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42 いつか

 
 渋い顔をした男が運転席に座っている。
 
 男は何も言わない。だが、醸し出す気配が何よりも雄弁に男の感情を語っている。
 
 
「怒っているのか、横田」
 
 
 後部座席に背を預けたまま、気怠く問い掛ける。横田は一瞬唇をへの字に曲げた後、首を小さく左右に揺らした。
 
 
「いいえ。ただ、自分に失望しています」
「失望? 何故だ?」
「健一さんを傷付けました」
 
 
 ぽつりと呟いたきり黙り込んでしまう。口数が少ないのは矢張り怒っている証拠ではないのか。寡黙そうな見目をしておきながら、普段はなかなかに饒舌な男がこうして黙り込んでいるのは妙に落ち着かない。まるで喧嘩した友人と一緒にいるような居心地の悪さを感じる。
 
 
「そうなるように仕向けたのは僕だ」
「でも、傷付けたのは自分です」
 
 
 頑なな返事に、もうどうにでもしろという気分になって来る。
 
 横田は元からこういう奴だ。すべての責任を一心に背負うのを趣味にしているようなマゾヒスト。吾妻とは違った意味で救いようがない。
 
 
「嗚呼、もう勝手に思ってればいいさ。だが、後悔したところで健一は許してくれないよ。あの子はお前よりずっと頑固だ」
「健一さんは優しいです」
「死人と同じような事を言う」
 
 
 思わず咽喉の奥から笑い声が零れた。
 
 健一を優しいと言いながら自分の頭を撃ち抜いた男を思い出す。
 
 嗤う吾妻に反して、横田は真剣な表情をしている。
 
 ふと胸ポケットに入れていた携帯電話が震え出した。耳に押し当てて通話ボタンを押した途端、鋭く切り込むような女の早口が聞こえた。
 
 
『もしもし、真澄くん?』
 
 
 即座に頬を緩めて、柔らかな声を返す。
 
 
「あぁ、椿さん、どうかしましたか?」
『どうしたもこうしたも、こっちはガサ入れの後始末に大変よ』
 
 
 電話越しに女の露骨な溜息が聞こえてくる。だが、言葉ほどに女が疲労していない事は予測できる。要領の良い女は、恙無く後始末をこなしているのだろう。
 
 
「すいません。椿さんには無理をお願いしました」
『まぁ、いいけど。どうせあそこは金払いの悪い客ばかりになってきたから、そろそろ潰すつもりだったし。で、新しい場所は用意してくれてるんでしょう?』 
「勿論です。明日からでも始められますよ」
『ディーラーは?』
「用意しています」
『そういえば、有り難うね。パクのこと取り返してくれたんだって?』
 
 
 出された名前に、一瞬口角がピクリと跳ねる。
 
 健一の願いで、強制送還されるところを大金をはたいて警察から取り戻したディーラー。パクヒョル。故郷に残してきた弟とでも重ねているのか、健一に対して親身になっていたというのは聞いている。
 
 
「はい、健一が彼のことを随分と気に掛けていたようでしたので」
『真澄くん、やめてよ』
「何がですか?」
『パクは殺したりしないでよね』
 
 
 勘のいい女は、あらかじめ吾妻に釘を刺しておくことを忘れない。直球な言葉に、吾妻は少しだけ苦笑いを漏らした。
 
 
「そんな事はしませんよ。健一に泣かれてしまう」
 
 
 自分で言っていて胡散臭い台詞だと思った。
 
 嫉妬から何人もの人間を殺した男が何を言っている。実の妹や無実の刑事ですらも殺したくせに。
 
 それに、健一は泣かない。きっとあの子はもう涙を流せなくなっている。
 
 真澄の真意を推し量るように、電話の向こうで女は暫く黙り込んでいた。だが、不意に堰を切ったように話し始める。
 
 
『ねぇ、単刀直入に言うよ。あの子供、うちに預ける気はない?』
「闘西会に? 何故ですか?」
『真澄くんから十二歳の子供に博打をさせてくれって言われた時は正直舐めたこと言いやがってって思ったよ。ガキに博打なんか打てるはずもないって。実際、あの子は確かに賭け方も駆け引きも滅茶苦茶で阿呆丸出しだったけど』
「けど?」
『鍛えれば強くなる。かなり』
 
 
 椿の言葉には遊びがなかった。冗談を欠片も臭わせない真剣な声音に、吾妻は自分の頬が歪に引き攣るのを感じた。
一呼吸置いた後、椿が再び喋り始める。
 
 
『私だって腐っても博徒だよ。強くなる奴ぐらい見分けられる。あの子は度胸もあるし、ここぞという時の張り方も解ってる。それに、最後の最後で命を捨てられる奴が一番強いからね』
「椿さんは随分と健一に目を掛けてくれてるんですね」
『うちの子達のいい刺激になると思うんだ。同い年であれぐらい腹の据わった相手を見れば、もう少し気も引き締まるだろうし』
 
 
 脳裏の片隅で、椿の三人の子供達を思い浮かべる。いつも微笑んでいる少女にいつも無表情な少年、いつも喚いている子供。父の遺言状が読まれた時の集会で顔を見たきりだった。確かその内の一人は、健一と同い年だったはずだ。
 
 
『時岡さんもあの子のこと気に入ってるみたいだしさ。昨日ツトメに出した若いのが出所したら、あの子と盃交わしてやりたいって言ってたよ』
「嗚呼、野火のことですか?」
『そう、宗教家の野火』
 
 
 揶揄するように椿が笑い声混じりに呟く。宗教家の野火のことは吾妻も知っている。
 
 野火は、吾妻組傘下時岡組の幹部候補生だ。吾妻が一構成員でしかない野火の名前を知っていたのは、野火のその特殊な性質によるところが大きい。
 
 野火の敵対者や裏切り者に対する拷問や殺害は、まるで工場を流れるベルトコンベア作業のようだ。機械的に鼻を削ぎ、性器を擦り潰し、目玉を抉っていく。行われるのは徹底的なまでの人体破壊だ。だが、殺し終わった後には必ず死者への祈りを捧げるのだ。腹を裂かれて内臓が飛び出した死体を前に、両手を組み合わせ膝を付き、長々とその魂が救われんことを祈る。それは静粛を通り越して、酷く不気味な光景だった。
 
 そうして、ついたあだ名が【宗教家の野火】だ。八十年代の漫画じゃあるまいし、他人に通り名をつけるというのは恥ずかしいとは誰も思わないのか。ヤクザというのは時折馬鹿馬鹿しいほどに思考回路が古い。
 
 
『でも、ツトメに出したってことは、時岡さんも本気で次の跡目は野火で考えてるみたいだねえ。あんな真性の気狂いに跡目だなんて、時岡さんも何考えてるか解んないよ』
「時岡さんは昔から酔狂なことが好きでしたから」
 
 
 何度か言葉を交わしたことのある男を思い出す。兄である真樹夫は口々に喰えない男だと時岡を評していたが、吾妻もその点においては同意だ。
 
 今回も何処から嗅ぎ付けたのか、自分から健一のギャンブルの相手役を務めたいと名乗りをあげてきた。いつも柔和な笑みを絶やさない腹の読めない男。役には立つ。だが、信用はならない。それが吾妻の時岡に対する印象だ。おそらく今後もこの印象が変わることはないだろう。
 
 
「盃のことは考えておきます。健一の気持ち次第ですし、どうせ野火も後数年は出てこないでしょうから」
『うちに預けるのはどう?』
「健一と離れ離れになるのは僕が嫌です。その代わりに、パクを寄越して下さい」
『パクを? どうしてさ?』
「健一の家庭教師として雇います。良ければお子さん達も一緒に来て下さって結構です」
『博打の家庭教師?』
 
 
 椿が大きな笑い声をあげる。女性らしくない豪快な笑い方だった。
 
 
『いいねぇ、英才教育って奴?』
「そんなところです」
 
 
 わざと素っ気なく答える。笑い声が止まってから、椿がのんびりと呟く。
 
 
『それじゃあ、そろそろ子供が帰ってくるから、その話についてはまた相談させて貰うよ。時間取って悪かったね』
「いいえ、とんでもないです。久しぶりに椿さんとお話できて嬉しかったですよ」
 
 
 吾妻の明らかな社交辞令に、電話の向こうで椿がハッと短い笑い声をあげる。
 
 そうして、一瞬の沈黙の後、椿は困ったような静かな声でぽつりと呟いた。
 
 
『ねぇ、真澄くんもいろいろ大変なのは解るけどさ、うちの旦那あんまり苛めないでやってよ。あの人、図体でかいだけで実は泣き虫なんだから』
「解ってますよ、義姉さん」
 
 
 親しみを込めて囁き掛ける。吾妻の兄である将真の妻へと向かって。勿論それは偽りの親愛だけれども。
 
 関西の博徒である闘西会の一人娘で、関東を仕切る吾妻組との和合のために兄のところへ嫁いできた女。今は三人の甥っ子達の母親。義理の姉。そう解っていても他人行儀が抜けない。
 
 言い訳するように口早に言葉を続ける。
 
 
「家族を、虐めたりするわけないじゃないですか」
『うん、そうだね。信じてるよ』
 
 
 信じてる、という言葉は意味を伴わずに鼓膜を通り抜けていく。信じるだなんて思ってもいないくせに口八丁言いやがって、そんな卑屈な思考が頭を過る。自分が信用に値する人間ではないという事は、自分が一番よく知っている。
 
 また何か言われない内に、短い挨拶を返して素早く電話を切る。座席に携帯電話を放り出して、短く溜息をつく。
 
 疲れた。疲れる。人と言葉を交わしたりするのは苦手だ。いつだって根底では相手の機嫌を窺っている自分を意識せざるを得ないから、話し終わった後は酷い自己嫌悪に襲われる。
 
 座席に背を埋めて、ぼんやりと考える。
 
 野火と健一との盃。パクヒョルによる家庭教師。中学生になる健一。そのどれもが霧のように曖昧に脳内を漂うばかりで現実味がなかった。
 
 いつか健一が高校生になり、大学生を卒業し、吾妻組の跡を継いで――その時に自分はどうなっているのか。生きているのか。それとも既に健一の手にかかっているのか。この無意味でやるせない人生に、いつか幸福を感じる瞬間は訪れるのだろうか。たった一度だけでも、愛しいあの子に想われることはあるのだろうか…。
 
 頭では諦めている筈なのに、まだ未練がましく願ってしまう。サンタクロースを信じる三歳児のように吾妻は願わずにはいられない。
 
 
――この歪な心を受け容れて、どうか僕をキャッチして欲しい――
 
 
 惨めで無様な祈りを、吾妻は延々と持て余している。一生誰にもキャッチされる事なく、地面へと叩きつけられるだけの心を後生大事に抱き締めて。
 
 眼球の奥がぢんと痺れる感覚があった。涙なんてろくに流れもしないのに、ぢくぢくと膿むような痛みだけはいつまで経っても消えないのだ。
 
 人差し指と親指で強めに目頭を揉み込む。青い痛みが電流のように目蓋の裏を走るのが見えた。健一の首筋に浮かぶ静脈の色だと思った。
 
 健一が好きだ。心の底から愛している。あの子以上に狂おしく愛おしい相手などこの世にいやしない。大事にしたい。優しくしたい。たくさん笑って欲しい。幸せだと思って欲しい。
 
 それなのに、どうすればそれが叶うのかも解らない。両腕は滅茶苦茶に動いて、健一を殴り付ける。唇はあの子を傷付ける言葉ばかりを吐き出す。離れて欲しくない一心で、あの子の居場所を奪い続ける。想いに反して、吾妻の身体は真逆に動き続ける。
 
 僕は、正常に人を愛することができない。人の愛し方を知らないのだから。
 
 行き着く結論はいつもそこだった。その度に吾妻は、自分が惨めで惨めで堪らなくなる。どうして、誰もが出来ていることを自分は出来ないのか。この世の中には愛が溢れているのに、その一欠片でさえも吾妻の手には入らない。
 
 吐き出す息が無意識に震えた。暖房は利いているはずなのに、指先が氷のように冷たい。
 
 泣きたい。でも、泣けない。泣く権利さえない。なら、どうすればいい。死ぬまで苦しめばいいのか、自殺した保田のように。嗚呼、その通りだ。あれだけたくさんの他人を貶めたのだから地獄の苦しみを与えられ続けるのが当然だ。だけど、苦しむだけの人生なんて余りにも辛すぎる。
 
 
「横田」
 
 
 唇から掠れた声が零れた。その情けない声音に、堪らない羞恥を感じた。
 
 運転席に座る従順な男は、はい、と短い返事を返してくる。
 
 
「僕は、健一を逃がした方がいいのか?」
 
 
 酷く怯えた声音だった。口に出した瞬間、心が音を立てて引き裂かれるのを感じた。
 
 
――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、離れるなんて絶対に嫌だ。何で、どうして、こんなに好きなのに手放さなくちゃいけない。あんなに好きなのに、大事なのに、あの子のためなら死んだっていいのに…
 
 
 本当は解っている。どうするのが一番健一のためになるのか。あの子が幸せになるためには、吾妻がただその手を離すだけでいい。諦めて、あの子が普通の世界に戻るのを見送ってあげるのが最善の道なんだと、ずっとずっと、解っていた。きっと最初から。それでも、どうしても――
 
 吾妻へと視線を向けることもなく、横田がぽつりと問い掛ける。
 
 
「それが出来るんですか?」
 
 
 問い掛けに、思わず頭を抱えた。後部座席に身を埋めたまま、まるで小さな子供のように身体を縮こまらせる。横田の問い掛けの答えを一番解っているのは吾妻自身だ。
 
 出来ない。どうしても出来ない。逃がせない。離せない。どうしようもなく愛しているから、死んでもあの子を解放してあげられない。
 
 息苦しさにも似た懊悩が全身を蝕む。後悔と懺悔と愛憎が絡まり合ってマーブル状になった泥沼へと吾妻は沈んでいく。愛しいあの子を道連れにして。
 
 滑らかに進んでいた車が不意に停車する。路肩に突然止まった事を訝しく思って顔をあげる。
視線の先で、横田がまるで涙を堪えるかのように片手で顔を覆っていた。
 
 
「横田、どうした」
「すいません」
「僕の代わりに泣いてるつもりか?」
「自分では貴方の代わりにはなれません」
「なら、どうして泣く」
「解りません。胸が苦しいです」
 
 
 奇妙な男だと思った。頑固なくせに饒舌で、時々涙脆い。だが、今では吾妻のために泣くのはこの男ぐらいしかいないのかもしれない。
 
 そう思うと、不意に切なくなった。胸が締め付けられて、呼吸が震えた。後部座席から身を乗り出して、運転席の男の広い背をゆっくりと撫でる。
 
 
「泣くな、横田」
 
 
 小さく囁きかけると、図体のでかい男はまるで子供のように鼻を啜った。横田は、声を殺して泣いていた。その姿に、どうしてだか酷く慰められた。
 
 涙声のまま横田が呟く。
 
 
「…健一さんに、優しくして下さい」
「優しく?」
「そうすれば、いつか伝わります。いつか…」
 
 
 祈るように繰り返される言葉に、胸の内で『いつか』と小さく呟く。
 
 僕が死ぬ前にその『いつか』が訪れればいい。この愛情の一欠片でもあの子に伝わったのなら、もう他に思い残すことなんかない。
 
 そっと目を閉じて、健一の笑顔を思い浮かべようとした。嬉しそうに楽しそうに、はしゃいだ声をあげて笑う健一の姿を。
 
 その映像は思い浮かぶ前に、宙へと淡く消えていった。
 
 

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