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37 きみは

 
 狂乱の宴が終わる。熱で満たされていた身体がゆっくりと覚めていき、感情や理性が脳味噌の中へとそろりそろりと足音を潜めながら戻ってくる。
 
 現実を思い出していくにつれて、健一は自分の肌から血の気が失せていくのを感じた。首の後ろが氷でも押し付けられたかのように冷たい。
 
 コンクリートにつけていた額をゆっくりと上げる。途端、擦り切れた額からぽたぽたと血が滴った。目蓋を伝い、鼻筋を通って咥内まで潜り込んでくる血を健一は半ば惰性のまま受け容れた。胃液の味が染みついた咥内に、錆びた味が混ざる。
 
 血で赤く滲む視界の中に、泣きじゃくる保田の姿があった。鎖で両腕を高く縛られたまま、保田は眼球が溶けそうなほど大粒の涙を零している。
 
 
「や…すださん…」
 
 
 喘ぎすぎて咽喉がガラガラに嗄れていた。声を出すと、咽喉が裂けるように痛む。
 
 保田は俯いたまま、嗚咽を漏らしている。
 
 
「ほら、やっぱり僕と同じだ」
 
 
 吾妻の声が頭上から聞こえる。嘲笑を含んだ、ねっとりと鼓膜に貼り付くような気色悪い声だった。
 
 
「貴方も勃ってるじゃないか」
 
 
 保田の泣き声が一際大きくなる。胸が張り裂けそうなほど悲痛と後悔に満ちた泣き声だった。
 
 背後から吾妻が健一の下顎を掴んで、無理矢理視線を固定する。膨らんだ保田の股間を健一に見せつけるような行為に心底吐き気を覚える。
 
 くすくすと密めるような吾妻の笑い声が耳朶を擽る。
 
 
「健一を助けたいとぬかしながら、犯されてる姿を見て興奮したんですか? 貴方も本当は混ざりたかったんじゃないですか? 健一の中に突っ込みたかったですか? あぁ、まったくとんだ刑事さんですね」
 
 
 つらつらと長ったらしい嫌味を吐き出して、吾妻が高らかな笑い声を漏らす。脳味噌の神経をチクチクと針で突き刺すような執拗ないたぶり方だった。
 
 吾妻が笑い声を止めて、口角をゆっくりと歪めていく。目を覆いたくなるぐらい、醜悪な面をしている。
 
 
「この変態野郎」
 
 
 愉悦に満ちた吾妻の罵声に、保田はもう何も答えない。首を左右に振りもしない。全身の水分をすべて使い切るように、ぽたぽたと止めどもなく涙を零すだけだ。
 
 開かれた保田の目には光がない。生きたまま死んでいるようなその絶望の眼差しに、寒気が走った。
 
 
「は…なせ…」
 
 
 下顎を掴む吾妻の手を振り払って、健一は身を捩った。背中で固定されていた両腕は、既に自由になっているようだった。
コンクリートに左手を付いて、上半身をゆっくりと起こしていく。痛みと寒さで、身体が小刻みに震えていた。
 
 
「あぁ、健一、無理しちゃ駄目だよ」
「だ、まれッ…!」
 
 
 白々しいことを言いやがる。こんな風に痛め付けたのは何処のどいつだ。奥歯を噛み締めて吐き捨てながら、健一は吾妻を睨み付けた。
 
 
「や、すださんを、自由にしろよ…」
 
 
 健一の要求に、吾妻が目を丸くする。だが、その仕草もどこか演技じみていて不快だった。
 
 
「えぇ? まさか、健一はあいつに同情してるの? 君が犯されてるのを見て、勃起するような奴に?」
「五月蠅い! 黙って、解放しろクソがッ!」
 
 
 嗄れた咽喉で喚き散らす。叫んだ瞬間、心臓が刺すように痛んだ。痛みを堪えるように、震える左手で胸を押さえる。
 
 吾妻は空々しく肩を竦めた後に、ポケットから小さな鍵を取り出した。それを健一の目の前に置くと、にっこりと意味深げに微笑む。
 
 
「自由にしない方がいいと思うけどなぁ」
 
 
 諭すような口調が腹立たしかった。健一は憎悪の眼差しで、吾妻を睨み据えた。この男の言葉は何一つとして信用できない。
 
 置かれた鍵を鷲掴んで、健一は覚束ない足取りで立ち上がった。途端、全身を痛苦が満たした。ただ立っているだけなのに膝がガクガクと前後に震える。
 
 コンクリートで擦り卸された額と膝頭からは真っ赤な血が滲んでいた。折れた右親指はあらぬ方向へ折れ曲がっている。そうして、痺れて感覚のない後孔からはどろりと粘着いた液体が流れ出し、内股を伝っていく。
 
 満身創痍というのは、こういう事なのだろうか、と健一は他人事のように考えた。他人事のように思わないと、もう一歩も動けなくなりそうだった。
 
 生まれたての子鹿のような足取りで保田に近付いていく。保田までの距離が果てしなく長く感じて、心が何度もめげそうになった。ようやく辿り着いた頃には、冷汗が額に滲んでいた。
 
 鎖を掴んだところで、がっくりと項垂れていた保田が顔をあげる。涙にぐちゃぐちゃに濡れた眼差しが健一を力なく見つめていた。
 
 
「け、…いちくん…」
「だ、いじょうぶ…大丈夫、保田さん…」
「ご、めん…ごめんなさい…」
 
 
 保田は、まるで子供のように謝罪を繰り返した。ぽろぽろと涙を零しながら、自らの粗相をひたすら謝る。その姿が切なくて、不意に息が出来ないくらい胸が苦しくなった。
 
 健一は、保田を恨むことが出来なかった。裏切られたという思いよりも、泣きじゃくる男に対する哀れみの方がずっと大きかった。
保田が六年前に自分の園児を殺していようが関係ない。健一にどんな想いを抱いていようが構わない。保田は、健一に優しかった。この残酷な世界で、ただ一人だけ健一を助けようとしてくれた。それがどれだけ健一の心を救ってくれたことか。
 
 
「おれ、…怒ってないよ…」
 
 
 それでも、保田の涙は止まらない。滂沱の如く、溢れ続ける。
 
 鎖を外しても、保田はコンクリートに膝をついたまま動こうとしなかった。ただ、壊れた人形のように謝罪を繰り返すばかりだ。
 
 
「…ごめんなさい…ごめん、なさい…ゆるして……」
「…だいじょうぶ、泣かなくて、…いいから…」
 
 
 保田が健一をそっと見つめる。その唇が微かに泣き笑いの形へと変わっていく。弱々しく、今にも消えてしまいそうな脆い微笑みだった。その笑顔のまま保田がぽつりと呟く。
 
 
「きみは…」
 
 

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