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39 贖罪 *流血描写有

 
 保田はひたすら選択を間違え続けた。
 
 許されない恋慕を諦め切れなかった。その結果、小さな子供を死なせた。そうして、悪党の称号が怖くて警察に自首すら出来なかった。伊藤の脅しに従い続けた。
 
 すべて保田が弱かったからだ。自分の弱さを受け容れることが出来なかったからだ。だから、この結果は当然なのだ。こうやって絶望に打ち震え、自分の惨めさに涙するのは、いつか保田に訪れるべき未来だった。そこに哀れみや同情の余地はない。これは当然の裁きだ。
 
 それなのに――
 
 
「…だいじょうぶ、泣かなくて、…いいから…」
 
 
 それなのに、君はまだ僕のことを気遣ってくれるのか。そんなにも傷だらけで、心の痛みに耐えながら、こんな裏切り者を許そうとしてくれるのか。その慈悲深さが死んだあの子を思い出させるようで胸が詰まった。
 
 
「きみは…」
 
 
 小さく掠れた声で呟く。笑えるくらい涙声で、思わず唇が笑みの形に震えた。自分の無様な泣き笑いに、もう自嘲すら出てこない。
少年は、泣きじゃくる保田を心配そうに見詰めている。少年の方がよっぽど苦しく辛いだろうに。
 
 その眼差しを見詰め返して、保田はそっと囁いた。
 
 
「…きみは、やさしい…」
 
 
 少年が不思議そうに目を瞬かせる。何故こんな事を保田が言い出したのか解らないと言いたげな表情だ。
 
 そっと手を自分の右足へと向かって伸ばす。この部屋で目覚めた時は、どうして『これ』が残されているのか不思議だった。万が一の時の為に隠し持っていたとはいえ、意識を奪っている間に身体検査ぐらいしただろうに、どうして奪われていないのだろうと。
だが、ようやく理由が解った。これは保田に対する【最後の審判】だったのだ。
 
 
「ぼくは…」
 
 
 吐き出す息が震える。
 
 善い人間でありたかった。子供に欲情するような畜生でいたくなかった。君を救い出して、優しい人間に戻りたかった。……君に幸せになって欲しかった。
 
 
 でも――
 
 
 保田は笑った。少年の目が驚愕に見開かれる。半開きになった唇から制止の叫びが聞こえるようだった。
 
 右足に隠していた『拳銃』を掴み取る。安全装置を外して、自身のこめかみに銃口を押しつけるまで数秒も掛からなかった。
 
 
「――ぼくは、だめだった」
 
 
 惨めな涙が頬を伝って落ちていく。
 
 甲高い銃声と共に、ぐしゃりと何かが潰れる音が頭蓋骨の内側で聞こえた。視界から色が一瞬で失せる。
 
 寸断される意識の中、せんせぇと甘えるあの子の声が聞こえた気がした。
 
 
 
 
 
 
「――ぼくは、だめだった」
 
 
 その言葉の意味を聞き返すことも出来なかった。
 
 パンッという乾いた音の後、赤い霧がパッと散ったと思ったら、保田の身体が巨大なハンマーで薙ぎ払われたかのようにコンクリートの上へと勢いよく倒れていた。
 
 保田の頭から流れ出す血が複雑なグラデーションを描くコンクリートに新たな彩りを加えて行く。
 
 数秒も待たずに、血は健一の足元まで広がった。血の温度が冷えた爪先にぬくもりを与える。足を浸していく血の流れを呆然と見詰めたまま、健一は微動だにしなかった。
 
 何が起こったのか解らなかった。目の前の現実を把握するだけの思考力は失われて、健一はただその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
 
 
「あーあ、だから自由にしない方がいいって言ったのに」
 
 
 背後から、吾妻の笑い声が聞こえてくる。目の前の惨状を心底愉しんでいる声音に、健一は反応を返さなかった。心が何かを感じることを忘れていた。
 
 薄く開かれた保田の瞳を凝視する。光を無くした保田の瞳から、惰性のように涙が零れ落ちる。まるで、死んでも泣き続けるかのように。
 
 吾妻がゆるりと健一の肩を掴んで、その耳元に猫撫で声で囁く。
 
 
「知ってる? 人間はこめかみを撃っても中々死ねないんだよ。こめかみを撃って、三日間生きてた人間だっている。ねぇ、健一、保田さんも今直ぐ病院に連れて行けば助かるかもしれないよ。どうする? 保田さんを生かしてやる?」
 
 
 健一は答えなかった。目を見開いたまま、足元に底なし沼のように広がっていく保田の血をじっと見詰め続けた。
 
 

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