Skip to content →

01 ハズレくじ

 
 ハズレくじを引いたと思った。
 
 ハズレもハズレ、大ハズレ。トランプで言うとババ。ポーカーで言うとブタ。ホテルの部屋番号ならさしずめ『444号室』だろうか。もしくは宝くじ一等の前後賞の更に一桁違いとか……嗚呼、どんな言い方をしてもハズレはハズレだ。
 
 
 どうにも逃れられない最低最悪な状況に、佐野光瑛は職員室の机の上で頭を抱えた。周りの教師は、佐野の様子に気付いていながら皆一様に見て見ぬフリをしている。当たり前だ。彼らこそが佐野にそのハズレくじを押し付けた張本人達なのだから。
 
 今年クラスの担任を受け持ったばかりの新米教師。生徒受けもそこそこいいし熱意もあるが、上からの命令には気が弱い。そのハズレくじを押し付けるには佐野は持ってこいの人間だった。そのハズレくじは、もしかしたら教師生命を終わらせかねない爆弾にも成り得るだから。いや、教師生命どころか下手をしたら本当に命すら…。
 
 
 嫌な予感がよぎるのを、頭を左右に振って打ち払う。子供の時からずっと教師になりたかった。どんな生徒がきても、きちんと向かい合おうと思っていた。正直に話せば、どんな生徒とも解り合えるはずだと。だが、自ら望んでこんなハズレくじを引きたいと思ったことはない。絶対に。
 
 
『若い時の苦労は買ってでもしろって言うじゃない』
 
 
 職員会議で発せられた教頭の空々しい言葉が蘇る。あのクソババア、自分が責任を被りたくないからって体の良いことばかり言いやがって…。頭の中で呪詛が巡りに巡る。だが、今更うだうだ喚いたところで後の祭りだ。
 
 顔を起こして、職員室の壁に掛けられた時計へと視線を向ける。あぁ、もう八時になってしまった…。長針が無慈悲にも天を指すのを呆然と見つめる。
 
 
 職員室の扉が開く音に、漫画のように身体が跳び上がった。咄嗟に悲鳴をあげそうになるのを必死で堪える。錆び付いたロボットのような仕草で、開かれた扉の方へと身体を向けた。
 
 
 扉の前に立っていたのは、一人の少年だ。身に付けられた学制服は酷く真新しい。一瞬、佐野は『人違いだ』と思った。佐野の予想では、テレビに出ている子役のように顔立ちの整った、それこそ一目見た瞬間心奪われるような美少年がやってくると思っていたからだ。
 
 その予想に反して、その少年は同年代の男子よりも少し眦がキツい以外は、取り立てて特徴のない子供だった。スポーツをやっていたのか、髪の毛は短く刈られている。姿形だけで言えば、極一般的なスポーツ少年といった風貌だ。だが、快活そうな見た目に反して、少年が纏う空気は酷く陰鬱だった。
 
 少年は扉の前でじっと俯いたまま、その場から動こうとしない。佐野は慌てて、少年へと近付いた。
 
 
「吾妻健一くん?」
 
 
 恐る恐る問い掛ける。少年は視線を床へと固定したまま、酷く緩慢な動作で首を左右に振った。唇を殆ど動かさないままに、ぽつりと呟く。
 
 
「泉」
「え?」
「泉健一」
 
 
 まるで幽霊のような生気のない声音だった。その沈んだ声に、首筋がぞわりと震える。少年が伏せていた眼差しをゆっくりと上げる。佐野は、軽く息を呑んだ。子供らしかぬ暗く澱んだ眼差しが佐野に突き刺さる。無邪気さや純粋さが殺ぎ落とされた攻撃的な目。
 
 まるで喉元に剣を突き付けられたかのような緊張感に絶句していると、廊下からもう一人少年が歩いてくるのが視界の端に見えた。
 
 
「遅れてすいません」
 
 
 もう一人の少年は近付いてくると、子供らしかぬ大人びた声をあげた。こちらの少年は、泉健一と名乗った子供よりも体付きが少し細い。髪は耳にかかるくらいで、理知的な目をしていた。顔立ちは整っているが、尖った輪郭のせいか何処か人好きされない厭世的な雰囲気を発している。無機質な顔と言ってもいい。
 
 
「吾妻悟です」
 
 
 吾妻悟と名乗った少年も、また言葉少なだった。最小限の言葉しか発さないと言わんばかりに、薄い唇はピッタリと閉じられている。無口な子供二人を前にしたまま、佐野は現実逃避じみた軽い目眩を覚えた。
 
 
 これが『ヤクザの愛人』と『ヤクザの息子』かと思うと、今すぐ壁に頭を打ちつけて死にたいような絶望感に襲われる。
 
 最初職員会議でその話を聞いた時には、漫画じゃあるまいし、とせせら笑った事を覚えている。小学生の少年がヤクザの組長に愛人として囲われているという話自体、佐野にとって最高に非現実だった。その組長の愛人と、お目付け役としてヤクザの息子が転校してくると聞いた時だって、まだ笑い話だと思っていたのに。どうして、よりにもよって自分がこんなハズレくじを引かなくちゃならない。
 
 
 未練がましい悔恨をぐじぐじと脳内で弄くりながら、佐野はその場から逃げ出したくなる衝動を抑えた。引き攣りそうになる頬を必死で笑みの形へと変える。
 
 
「今日から君たちの担任になる佐野です。よろしく、な」
 
 
 よろしくお願いします、と卑屈に言いそうになるのを何とか堪える。いやいや、ヤクザの愛人と息子と言ったって、この子達はまだ小学校を卒業したばかりの子供じゃないか。こっちがビクビクして機嫌を窺う必要なんかない。この子供達の保護者であるヤクザが信じられない額の寄付をこの学校にしていても、生徒と教師ならどう考えたって教師の方が強いんだから。たぶん、きっと…。
 
 弱々しく自分を鼓舞して、痙攣する頬を更に吊り上げる。殆ど歪みに近い佐野の笑顔を見ても、二人の少年の表情は変わらない。一人は佐野の存在など気付いていないように俯き、もう一人は観察するかのように無表情に佐野を見つめている。
 
 
「それじゃあ、教室に行こうか。友達が待ってるよ」
 
 
 未だかつて『友達』という言葉がこんなにも白々しく聞こえたことはない。教室にも、この学校にも、この二人の『友達』なんているはずがない。
 
 
 他の生徒よりも一ヶ月遅れの五月の転入生、この一ヶ月のタイムラグによってクラスにはとっくに仲間グループが完成されている。いや、そんな事は大したことじゃない。社交的な子供なら何月に入ってこようが、どんなグループにも入ることができる。
 
 
 問題は教頭のお喋りだ。教頭が懇意にしているPTA会長へと『これは貴女だけの胸に収めて欲しいんだけど…』という前書きを垂れて、ヤクザの愛人や息子がこの学校に入ることを教えてしまったのだ。勿論、そんな事が一人の胸に収められるわけがない。『秘密なんだけど…』という魔法の言葉を使って、噂はみるみるうちに広がっていき、最終的には子供達の耳にも入ることになった。そうなったら終わりだ。入学式から、もう生徒達の間ではその噂で持ちきりだった。
 
 
『先生、ヤクザって何する人?』
『愛人って何?』
『男なのに男と付き合ってるの?』
 
 
 子供達に質問される度に、佐野の笑顔は引き攣った。しかも、子供達もその意味を解って聞いてくるのだから性質が悪い。中学生にあがったばかりの子供というのは、人生の中でもっとも無邪気に残酷だ。平気で他人を傷付けて、それを当たり前のように笑い事にする。
 
 更に悪かったのは、佐野の勤めるこの学校が良家子女ばかりを集めた金持ち学校だったという所もあるかもしれない。生まれた時から恵まれた子供達は、一般の子供よりもずっと選民意識が強い。優越感に満ち、他人を貶めることが更に自分自身を高めると信じ込んでいるところがある。だからこそ、余計に悪質だ。加減を知らない徹底的なイジメという名の差別は、大人の佐野ですら目を覆いたくなる時がある。無視、暴言、盗難、暴力も当たり前。まるで、羊の皮を被ったおぞましい怪物達の群れだ。正直、佐野は自分の生徒を恐ろしいと思うことすらある。
 
 
 その中へと入っていくこの二人の少年は、最初から怪物達に目を付けられているも同然だ。当然、まともな学校生活が送れるとは思えない。素直に可哀想だと思う。だが、それ以上に可哀想なのは佐野だ。この子供達に何かあれば身を持って責任を取らされるのは佐野なのだから。
 
 
 僕は運が悪い。とんでもない大ハズレを引いた…。怪物達の群れの中に放り込んで、無事でいるはずがない。問題が起こると最初から解り切っているのに、これじゃ生贄みたいなもんじゃないか…。
 
 
 思わず涙が滲みそうになる。目にゴミが入ったフリをして、慌てて袖で目元を拭う。
 
 
「さぁ、行こうか」
 
 
 わざとらしく元気な声をあげる。その自分の空元気が何とも痛々しかった。だが、職員室から出ようとした時、不意に背後から甲高い声が聞こえてきた。どすどすと重たい足音が近付いてくる。
 
 
「まぁまぁ、ようこそいらっしゃいました。吾妻健一様と悟様ですね。わたくしは森園学園の教頭を勤める番場と申しますの。どうか、よろしくお願いいたしますね」
 
 
 これこそクソババアを体現した存在と言ってもいいだろう。佐野へと無理矢理ハズレくじを押し付けたくせに、自分は敬語を使って、更に様呼ばわりかよ。悪態を付きそうになるのを抑えながら、佐野は横目で番場を睨み付けた。
 
 しなしなと太い身体をくねらせながら、番場が二人の少年へと近付いてくる。存在感たっぷりな相手が現れたにも関わらず、二人の少年は相変わらず興味がなさそうな様子だ。少年が黙っていることを良いことに、番場は更に声高に喋り出した。
 
 
「我が校は自由を校風としておりまして、どの生徒も伸び伸びと自分の個性を生かして学問に励んでおりますの。近頃はイジメだとか学級崩壊など教育現場の威信を揺るがすようなニュースがたくさん流れておりますけれども、森園学園ではそのような事は一切ございませんので、吾妻様も是非ご安心してお過ごし頂ければと思いますわ」
「吾妻じゃない、泉」
 
 
 喧しいババアの声に掻き消されそうになりながら、ぽつんと呟かれる子供の声が聞こえた。泉健一と名乗った少年が俯いたまま唇を小さく動かしている。
 
 
「何かお困りなことがありましたら、是非わたくしにおっしゃって下さいねえ。吾妻様のためでしたら、わたくし教頭という地位をかなぐり捨ててでも…」
「泉、だ」
「どうかなさいましたか吾妻様?」
「泉」
「え?」
 
 
 ブツンと音が聞こえるようだった。それまで俯いていた少年がふっと視線をあげる。佐野は、見た。少年の眼球に赤黒い憎悪の炎が燃え上がるのを。眼球は血走り、キツく噛み締められた奥歯からガギッと軋む音が響く。
 
 足元を一陣の風が走った。バキンという奇妙な音が聞こえたと思ったら、番場の太めかしい身体が床の上を転がっていた。
 
 
「ヒギャアァッ!!」
 
 
 絶叫をいうものを佐野は生まれて初めて聞いた。まるで屠殺される豚のような悲鳴だと思った。神経に突き刺さるような金切り声に、全身の産毛が総毛立つ。
 
 
 何が起こったのか直ぐには把握できなかった。番場の身体が床の上をごろごろと転がる。その左膝が奇妙な方向へと歪んでいた。それが泉健一に左膝を真横から蹴り飛ばされたせいだと気付いたのは数十秒後だった。
 
 
「俺は、泉健一だ」
 
 
 氷のように冷え切った子供の声が遠く聞こえる。人間の急所を容赦なく狙い、痛め付けた罪悪感など欠片も感じていない声音だ。
 
 
 涙と鼻水で化粧をボロボロに崩す番場を見下ろす、ゴミでも見るような無関心な眼差しに皮膚が小刻みに震え出す。ぶるぶると震える佐野に対して、泉健一の斜め後ろに立つ吾妻悟は驚いた様子もない。つまらなさそうに床をのたうち回る番場を見下ろすと、泉健一へと声をかける。
 
 
「初日から面倒を起こすな」
「俺を、吾妻って呼んだ」
「戸籍上は、君はもう吾妻の人間だ」
 
 
 事実だけを述べるような吾妻悟の言葉に、泉健一の目が再び剣呑に尖る。今にも獲物に飛びかかりそうな、獣の面をしている。
 
 
「俺は吾妻じゃない。あんなクズ家族の一員になった覚えはない」
 
 
 呪詛のような泉健一の声に、吾妻悟が面倒くさそうに目を細める。
 
 
「そう思いたいなら、そう思えばいい。僕にはどうでもいい事だ。ただ、問題は起こすな」
「あいつに叱られるからか」
 
 
 泉健一の声音がぐにゃりと歪む。蔑むような嫌味ったらしい声音に、吾妻悟の眉がぴくりと跳ねる。
 
 
「学校にいる間は、僕が君の面倒を見る。真澄叔父さんとの約束だ」
「面倒を見る? ただの監視役だろうが。このストーカー野郎」
 
 
 吐き捨てられる暴言に、もう吾妻悟は返事をしなかった。床に転がって啜り泣く番場へと視線を落とすと、事務的に言い放つ。
 
 
「治療費はお支払いします」
 
 
 もうそれで話は済んだとでも言いたげな平坦な声音だった。まるで人の気持ちが解らない機械のようだと思った。
 
 
 泉健一は、もう番場を見ていない。熱と泥がどろりと溶け込んだ暗い双眸が佐野を見つめている。一瞬、佐野はブラックホールに呑まれるような感覚に陥った。泉健一がそっと囁く。
 
 
「せんせい、俺のこと吾妻って呼ばないで」
 
 
 子供っぽい口調なのに、まるで言葉という真綿で首を絞められているかのようだった。言外に、吾妻と呼んだら同じことをするよ、と目の前の子供に脅されているような気がした。たかが十二歳の子供に、佐野は間違いなく脅迫されていた。
 
 
――最低最悪な大ハズレ…。
 
 
 頭の中で繰り返しながら、佐野は自分の足下がぐらりと揺れるのを感じた。
 
 

< back┃ topnext

Published in catch3

Top