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34 拷問 *流血描写有

 
 風船が割れたような音だと思った。空気がぱんぱんに詰まった風船に針を突き刺す。風船は、伊藤の頭だ。針は高速で飛ぶ銃弾だ。
 
 鋭い破裂音と同時に、伊藤の左目の下にパスッと小さな穴が空くのが見えた。一センチにも満たない小さな穴から、まるで霧吹きで吹いたような赤い霧がパッと空中へと散る。気化と液体の間をさまよっているような細かい血液の粒が生温く健一の頬を濡らす。
 
 伊藤は、え、とでも言いたげな不思議そうな表情を浮かべている。自分の頬に穴が空いているだなんて欠片も気付いてはいないようだ。だが、半開きの唇が言葉を発することはなかった。
 
 再度、破裂音。今度は、伊藤の額の右端に穴が空いた。プシュッと水風船から空気が抜けるような音がして、穴から血が断続的に噴き出す。ぴゅっ、ぴゅうーと心臓の脈動にあわせて血が静まったり噴き出したりする様子を見ていると、何だか壊れ掛けた噴水の前で立ち尽くしているようなもの悲しい気分になった。
 
 数度血を噴いたところで、伊藤の目がぐるんと反転する。血走った白目がぐるんと正面へと向けられて、分厚い目蓋がビクビクと戦慄いた。そうして、伊藤は前のめりに倒れた。血に濡れた布団へと顔面から倒れ込むと、そのままビクビクと狂おしく四肢を痙攣させ始める。それは踏み潰されたゴキブリが藻掻いているような無様な動きに見えた。
 
 健一は呆然と伊藤の痙攣を眺めてから、自分の手元を見下ろした。左手には拳銃が握られている。その引き金には人差し指が掛けられていた。だが、引いてはいない。引こうとした瞬間、まるで固定されたかのように引き金が動かなかったのだ。
 
 拳銃をまじまじと眺めて、健一はふと思い出した。そういえば、拳銃には『安全装置』というものが取り付けられているのではなかっただろうか。間違って引き金を引かないように、どこかにロックを解除する装置があるのだ。健一は安全装置を解除していなかった。だから、はなから銃弾が撃てるはずもなかったのだ。
 
 それなら、伊藤を撃った銃弾はどこから来たんだ。
 
 そこまで考えついたところで、ようやく健一は視線をあげた。空け放たれた扉の前に、両手に拳銃を構えた保田が立っていた。保田は酷く驚いたような、唖然とした表情を浮かべて立ち尽くしている。
 
 
「保田さん…」
 
 
 ぼんやりと保田の名前を呼ぶ。保田は一瞬肩をビクリと跳ねさせたと思うと、もつれた足取りでゴミだらけの部屋へと転がり込んで来た。そのまま痙攣する伊藤の身体を跨いで、健一の両肩を掴んだ。
 
 
「大丈夫!? 怪我はしていない!?」
 
 
 まるで尋問するように肩を揺さぶられて問いかけられる。掴まれた肩の痛みに顔を顰めると、途端保田は顔面を蒼白にした。
 
 
「ど、どこか痛いの? 病院に行こう、早く…」
「保田さん」
「大丈夫、僕がついてるから…絶対に、君を助けるから…」
「保田さん、肩が痛い」
 
 
 一人で勝手にパニックになっていく保田を制止するように、健一はわざと冷たい声をあげた。ハッとした保田が手を離す。
 
 健一は片手で肩を撫でさすりながら、ちらりと自身の右手へと視線を落とした。右手親指が掌内側へと奇妙に折れ曲がっている。既に赤く腫れ上がり始めたその部分は、火傷したように熱かった。じわじわと込み上げてくる痛みに思わず舌打ちを零す。
 
 
「その指…」
 
 
 青褪めた保田が呆然と呟く。健一は保田を見ないまま、まるで他人事のように言った。
 
 
「こんなん大したことない」
「大したことないって…それ折れてるんじゃ…」
「折れてたって死にやしない。そんなことより、そいつ見なくていいの?」
 
 
 突き放すように言い放って、まだ微かに痙攣を繰り返す伊藤へと顎をしゃくる。
 
 布団に顔面を埋めたままピクピクと末端を痙攣させる姿は、やはり殺虫剤をかけられたゴキブリの断末魔を連想させた。伊藤の頭部から溢れ出す血のせいで、白かった布団は既に血の海と化している。噎せ返るような濃い血臭に鼻の奥が痺れる。
 
 
「この人、死んじゃう?」
 
 
 言った瞬間、自分の顔が苦く歪むのを感じた。何を解りきった事を。首を噛み切られて、頭を撃たれた人間が死なないわけがないじゃないか。
 
 それでも、足掻くように問いかけてしまうのは、健一に甘ったれた罪悪感があるからだ。死や悪に対する恐れがあるからだ。嗚呼畜生、下らない。
 
 保田は苦々しく歪んだ健一の顔を、じっと見つめている。そうして、微かに唇を震わせた。
 
 
「うん、死ぬよ」
「殺しちゃったんだな」
「僕が、殺したんだ。君じゃなくて、僕が」
「俺は、こいつの首の肉を噛み切ったよ。殺すつもりだった」
「君に殺す意志があったとしても、とどめをさしたのは僕が撃った銃弾だ。だから、君じゃない。君は、誰も殺していない」
 
 
 こういう時に限って、やけに勘の良い奴だ。保田は健一が自分自身に人殺しの烙印を押そうとしている事に気付いたのだろう。そうやって暗い世界へと逃げ込もうとしていることを。
 
 
「俺はこいつを殺したかった。殺そうと思ったってことは、もう人殺しってことじゃないのか?」
「違う、君はただ生きようとしただけだ。生きようとして殺すことと、ただ殺すことは意味が違う」
「意味が違っても、結果は同じだ」
「意味が違うことが一番大事なんだ。とにかく伊藤を殺したのは君じゃない。僕だ」
 
 
 僕が殺した、と執拗に繰り返す保田の言葉を聞きながら、健一はそっと奥歯を噛み締めた。柄にもなく、微かに鼻の奥がツンと痛む感覚があった。
 
 涙を流すことを忘れた目は潤まない。だが、心は軋んだ。保田が健一を懸命に庇おうとしてくれているのが痛いくらい伝わってきたからだ。
 
 誰もが健一を暗闇へと追いやる中、この男だけは健一を明るい世界へと引き戻そうとしてくれる。その熱意が鬱陶しくて、切なくて、そして嬉しかった。
 
 保田の掌が健一の頬をそっと撫でる。血に濡れた頬を掌で優しく拭われて、健一は気恥ずかしいようなむず痒い心地に襲われた。こんな風に誰かに優しく触れられるのは久しぶりのような気がした。
 
 沸き上がってきた羞恥心に俯くと、保田の穏やかな声が聞こえてきた。
 
 
「怖かったね。もう大丈夫だよ」
 
 
 不意に、胸が震えた。嘘のない思いやりの言葉に息が詰まった。そのまま俯いていると、まるで子供のように頭を撫でられた。
違う、事実健一は子供だ。それを思い出させてくれる人が少ないだけで、健一は確かにその瞬間、ただの子供だった。
 
 
「怖くなんかなかった」
 
 
 虚勢の言葉が唇から勝手に漏れ出す。こんな時でも素直になれない自分自身が疎ましかった。
 
 保田は優しげに微笑んだまま、うんうんと小さく頷いている。
 
 
「解ってるよ」
「解ってないよ保田さんは、何にも」
「そうだね。でも、解ってないのを解ってるんだ。きっと僕には、君の強さや弱さをすべて理解することは出来ないんだと思う。だけど、君がまだ子供なことだけは解ってるんだ。だから、君を普通の子供と思うことにした。どこにでもいる、当たり前の、十二歳の子」
「どこにでもいる?」
「そう、どこにでもいる」
 
 
 健一の不思議そうな一言に、保田は深く頷いた。
 
 その瞬間、健一は不意に救われたような心地になった。誰もが健一を奴隷や王様のように扱う中、この目の前の男だけは普通の子供として向かい合ってくれる。当たり前に傷ついて、普通に人の死を怖がる子供として見てくれる。それは健一が心の奥底で最も求めていることだった。
 
 強張っていた身体から、ゆっくりと力が抜けていくのを感じる。込み上げてきた安堵に、長く深く息が零れた。保田が健一の頭をそっと抱き締めて、耳元に囁く。
 
 
「もう大丈夫だ。君は優しい子だから…」
 
 
 それは真実ではなかった。人を殺そうとした子供が優しいはずがない。だが、その掠れた声は健一の心を緩く解いていった。
 
 傍らには、もうピクリとも動かなくなった伊藤の死体がある。恐ろしく、おぞましい光景。だが、その傍で、健一は心臓を柔らかく満たしていく安堵に身を任せていた。
 
 誰かにこうやって心を委ねるのは久しぶりだった。一人で立とう立とうと気を張っている毎日に心底うんざりしていた事に健一は気付いた。それに気付かせてくれたのは、この間抜けでお人好しな刑事だった。
 
 
「健一くんが無事でよかった…本当に…」
 
 
 そう告げられる言葉に、胸が詰まる。嗚呼、この男だけは、健一を普通の、当たり前にどこにでもいる子供の一人として助けようとしてくれている。心からの真心をもって。
 
 そう思った瞬間、折れ曲がった右手の親指が酷く痛んだ。
 
 
「いたい…」
「え、や、やっぱり痛いんだね。早く病院に行こう」
 
 
 ぽつりと呟いた健一の一言に、保田はいとも簡単に狼狽する。その姿を見詰めながら、健一は左手の指先を伸ばして保田の胸元を緩く掴んだ。縋り付くように。
 
 
「いたいよ…」
 
 
 この人の前では、強がらなくてもいい。痛がってもいい。健一は、普通の子供に戻ってもいいんだと思った。当たり前に怖がったり泣いたり、痛がったりする子供でいてもいい。
 
 
「健一くん…」
「保田さん…おれ…」
 
 
 この男にすべてを任せてしまいたかった。すべてを話して、この身を取り巻く悪意から守って貰いたかった。この地獄のような世界から救い出してほしかった。一瞬、健一はそう心から願った。
 
 それなのに、次の言葉は出てこなかった。不意に保田の身体からガックリと力が抜けて、健一の身体へと圧し掛かってくる。何事か、と視線をあげた時には、顔面を布で覆われて何も見えなくなっていた。
 
 
 
***
 
 
 
 今までの人生で四回目。こうやって意識を奪われて、何処かへ連れ去られるのは。
 
 勿論、起き抜けの気分は最低だ。コメカミの辺りがズキズキするし、全裸で転がされたコンクリートは凍えるほどに冷たい。
後ろ手に縛られた腕は関節がギシギシと軋んでいる。折れた右手親指も冷たく凍えて、既に痛みすら感じない。
 
 そうして、身体の奥深くに感じる違和感にはもうおぞましさすら感じた。
 
 
「ヴ、ヴっぅー…!」
 
 
 猿轡を噛まされた唇から呻き声が溢れる。
 
 身を捩ると、体内に収まった異物感がより強まった。身体の内側から気色の悪い機械音が響いている。ぶぶぶぶと羽虫のような音を立てて体内で震える感触に、ぞわりと背筋が丸くなって震える。自分の尻に棒のようなものが埋め込まれているのを感じて、健一は酷く混乱し、同時に最悪な嫌悪感に戦慄いた。
 
 
 何だこれは。気色悪い。気色悪い。気色悪い――
 
 
 上手く回らない頭が同じ言葉を繰り返す。尻の穴に突っ込まれた異物を抜きたくて、むずがる子供のように両膝をばたつかせる。それでも、奥深くまで入った異物は抜ける気配を見せない。
 
 無理矢理広げられた後孔がキチキチと引き攣って痛い。動くと、体内からくちゃりと何か濡れた音まで響いてくる。自分の身体がまた誰かに好き勝手にされている。その事実に、健一は悲鳴をあげそうになった。
 
 棒状の機械が腹の奥を深く抉ってくる。太く固いものに内臓が柔らかく蹂躙される感覚に、健一はコメカミをコンクリートへと擦り付けて呻いた。目の奥がチカチカする。
 
 ぎゅっと固く目蓋を閉じた瞬間、聞き覚えのある声が耳に届いた。
 
 
「け、んいちくん…」
 
 
 咄嗟に閉じていた目蓋を開く。健一から二メートルほど離れた位置に、保田が床に膝をついていた。その両腕は天井から伸びた太い鎖で、頭上高く固定されている。健一のあられもない格好に、保田は痛ましげに目を細めていた。
 
 
「う、ぅ」
 
 
 保田の視線に気付いた瞬間、羞恥心が皮膚を焼いた。裸を見られるだけでなく、尻の穴に変なものを突っ込まれているのまで見られている。それが恥ずかしくて、泣きたいくらい屈辱的だった。
 
 身体を小さく丸めて、無我夢中で首を左右に振る。見るな、見るな、と行動で示そうとする。だが、保田の視線は健一から逸らされない。真っ直ぐ向けられる視線に耐え切れず、健一の方が保田から先に視線を逸らした。
 
 健一は、そこでようやく自分が置かれた部屋の全景を目にした。コンクリートでできた部屋には窓一つなく、その壁や床には茶色っぽい染みが所々に浮かび上がっていた。一目見て気付く。それは血の跡だ。それも一人分ではない。幾人もの血が重なり合い、その血痕には微細なグラデーションが掛かっていた。
 
 その芸術的とも思える色彩に、健一は背筋を凍らせた。まるでこの部屋から何人もの人間の呻き声や恨み言が聞こえてくるようだ。
そうして、壁には使い込まれたらしき工具が飾られていた。電気鋸やバール、太いトンカチに尖った錐、巨大なハンダゴテ…。
 
 健一は間違ってもここが日曜大工の作業場だなんて思わなかった。間違いなく、ここは――
 
 
「嗚呼、やっと起きたんだね」
 
 
 背後から一番聞きたくなかった声が聞こえた。肩越しにゆっくりと視線を向ける。
 
 そこに立っていたのは健一の殺意を一身に受ける男だ。口元に淡く微笑みを浮かべた吾妻が【拷問部屋】にいた。
 
 

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