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33 真紅 *暴力描写有

 
 痺れるような側頭部の痛みで、目が覚めた。
 
 こめかみの少し上の辺りが火で炙られているかのように熱い。頭を動かそうとすると、眼球を突き抜けるような痛みが走る。
ぢんぢんと腫れぼったく痛む側頭部から意識を逸らして、霞がかった目を何度も瞬かせる。ようやく像を結んできた光景は、健一に見覚えのないものだった。
 
 人気のない、小さなワンルームの部屋。畳が敷かれた床には、ところ狭しと物が散乱している。汁の表面にカビが生えたカップラーメンや、女の裸がのった猥褻な雑誌、作りかけで放置されたらしいプラモデルが床に転がっている。一目見て『きたねぇ』と吐き捨てたくなる部屋だ。健一が寝かされている万年床からも、汗ともカビともつかぬ饐えた臭いが立ち昇っていた。
 
 腐臭にも似た噎せ返るような臭気に、健一は思わず鼻を摘みそうになった。だが、すぐに気付いた。背後で固定されているのか、腕がちっとも動かない。肩越しに視線を遣ると、玩具のような手錠が両手首に填められているのが見えた。口には、ご丁寧に猿ぐつわが噛まされている。
 
 嗚呼、またか。と思わず溜息を零しそうになる。確か以前も同じような状況に陥ったことがある。両手両足を縛られて、風呂場で散々陵辱されたことを思い出す。だが、前回と違うのは、今回健一の両足は自由ということだ。
 
 そうして、おそらく健一をここに連れてきたのは吾妻ではないのだろう。あれほど健一に愛情を注ぐ男がこんなゴミ部屋に健一を置くはずがない。
 
 横臥したまま、強張った膝を軽く屈伸させる。そうしていると、爪先が何か堅いものを蹴り飛ばした。
 
 視線を落とした瞬間、健一は息を呑んだ。そこには黒光りする金属が無造作に転がされていた。銃だ。健一がずっと追い求めていた銃。
 
 銃があるという事は、健一を拉致したのはあの駅のトイレで銃を売っていた人間なのだろう。
 
 落ちている銃を足で引き寄せようとする。だが、上手く手元へと寄せられず四苦八苦していた時、玄関の扉がガチャガチャと忙しない音を立てるのが聞こえた。
 
 健一は、酷く驚いた。開いた扉の前に立っていたのは、数週間前一度だけ見た男の姿だった。
 
 保田の隣に住む男、伊藤だ。伊藤は、数週間前に会った時よりも太っているように見えた。下顎にはたっぷりとした脂肪が見て取れる。その手にはコンビニのビニール袋が下げられていた。
 
 目を見開く健一を見ると、伊藤はにやりと口角を吊り上げた。何処か薄汚さを感じさせる、嫌らしい笑みだ。
 
 
「起きたんだぁ」
 
 
 鼻がかった声音が鼓膜にねっとりと貼り付く。健一は答えることも出来ず、伊藤を凝視した。
 
 伊藤がどたどたと重たい足音を立てながら近付いてくる。歩く度に床に置かれたものが乱雑に蹴り飛ばされて、けたたましい音をあげた。
 
 
「血、血はぁ、とまったみたいだねぇ」
 
 
 健一の側頭部を太い指が掻き上げる。傷口を触られる感触に、突き抜けるような痛みが走る。鈍く呻くと、腰を折った伊藤が健一の顔を覗き込んできた。途端、強烈な口臭が鼻腔を突いた。凶悪なほどの歯槽膿漏の臭い。思わず息を止めて、咽喉を微かに上下させる。
 
 伊藤はそれを健一の怯えと勘違いしたのか、にたりと弛んだ頬に笑みを浮かべた。
 
 
「ヤクザの愛人でも怖がるんだねぇ。君も、やっぱりただの子供なんだ」
 
 
 健一は素早く瞬いて、伊藤を見つめた。健一がヤクザの愛人だということを、何故この男が知っている。健一の考えを見抜いたように、伊藤が肩を揺らす。
 
 
「君のことならなーんでも知ってるよ。僕にはね、秘密の情報屋がいるんだ。まぁ、奴隷、とも言うけど」
 
 
 まるでゲームか漫画の台詞のようだ。悦に浸ったように、伊藤がぶふふと濁った笑い声を上げる。
 
 情報屋が奴隷というのは、どういう意味なのか。理解が及ばず、健一は数度瞬いた。
 
 伊藤は健一の足下へと腰を下ろすと、そのままコンビニ袋から数個のおにぎりを取り出してパクつき始めた。食べ零された米粒が床へとぽろぽろと落ちて、埃の固まりと合体しているのが見える。
 
 
「それにしても、君も難儀なもんだよねぇ。いくらヤクザの愛人だからって、銃の密売人を捕まえる手伝いをさせられるなんてさぁ」
 
 
 伊藤の言葉に、健一は目を剥いた。一体、この男は何を言っているんだ。
 
 
「吾妻組、だっけぇ? そもそも、あいつらも懐が小さいよね。僕は一般市民としてのーんびり商売してるだけなのに、シマを荒らされたの何だの言って、僕を捕まえてシメようとするなんてさ」
 
 
 おにぎりを噛み締めながら、伊藤がいかにも憎々そうに呟く。一言話す度に、分厚い唇の端から大量の米粒が溢れていた。
 
 
「まぁ、僕が君を捕まえちゃったから、あいつらの魂胆も無駄になっちゃったけどさ。ほんと、ざまぁみろだよ」
 
 
 頬を膨らませた伊藤がにんまりと卑しい笑みを浮かべる。
 
 健一は視線を落としたまま、必死に現状を把握しようとしていた。伊藤と健一の思惑には、決定的な齟齬があった。健一が拳銃を欲しがったことを、伊藤は自分を捕まえるためのヤクザの罠だと思い込んでいる。違う、誰かにそう思い込まされているのだ。だが、一体誰に。
 
 
「ヤクザも、警察も、君も全員バカばっかだよ。今の世の中、一番重要なのは情報だよ情報。情報を制する人間が誰よりも賢いんだ。情報屋を抱える僕を騙せると本気で思ったのかなぁ」
 
 
 伊藤の引き攣った笑い声。現時点で既に伊藤は騙されているのに、それに気付いていない。気付こうともしない。この男が、自分の滑稽さを理解することは永遠にないのだろう。
 
 
「まぁ、でもこれからは慎重にいかないとねぇ。君を捕まえたら、さぁおしまいって訳にもいかないしさ。ヤクザに狙われてるなら暫く日本にはいられないよねぇ」
 
 
 四個目のおにぎりを頬張り始めた伊藤がぶつくさと呟く。健一を横目でちらりと見遣ると、伊藤は意味深げに笑った。その不気味な笑みに背筋が粟立つ。
 
 
「何で君があんな大金持ってたのか知らないけどさ、これでどこの国へでも心置きなく飛べそうだよ」
 
 
 豪遊豪遊と譫言のように漏らして、伊藤はうきうきと身体を左右に揺さぶった。
 
 伊藤の視線の先には、健一の五千万が入ったゴミ袋が置かれている。無造作に破かれたゴミ袋から大量の札束が覗いていた。それを見た瞬間、健一は軽い狂乱状態に陥った。
 
 俺の、俺の金だ。俺が自分の命を賭けて勝ち取った金だ!
 
 込み上げてきた怒りに両足をばたつかせると、伊藤が鬱陶しそうに睨み付けてきた。まるでゴキブリでも潰すかのように、傍らに落ちていた雑誌で頭をバシンと叩かれる。途端、側頭部の腫れが刺すように痛んだ。
 
 
「ジタバタしないでよ。埃がたつじゃないか。何で子供って見るぶんには可愛いのに、近くにいるとこんなに邪魔臭いんだろぅ」
 
 
 愚痴るように伊藤が呟く。たぷたぷとした下顎へと掌を添えて、ふぅと憂鬱そうに溜息をつく仕草が何とも憎らしい。鼻息荒く睨み付けていると、伊藤が笑い混じりに健一へと囁いた。
 
 
「トランクに詰めて行くわけにもいかないし、海外に行くのに君は連れていけないよなぁ。君…どうしようかなぁ」
 
 
 粘着くような声。皮膚に纏わり付く悪意に、健一は身を強張らせた。伊藤が言いたいことが言わずとも解る。伊藤は健一の『処分』について考えているのだ。
 
 
「あぁ、それとも『あいつ』に君をくれてやればいいのかなぁ。『あいつ』は子供が大好きだから、きっと君のことも可愛がってくれるよぉ」
 
 
 独りごちるように伊藤が言う。伊藤の言う『あいつ』が誰なのか健一には解らなかった。だが、その声音の気色悪さから、その相手がろくでもない人間だろうことは容易に想像できた。可愛がるだなんて、欠片も信用できるものか。
 
 
「何だっけ、『りょーた君』って子も随分可愛がってたみたいだしさぁ」
 
 
 一瞬、息を止める。涼太君というのは、確か保田が言っていた六年前変質者に殺された子供のことではなかっただろうか。目を見開いたまま硬直した健一を見て、伊藤がぷぷぷと噴き出すような声をあげる。
 
 
「まぁ、あの子はうっかり死んじゃったけどさぁ、『あいつ』だって、二人目は気をつけるんじゃない?」
 
 
 空恐ろしいことを笑顔でほざく。
 
 健一は微かに目尻を引き攣らせた後、力なく布団へと顔を埋めた。鼻を突く臭気がこれが現実だと健一に教えてくれる。このままではどこぞの変質者に渡されて、六年前の子供と同じように殺されてしまう。
 
 
 ――巫山戯るな。こんなところで、むざむざ殺されてたまるか…。
 
 
 皮膚の底から憤怒が噴き上げてくる。それを必死で体内へと押し込める。怒りは表へと出した瞬間、愚かさへと変わる。健一はそれを身を持って知っている。本当に怒り狂っている時ほど、反対の感情を出さなくてはならないのだ。怒りは巧妙に隠せば隠すほど、発散した瞬間にその威力を増す。
 
 健一は一度深呼吸をしてから、殊更ゆっくりと視線をあげた。伊藤は唐揚げを素手で口へと放り込んでいる。健一の視線に気付くと、訝しげに眉を顰めた。その顔を見つめたまま、健一は目元を淡く綻ばせた。目だけでも微笑んでいると解るように。
 
 
「君、笑ってるの?」
 
 
 伊藤の驚きの声に、健一は声も出さずに咽喉を笑いに震わせた。
 
 
「何で笑ってるのさぁ」
 
 
 焦れたように問い掛けてくる声に、健一はあえて背を向けた。背中を丸めて、腹の底から込み上げてくる笑いに微かに身を震わせる。伊藤が健一の肩を掴んで、乱暴に揺さぶる。
 
 
「何で笑うんだよ。教えろよぉ」
 
 
 無理矢理仰向けにされて、至近距離で顔を覗き込まれた。臭い息が顔面に吹き掛かって、笑みが歪みそうになるのを堪える。
 
 猿ぐつわを噛まされた口をもごもごと動かして喋ろうとする。勿論、それは言葉にはならない。
 
 伊藤が忙しない動作で、健一の猿ぐつわを外す。抜き取られた猿ぐつわに唾液が糸を引いて、布団の上へと垂れ落ちる。
 
 その流れを視界の端に収めながら、健一は軽く顎を噛み合わせた。開きっぱなしだった顎が微かに軋む。
 
 
「ほら、何だよ。何か言えよ」
 
 
 強請るような伊藤の声。それを聞きながら、健一はゆっくりと笑みを深めた。カチリ、と上下の歯が軽い音を立てた。
 
 
「お前、臭ぇんだよ」
 
 
 伊藤がその言葉の意味を考える暇があったかは解らない。
 
 言い終わると同時に、健一は眼前の太い首筋に力の限り噛み付いていた。以前、吾妻に教わった通り、狙ったのは頸動脈の位置だ。
ぐにゃりとした弾力のある肉の歯ごたえ、脂っぽい皮膚の味が舌に広がって、思わずえずきそうになる。だが、必死で堪えた。
犬歯を食い込ませると、咥内に錆びた味が広がった。血の味だ。
 
 
「ぎゃ、アアァッ!」
 
 
 まるで怪獣のような鈍い悲鳴が響く。突然の痛みから逃れようと、伊藤の巨体が床を跳ねる。暴れる伊藤に合わせて、健一の小さな身体は部屋の中をどたんばたんと振り回された。
 
 だが、たとえ歯が折れても放す気はなかった。放せば、健一は間違いなく殺される。再び殺される側へと回ってしまう。それならば、今この男を殺した方がいい。被害者になるくらいなら加害者になる方がずっとマシだ。
 
 背中が壁へと叩き付けられる。重たい衝撃に一瞬息が止まったが、その分歯にはより力を込めた。流れ込む血は、既に咥内から溢れて滴るほどに。布団の上に、大輪の薔薇が咲いたかのようだ。
 
 
「放ぜぇ、ばなせえぇええぇえッ!」
 
 
 両腕を振り乱した伊藤が濁音混じりの悲鳴を張り上げる。何度か横っ面を張り飛ばされたが、その度に健一は意地のように歯を柔らかい肉へとキツク食い込ませた。「ひぃいいいぃ」と気が狂ったような絶叫を伊藤が喚き散らす。
 
 部屋に満ちていた腐臭が錆びの臭いへと変わっていく。咽喉の奥まで流れ込む血の味に、脳髄まで真っ赤に染まっていくような感覚だ。狂気が、満ちる。
 
 
「や、ヤダぁ、ママー! ままぁー!」
 
 
 一際大きな咆哮の共に、両手で頭を掴まれて無理矢理引き剥がされた。剥がされると同時に、ブチンと歯が肉を噛み千切る気色悪い感触が走った。肉の塊が咥内に残っている。
 
 咄嗟に床へと吐き出すと、それは三センチぐらいの伊藤の首の肉だった。断面からピンク色の肉と灰白っぽい脂肪が層をなしているのが見える。
 
 伊藤は掌で首元を押さえたまま、呆然と健一が吐き出したものを見下ろしている。伊藤の掌の下からは、まるで滝のように血が溢れ出していた。目が覚めるような、鮮烈な真紅だ。
 
 健一は血で濡れそぼった布団へと尻を落としたまま、伊藤を見上げていた。服を通して、伊藤の血が皮膚へじわりと染み込んでくる。生温く、湿った、死の感触。
 
 
「あ、ぁ…? ぼぐの、ぐび…? ぼく、の、にぐ…?」
 
 
 まるで自問自答するような伊藤の独り言。その視線はぐらぐらと所在なく床の上を彷徨っている。
 
 だが、ふと健一の顔の上で視線が止まった。途端、伊藤の顔付きが変わった。真っ白だった顔面が赤黒く膨張し、鬼のように歪んでいく。純然たる殺意が伊藤の顔面を食い破る様子が健一にもありありと判った。
 
 殺される、と思った瞬間、健一は壁を背にして立ち上がろうとした。だが、それよりも伊藤の手が早かった。分厚い掌が健一の細い首を掴む。容赦なく締め付けられる苦痛に、ぐっと咽喉が無様に鳴った。
 
 
「ごろずぅう! ごろじでやるぅううッ!」
 
 
 絶叫が身体へと叩きつけられる。壁へと背中を押しつけられたまま、力任せに首を絞められる。呼吸が出来ず、目の前の光景が一気に霞んでいく。
 
 咽喉からかひゅかひゅと奇妙な呼吸音ばかりが零れる。足だけが逃れようと、ばたばたと宙を暴れ狂う。だが、壁を蹴るばかりで逃れることは出来ない。
 
 血走った伊藤の眼球。その目は既に正気を無くしている。首には、血を垂れ流す穴が開いていた。黒い穴から絵の具を溶かしたような赤い液体がどくどくと溢れ出している。毒々しい真紅のブラックホール。その穴に自分は呑み込まれるんだと思った。赤と黒の、死の世界へと落ちていくのだと。
 
 
「じねっ! じねええぇえぇええッッッ!」
 
 
 まるで悲鳴のような伊藤の声。実際悲鳴なんだろう。殺さなくては殺される。それは伊藤も同じだ。弱肉強食が世の常なら、死ぬのは健一の方なのだろう。
 
 弱いから。子供だから。奪われるのが当然だから。
 
 そう考えた瞬間、脳髄が弾けた。畜生、許せない。許してたまるものか。どうして、奪われる事を当たり前のように受け容れなくてはならない。仕方がないと許容しなくてはならない。俺だって人間だ。畜生のように殺されるために生きてるわけじゃない。
 
 憎悪とも生命力ともつかない衝動が身体を突き動かす。残った力を振り絞って、健一は右膝を深く折り曲げた。その踵を全力で伊藤の股間へと叩き付ける。
 
 思いがけず、固い感触が走った。それで気付く。伊藤は勃起していた。首の肉を噛み千切られ、血を垂れ流しながら、それでも勃起している。それがまるで生命にしがみつく肉体の断末魔のように思えて、堪らなく不気味だった。
 
 足裏の感触に鳥肌を立てた瞬間、ヒギャアと豚のような悲鳴が聞こえた。同時に首を絞め付ける手が緩む。支えを失った身体が背中から床へと落とされる。
 
 途端、右手に弾けるような痛みが走った。後ろ手に縛られた手、その右親指の付け根からゴリッと鈍い音が鳴ったように感じた。折れたのかもしれないと考えたのは一瞬。だが、そのおかげか手錠から右手がするりと抜けた。
 
 痛みに呻く暇もなかった。股間を両手で押さえて悶える伊藤を横目に、健一は床へと素早く手を伸ばした。先ほど見つけた拳銃を左手に掴む。伊藤がハッとしたように顔を上げる。その顔面へと向かって、健一は銃口を真っ直ぐ向けた。
 
 初めて持った拳銃は、吃驚するぐらい軽かった。そういえば、以前ナイフを持った時もそう思ったことを思い出す。
 
 人の命は軽い。一瞬で消える。一瞬で消される。だから、消される前に消す。生き残るために他人の命を奪う側へ回る。
 
 引き金へと指を掛ける。伊藤の驚きの表情。きょとんとして、どこか不思議そうにも見える。それはビックリ箱で驚いた表情と然程大差ないように思えて、口元に微かに笑みが滲んだ。
 
 一呼吸後に乾いた銃声が響いて、飛び散る真紅が視界を埋め尽くした。
 
 

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