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38 罪悪

 
 自分が『そう』だと自覚したのは、児童福祉科を卒業した後のことだった。
 
 昔から子供が好きだった。だが、その好意は、純粋に小さなものを愛でる気持ちと同じだと思っていた。
 
 大学在学中には彼女がいたことだってある。だが、付き合った何人もの女の子、その誰一人として心の底から好きになることは出来なかった。
 
 自分は他人よりも愛情が薄い人間なのかもしれないと悩むこともあった。それでも、自分は他人に優しくあろうとしている人間であるという思いがあったからこそ、保田は自分自身に失望したりすることはなかったのだ。
 
 それなのに、赴任先の幼稚園であの子に出会った。
 
 上野涼太君。寂しがり屋で泣き虫で、とびきり笑顔が可愛い男の子。キラキラと輝く瞳に、伸びやかな手足、保田の視線を独占しようと「せんせぇせんせぇ」と舌ったらずに呼んでくる甘い声。
 
 涼太君は、保田に家族のような親密さをもって懐いてくれた。保田も他の園児と同じように接しているつもりでいながらも、自然と涼太君に構う事が多くなっていた。
 
 離婚した両親が自分の親権で争うことに心を痛めて、泣きながら縋り付いてくる小さな身体に保田はすぐに夢中になった。
 
 涼太君と一緒にいる間は、昔の彼女には感じたこともない深い愛情を感じることが出来た。この子がいるだけで、他には何も要らないとすら思えた。離したくなかった。帰したくなかった。ずっと一緒にいたかった。それが抱き締めてキスをしたいと思うようになるまで時間はかからなかった。
 
 それが異常だと気付いた時には遅かった。保田は深い恋に落ちていた。決して好きになってはいけない相手を愛したことに保田は酷く絶望した。何度もこの恋を忘れようとした。ただの園児の一人だと思おうとした。わざと距離を置いて、何度も涼太君を泣かせた。それでも、駄目だった。恋は、深く深く保田を蝕んでいた。
 
 それでも、保田はその感情を理性をもって必死に押さえていた。決して表には出さないと心に誓っていた。それを出した瞬間に、すべてが終わる。保田は社会から弾かれ、異常者の烙印を押される。それだけではなく、あの愛しい子供に懐いていた先生に裏切られたという傷を負わせることになるのだ。だからこそ、絶対に保田はそれを隠し通さなくてはならなかった。
 
 それなのに、運命は残酷だった。
 
 その日は、クリスマスイヴだった。その日の涼太君は、普段以上にはしゃいでいた。何度も保田のところに来ては「きょうはケーキの日っ」と自慢するように言った。嬉しそうな涼太君を見て、保田の心まで温かくなるようだった。
 
 それなのに、その夕方、いつも涼太君を迎えにくるはずの母親が来なかった。
 
 
「たぶん、またおとおさんとケンカしてるんだ」
 
 
 クリスマスイヴですら、離婚した両親は親権をめぐって裁判所で争っているらしかった。そう呟いて、泣き出しそうに笑った涼太君の表情が悲しかった。だから、思わず言ってしまったのだ。
 
 
「僕の家にくる?」
 
 
 保田の提案を聞いた涼太君が嬉しそうに笑う。保田の足にしがみついてくる柔らかい体温に、保田は顔をくしゃくしゃに歪めた。
嬉しいのか悲しいのか、もう自分の感情が判らなかった。それが間違っているのは解っていた。だけど、石は坂道を転がり出していた。一番底に落ちるまで、もう止まらない。
 
 涼太君をアパートに連れて帰ってから数時間は良かった。二人で喋って、他愛もないことで笑って、保田にとっては夢のように幸せな時間を過ごした。このまま時間が止まって、涼太君と二人きりの世界に取り残されてしまいたかった。だが、そんな願いが許されるはずもなかった。
 
 夜の十二時を過ぎた頃に、涼太君が帰りたいと頻りに訴え始めた。
 
 
「おかぁさん、すっごくしんぱいしてると思う」
 
 
 帰りたいと言う涼太君を、保田は必死になって宥めた。
 
 一日ぐらい大丈夫、明日の朝帰ればいい、お母さんに電話するからね。
 
 どんな言葉も親への恋しさの前には無意味だった。とうとう泣き出した涼太君を目の前に、保田は途方に暮れた。
 
 こうなるのは初めから解り切ったことだった。どれだけ懐かれても、保田は涼太君の家族ではない。勿論、恋人になど一生なれるはずもなかった。いつかあんな先生もいたな、とぼんやり思い出される程度の存在に成り果てるだけなのだ。それが解った瞬間、保田はもう打ちひしがれるしかなかった。
 
 途端、涙が溢れた。自分よりも十歳以上も小さな子供の前で保田は声をあげて泣いた。悲しくて切なくて、涙が止まらなかった。
 
 
「せんせぇ、泣かないで。ぼくもう帰りたいって、いわないから」
 
 
 年下の子供に、頭を撫でられて慰められる。それが惨めで堪らなかった。
 
 何処にも行かないで欲しかった。誰の目にも触れないように閉じこめてしまいたかった。
 
 だから、保田は小さな子にこう懇願したのだ。
 
「ここに入って、僕とずっと一緒に暮らして」
 
 
 そこは洋服箪笥にしている押入れだった。子供一人が立って入れるぐらいの小さな暗闇に、涼太君は文句も言わずに入ってくれた。
扉を閉めた時、保田は自分でも可笑しいと思うほどの深い安堵を覚えた。これで一生一緒でいられるんだと馬鹿みたいに思い込んだ。
 
 だが、その思い込みは一瞬だった。すぐにこんなのは馬鹿げていると自分自身を嘲った。こんな所に一生閉じ込めておけるわけがない。どうせ直ぐにバレてしまう。
 
 涼太君だって数時間もすれば、また帰りたいと訴え始めるだろう。その度に帰らないでと泣いて懇願するのか。そんなのが何度も通用するはずがない。
 
 諦念が全身を遣る瀬なく満たしていく。押入れの前に座り込んだまま、保田は膝を抱えて泣いた。そうして、決心した。
 
 涼太君を、家に帰そう。今ならまだ間に合う。誰も傷付けることもなく、元の生活に戻ることができる。ただの園児と保父に戻って、一生この気持ちを隠して生きよう。それが一番正しい選択で、保田がするべき事だった。
 
 ただ、帰す前に涼太君にケーキを食べさせてあげたかった。涼太君が昼に『ケーキの日』と言ったことを覚えていたからだ。せめて、最後に一緒にケーキを食べて、この気持ちの終着をつけたかった。コートを羽織って、保田は近所のコンビニへと向かった。真っ赤に腫れた目を店員に不審がられながら、イチゴのショートケーキを買ってアパートに帰った。
 
 そうして、押入れの扉を開いた瞬間、保田のすべての時間が止まった。視線の先に、何故か子供の形をした人形が見えた。極限まで見開かれた眼球と、泡を噴き出した青紫色の唇がまるで蝋人形のように思えた。その細い首には、保田のネクタイが巻き付いていた。触れてもピクリとも動かない。笑わない。泣かない。せんせぇと呼んでくれない。
 
 押入れの中で、涼太君が死んでいた。
 
 その直後の事は、あまり覚えていない。ただ、畳に額を擦り付けて、どうして、どうして、と泣き咽んでいる内に夜が空けていた。
なぜ。どうして。そんな言葉を幾ら繰り返したところで答えは出てこなかった。偶然ネクタイが首に引っかかった。頭のおかしくなった保田が記憶がないうちに殺してしまった。怯えた涼太君が錯乱のあまり自殺した。だが、どんな仮説も意味をなさなかった。結論はただ一つだ。
 
 涼太君は死んだ。保田が家に連れて帰ったせいで死んだ。
 
 絶望が全身に満ちていく。
 
 警察に自首することも考えた。だが、どう説明すればいい。どうして園児を連れて帰ったのか、どうして押入れの中に閉じ込めたのか、どうして園児が死んだのか、何一つとして明瞭に説明できることなどなかった。もうどうすることも出来ず、保田はただ愛しい子を失った悲しみに泣きじゃくるばかりだった。
 
 明け方、玄関が叩かれる音が聞こえた。
 
 開け放った扉の前には、小太りな男が立っていた。その男は、隣人の伊藤だと名乗った。
 
 そうして、男はニヤッと薄気味悪い笑みを浮かべてこう言ったのだ。
 
 
「もしかして、あの子殺しちゃったんですかぁ?」
 
 
 
 
 
 
 その日から、伊藤に脅される日々が始まった。
 
 ろくに考える時間もなく、言われるままに涼太君の死体を山へと埋めた。土に埋まっていく小さな身体を見て、悲しくて保田はまた泣いた。だが、泣く権利さえもう自分にはないんだと思った。自分は子供を殺した畜生なのだから。
 
 保育園を辞めて、警察に入ったのも伊藤の命令だった。伊藤は拳銃の密売をしているようで、警察内部の情報が咽喉から手が出るほど欲しかったのだ。それに逆らうことすら思い付かなかった。
 
 罪悪感と後悔に溺れ、考える暇もなく脅されるだけの毎日が過ぎていく。悪夢のような記憶を隠すことだけが保田の人生のすべてへと変わって行く。
 
 気付けば六年の歳月が経っていた。
 
 そうして、保田はあの子に出会ったのだ。泉健一という、もう一人の可哀想な少年に。
 
 

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