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『Catch 第二部』 番外編サンプル

 
 昭和二十年、広島に落とされた核爆弾は《リトルボーイ》という名前だったらしい。
 
 この二十一世紀にもなって、とうとう吾妻組傘下『天城組』の事務所にも《リトルボーイ》が落とされた。落とされたというよりも、爆弾を勝手に置いて行かれたというのが正しい
 
 事務所の端っこに、いかにもヤがつく自由業らしき厳つい顔をした男達が肩を窄めて固まっている。誰もが緊張した面持ちをしている。その視線は一様に窓際のソファーへと向けられていた。
 
 革張りのソファーには、一人の少年が気怠げに腰掛けている。少年は、短く刈られた髪に尖った眦をしていた。少し険のある顔立ちだが、何処にでもいる活発な小学生といった風貌だ。だが、窓の外を見遣る少年の眼差しには、同年代の子供にはない陰鬱さが漂っていた。
 
 少年を凝視していると、隣から脇腹を突っつかれた。兄貴分の指原が小声で話し掛けてくる。視線を向けると、斜めにひん曲がった指原の鼻筋が視界に映った。
 
 
「おい、瑞穂…《アレ》ほったらかしでいいのかよ…」
 
 
 指原が口を開くと、治療中の歯槽膿漏の臭いがぷんと漂ってきた。鼻が曲がりそうな臭いだが、顔に出す訳にはいかない。口臭を指摘した途端、頬骨を殴り折られた奴だっているのだから。
 
 悪臭に歪みそうになる頬に力を込めながら、瑞穂は唇を開いた。
 
 
「俺に聞かないで下さいよ。でも、横田さんには接待するように命令されてませんから」
 
 
 そもそも突然少年を連れて来られたのだって、こちらの予想外の事だったのだ。
 
自分が真澄さんを迎えに行くまでの間、この事務所で待たせておいてくれ、と横田さんが少年を置いていってしまったのは三十分前のことだ。
 
 正直それだけは勘弁して下さいと全力で懇願したかったが、勿論断るなんて選択肢は弱小ヤクザには許される筈もなかった。結果、横田さんはさっさと出て行き、少年だけがこの事務所に残された。事の顛末はこの程度の話だ。
 
 指原が指先をもじもじ組み合わせながら、締まりのない声を上げる。
 
 
「命令されてなくてもよぉ…ほら気遣いとか、オモテナシとか、そういう日本人の心的なもんがあるじゃねぇか…」
 
 
 指原は、普段は傲岸不遜な暴力男なくせに、目上の相手に対しては異常なまでに臆病な一面を見せる時があった。弱いものには強く、強いものには弱いのお手本のような男だ。ある一種、非常に扱いやすい男でもある。
 
 
「気遣いって例えば何ですか? オレンジジュースでも買ってきましょうか?」
 
 
 茶化すように答えると、指原はくにゃんと眉尻を下げた。普段だったら生意気な口聞いてんじゃねぇと頭を張り飛ばされていただろうが、今は弟分を殴り付けるだけの余裕もないらしい。
 
 
「そうだなぁ…ジュースの一つでも出しとかねぇと、後で真澄さんに何されるか解んねぇしなぁ…」
 
 
 『何を言われるか』ではなく『何をされるか』と言ったのは、指原の実体験から来る言葉だろう。以前、真澄さんから不手際を指摘された指原は、その場で鼻の骨を殴り折られたらしい。そのせいで指原の鼻筋は斜めに曲がったままだ。
 
 
「買いに行ってきましょうか?」
「いや、いい。俺がひとっ走り行ってくるわ」
 
 
 指原が立ち上がって、慌ただしい足音を立てながら事務所から出て行く。よほど真澄さんが怖くて仕方ないのだろう。
いや、もしかしたら今この事務所にいる少年が怖かったのかもしれない。まだ小学生かそこらの、ヤクザの組長の愛人が。
 
 周りを見渡すと、他の組員達も皆怯えた眼差しで少年を眺めていた。明らかに自分たちよりも脆弱であろう少年へと向ける目ではない。何か得体の知れない化け物でも眺めているかのような眼差しだ。
 
 その時、不意に少年がこちらへと視線を向けてきた。組員達の肩がビクリと大きく跳ねる。
 
 少年がゆっくりと口を開く。
 
 
「すいません」
 
 
 見た目よりもずっと大人びた口調だった。尊大でもなければ萎縮している訳でもない、極自然な声音だ。
 
 
「あ、はい。何ですか」
 
 
 その何気ない声音に一瞬警戒が緩んでしまったのか、思わず瑞穂は返事を返してしまっていた。自分自身の迂闊さに一瞬舌打ちが漏れそうになる。
 
 少年は窓を指さすと、感情の窺えない声でこう続けた。
 
 
「窓、開けてもいいですか」
 
 
 言うなり、少年がソファから立ち上がって窓の方へと近付いていく。瑞穂は慌てて少年へと駆け寄った。
 
 
「いえ、窓は開けない方がいいかと思います」
「どうしてですか」
「その…万が一にも狙撃なんかされたら洒落になりませんから…」
 
 
 瑞穂の杞憂を聞くと、少年の口角に薄笑いが浮かんだ。幼い顔に似合わぬ嘲りを滲ませた醜悪な笑みだ。
 
 
「俺を狙う奴なんざいるのかよ」
 
 
 それまでの敬語が嘘のように、粗雑な口調で少年が吐き捨てる。虚空へと呟かれた言葉は、少年の独り言のように聞こえた。
 
 仄暗い少年の気配に微か圧倒されるものを感じながら、瑞穂は言葉を続けた。
 
 
「この世界、いつ何が起こるか判りませんから」
「この世界って、ヤクザの世界ってこと?」
 
 
 少年は、もう敬語を使う気はないようだった。
 
 分厚い窓ガラスへと指先を這わせながら、少年が「ぼう・だん・ガラス」とリズムを取るように呟くのが聞こえた。大人の杞憂を小馬鹿にするような口調だった。
 
 
「そうです。ヤクザは、慎重になって損になる事はありません」
 
 
 答えると、少年の頬に呆れたような笑みが滲んだ。
 
 
「阿呆らしいね」
 
 
 短く吐き捨てて、少年が再びソファへと腰を下ろす。そのまま瑞穂を見上げてきた。
 
 
「お兄さんは、どうしてヤクザになったの」
 
 
 唐突な質問に、瑞穂は面食らった。数度目を瞬かせてから、その場に立ち尽くしたまま答える。
 
 
「成り行きです」
「成り行きでヤクザになれるもんなの?」
「世の中の大半は、成り行きと偶然で成り立っていますから」
 
 
 瑞穂のいい加減な答えが面白かったのか、少年が咽喉の奥で小さく笑い声を漏らす。細波のような、皮膚をぞわりと震わせる笑い声だ。
 
 
「慎重になった方がいいって言ったくせに、随分大雑把なこと言うんだな」
「すいません、生来の気質が雑なもので」
「お兄さん、頭良さそうに見えるのにね」
 
 
 笑いを収めた少年が頬づえを付いて、瑞穂を眺めてくる。まるで値踏みをするような眼差しだ。だが、不思議と不快感は感じなかった。それよりも子供が無理に強がっているような、微かな微笑ましさすら感じる。
 
 瑞穂は一瞬視線を宙へと浮かべてから口を開いた。
 
 
「自分は頭が悪いです。それこそ悲しくなるくらい」
「悲しくなるんだ」
「はい。悲しいくらい馬鹿な証拠がこれです」
 
 
 言いながら、左手を持ち上げる。嵌めていた手袋を脱いでから、五本指をひらひらと動かす。それから、右手の人差し指と親指で、左の小指を引っ張った。途端、左小指が第二関節の部分から引っこ抜けた。その光景に、少年がぎょっと目を見開く。
 
 千切れた指の断面は癒着して、綺麗に丸まっている。少年は艶やかなピンク色の断面を物珍しそうに眺めてから、感心したように息を漏らした。
 
 
「自分で切ったの?」
「そうですね。トンカチは兄貴に叩いて頂きましたが」
「トンカチ?」
「指にも骨がありますから、刃物だけじゃ上手い具合に指を落とせないんです。ですから、トンカチで――」
 
 
 そこまで喋ったところで、ふと少年の年齢を思い出した。指詰めの方法なんざ、十二の子供が聞いて気持ちの良い話ではない。
 
 窺うような瑞穂の視線に気付いたのか、少年が肩を竦める。
 
 
「別にいいよ。『そういうの』慣れてるから」
 
 
 事も無げに答える少年を見ていると、奇妙な感慨が胸の底から微かに込み上げてきた。普通の子供であれば、こんな事に慣れる必要なんかなかっただろうに。
 
 瑞穂は少し口をもごつかせてから、腹を括って話し始めた。
 
 
「まず輪ゴムをグルグルに巻いた指に刃物を当てるんです。その刃物の背を兄貴分にトンカチで叩いて貰えれば、面白いぐらいに綺麗に指が飛びます」
「飛ぶんだ」
「はい、華麗に宙を舞いました」
「指が」
「指が」
 
 
 同じ言葉を繰り返すと、少年がまた笑い声を上げた。指詰めの話をしているとは思えない、無邪気な笑い声だ。
少年が噛み殺し切れない笑い声を残したまま、瑞穂へと訊ねる。
 
 
「何で指を切るような羽目になったのさ」
「それは…正直言いにくいんですが…」
「俺には言いたくない?」
 
 
 まるで甘えるように訊ねてくる少年の姿を見ていると、どうしてだか鬱陶しさよりも子供特有の可愛げのようなものを感じてしまう。
 
 正直、上手いな、と思った。目の前の少年は、大人が子供に甘くしてくれるのを知っている。知って、利用している。
 
 瑞穂は弱ったように後頭部を緩く掻いた。だが、それも自分のポーズのように思えた。話さないという選択肢なんぞ、自分は選ばないと解っていたからだ。
 
 
「それが…組の店を一軒奪われてしまいまして…」
「奪われた?」
「性質の悪い女に引っ掛かったんです。飲み屋を任せていた子持ちの女だったんですが、うちと敵対する組の幹部に甘い言葉を掛けられて、ほいほい裏切りやがって…。みかじめ料を取り立てに行った時に言われたんです。今日からこの店は天城組じゃなくて堂島組のものになったから、もう二度と来ないで、と」
 
 
 あの時の臓腑が焼き切れるような怒りを思い出して、思わず口調が乱雑になる。
 
 その結果、当時その店を管理していた瑞穂に責任の所在があると決めつけられ、瑞穂は指を一本失う羽目になった。
際、女が敵対組と接触している事に気づけなかった瑞穂の落ち度ではある。だが、だからといって憎悪が収まるものではない。
 
 
「それでお店取られちゃったの?」
「はい、店の女達も店の権利証もすべて奪われてしまいました」
 
 
 頷くと、少年は呆れたように大きく息を吐きながら、背をソファへと埋めた。
 
 
「そりゃ指切らされても仕方ないんじゃない」
「はい、俺が責任を取るのは当然のことです。ですが、はらわたは煮えくり返ります」
 
 
 正直な瑞穂の返答に、少年が猫のように目を細める。緩く弧を描く唇は、まるでこちらを誘っているようにも見えた。幼いのに、酷く蠱惑的な表情だ。
 
 
「じゃあ、奪い返しに行こうか」
「え?」
「奪われた物は、ちゃんと奪い返さないと」
 
 
 軽やかに言い放って、少年がソファから立ち上がる。すたすたと事務所の出入口へと歩いていく背を見て、瑞穂は上擦った声を上げた。
 
 
「あ、あの、何処に行くんですか」
「その女の店」
 
 
 当たり前のように答えられた言葉に、瑞穂は目を剥いた。慌ててその背を追いかけながら、縋るように声を上げる。
 
 
「駄目ですよっ! もうすぐ横田さんが戻ってきますから…っ!」
 
 
 少年をこの事務所から勝手に出したなんて事がバレたら、瑞穂達の方がどんな目に合わされるか解ったものではない。下手をすれば右手の小指まで吹っ飛んでしまう。
 
 慌てふためく瑞穂を肩越しに見やって、少年が面倒くさそうに目を細める。くるりと振り返ると、少年は手を差し出した。
 
 
「携帯出して」
「はい?」
「携帯を、出して下さい」
 
 
 敬語なのに、その声音は威圧的に聞こえた。その声に逆らうことも出来ず、瑞穂は胸ポケットに入れていた携帯を少年へと渡した。
 
 少年は慣れた動作で携帯を弄ると、何処かへと電話を掛け始めた。
 
「横田か。俺、暫く出掛けるから。……はぁ? うるっせぇな。手前が戻ってくるのが遅いのが悪ィんだろうがグズ野郎。文句あんなら、後三秒以内に戻って来いよ。一秒、二秒、三秒、はーい時間切れー」
 
 
 子供っぽい口調なのに、声音には明らかな侮蔑が滲んでいた。むしろ子供っぽいからこそ、その悪意が際立つ。
薄ら笑いを浮かべて、少年が通話を切る。そのまま平然とした様子で、携帯を瑞穂へと返して来る。
 
 
「ほら、これで大丈夫だろ」
「…ぜ、全然大丈夫じゃないですよ…」
 
 
 掠れた瑞穂の声に、少年がまるで年下の子供を見たかのように、ふっと微笑む。
 
 
「『あいつ』が怖いなら、俺を殴り飛ばして、ここから逃げ出せないように縛り付けたら?」
 
 
 凄惨な台詞をさらりと吐き出す少年に、瑞穂は唇を曖昧に震わせた。
 
 
「そんな事は出来ません」
「なら、とっとと道案内してよ」
 
 
 扉を開け放ちながら、少年が横柄に言い放つ。
 
 少年が階段を降りていく軽快な足音を聞きながら、瑞穂は救いを求めるように事務所の隅に固まる組員達を見遣った。
 
だが、誰もがぽかんと口を開いたまま硬直している。役立たずな面々に舌打ちしたい衝動を堪えながら、瑞穂は少年の後を追い掛けた。
 
 階段を降りたところで少年が立ち止まっていた。瑞穂の姿に気づくと、少年は打って変わって大人しい口調で言った。一瞬苦しくなるくらい、幼い声だった。
 
 
「おれ、泉健一。お兄さんの名前は?」
 
 

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Published in catch2

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