えなかった。確かに時折子供らしかぬ残虐さや苛烈さを見せる時はある。しかし、あの子はただ強がっているだけだ。あの子が怯えて牙を剥くしかない状況に追い込んでいるのは、周りの人間ではないか。
 
 思い詰めたように下唇を噛み締める保田に、青柳が肩を竦める。
 
 
「子供だからこそ余計に厄介なんだよ。子供は柔軟で、周りの情報を吸収するのも早い。このままだと、あの子は悪党のサラブレッドになるだろうね」
 
 
 にたりと思い出したように青柳が口角を吊り上げる。
 
 
「そういえば、あの子は賭博場で五千万勝ったようだよ。自分の内臓を担保にして、斉藤という悪徳金融業者の社長から尻の毛まで毟り取ったらしい。ついでに斉藤はその後消息不明になってる。これはどういう事なんだろうねぇ?」
 
 
 青柳の口調は、酷く嬉しそうだった。弾むような声音は、健一の行為を賞賛しているようにも聞こえる。
 
 五千万という言葉に、保田はくらりと足元が微かに揺らぐのを感じた。
 
 あの子は、一体何をしたんだ。これから何をしようとしているんだ。
 
 
「…僕には、解りません」
「そうだろねぇ。僕にだって解るもんか。あの子の生き方は、周りに掻き乱されているにしろ酷く滅茶苦茶だ。十二歳の子供が自分の内臓を売り飛ばすと口にしたんだ。あの子は無知だが、頭は悪くない。自分が骨と皮になって死ぬことも自覚して、未来を冷静に計って、それでも自分の命と金を天秤に賭けたんだ。そんな事ができる子供が何処にいる」
 
 
 そう一息に言い切って、青柳がハッハァと笑い声を張り上げる。心底愉しそうな笑い声だ。
 
 その笑い声を聞いて、保田の気持ちは更に沈んでいった。陰鬱な感情が溢れてきて、全身が絶望ともつかない気怠さで満ちていく。
 
 
「貴方は、一体何が目的なんですか。健一君を、どうするつもりなんですか。…あの子は、どこに行ったんですか」
 
 
 摘発された賭博場から健一の姿は見つからなかった。おそらく逃げ出すことに成功したのだろう。だが、吾妻のマンションに戻った気配もない。それならば、こんな寒い夜の中、あの子は一体何処に消えてしまったのか。
 
 静かに、弱々しく訊ねる。青柳は笑い声をピタリと止めると、ゆるりと不思議そうに首を傾げた。
 
 
「僕には目的なんか初めからなかったんだよ。僕は、ただ他人の尻馬に乗っかって騒いでいるだけのショッカーみたいなものさ。それなのに、僕が首謀者だなんて勘違いされたら困るなぁ」
「それなら、首謀者は誰ですか。一体誰が健一君を追い詰めようとしているんですか」
「さぁねぇ」
 
 
 とぼける言葉に再び脳味噌が沸騰してくる。拳をギリと握り締めて、青柳を睨み付ける。保田の睨みを意に介さず、青柳は不意に蕩けるような笑みを浮かべた。
 
 
「クックロビンを殺したのは誰?」
「え?」
「知っているだろう? マザーグーズの童謡の一つだ。駒鳥を殺したのは誰? それは私だ。スズメが答えた。私の弓矢で、私がクックロビンを殺した」
 
 
 諳んじて、青柳が窺うように保田を見詰める。
 
 
「その歌が、何の関係があるって言うんですか」
「童謡の中で、クックロビン殺したスズメは裁かれない。それをどうしても許せない奴がいるってことさ」
 
 
 まるで謎掛けだ。にたにたと笑う青柳は、保田相手に言葉遊びでも仕掛けているつもりなのだろう。曖昧な言葉で誤摩化されるのが最も腹立たしい。
 
 
「もっとはっきり言って下さい。これはゲームじゃないんです」
 
 
 吐き捨てるように言葉を叩き付ける。
 
 青柳は一度目をパチリと瞬かせた後、ふぅと短く息を吐き出した。物わかりの悪い保田に、呆れたように眼差しを細める。
 
 
「あの子を動かしている首謀者は、クックロビンを殺したスズメを炙り出そうとしている。あの子はそのための餌だ」
「餌?」
「そう。五千万を手に入れた子供が一体何を欲しがるか。金を持って、何処へ向かうか。君も本当は解っているだろう?」
 
 
 サァッと全身から血の気が落ちた。沼野の粘着いた声が鼓膜に蘇る。
 
 
『銃の密売人に接触した』『チャカを手に入れたら、あのガキはお終いだ』
 
 
まさか、まさかまさか。
 
 
「あの子が望んでいること、それは?」
 
 
 まるでゲームのような問い掛け。それに答えることもなく、保田は踵を返して駆け出した。廊下に出たところで、背後から高らかな声が聞こえた。
 
 
「復讐だ!」
 
 

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