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03 薔薇の花

 
 机の上に、真っ赤な薔薇が置かれている。硝子細工の細い花瓶に刺された一輪の真紅。満開の花弁からは、噎せ返るような蠱惑的な香りが立ち昇っていた。過剰な臭気が鼻腔を冒す。
 
 
 大きく花弁を広げる薔薇をぼんやりと見下ろしていると、周りからまるで細波のような笑い声が聞こえてくる事に気付いた。教室内をゆっくり見渡す。そうすると、笑い声は一瞬ピタリと止まって、健一が視線を逸らせば再び波のようにゆったりと広がっていく。くすくす、くすくす、まるで指揮者に統制されたような嘲笑のメロディだ。その声に、酷くうんざりとした心地になる。
 
 
「知ってるか? 薔薇ってホモって意味があんだってよ」
 
 
 ふと斜め後ろから意気揚々とした声が聞こえてきた。肩越しに振り返れば、三日月のようにぐにゃりと湾曲した視線と目が合う。前髪に金色のメッシュを入れていて、格好付けるように後ろ髪だけ長く伸ばした少年だ。頬には早咲きのニキビが一つぷっくりと浮かび上がっている。このクラスでも、目立つグループのリーダーのはずだ。そういえば、こいつの名前は何だっただろうか。
 
 
「なぁ、ホモって尻の穴にチンコ突っ込まれんだろう? ヤクザのチンコって真珠入ってんだろ? それで尻ヤられるのって気持ちいいわけぇ?」
 
 
 茶化すような少年の言葉と共に、教室内に溢れる笑い声が次第にあけすけのないものへと変わっていく。健一を見る何十もの好奇と侮蔑の眼差し。
 
「のんくん、やめなよぉー」とクラスメイトの少女が形だけ止めているような言葉を笑いながら漏らす。だが、その声は少年の行動を制止するというよりも助長しようとしている声のように思えた。
 
 嗚呼、そうだ。少年の名前は、呑田大虎だ。大虎と書いてタイガーと読む巫山戯た名前だった気がする。確か父親は、何処かの代議士だとか声高々に喋っていたのを思い出す。
 
 
 健一はただ黙って、少年や何十もの目から視線を逸らした。机中央に置かれた花瓶を端にずらして、席へとつく。途端、机の正面へと呑田が素早く回ってきた。机の足をガンと蹴られて、花瓶が危うく揺れる。
 
 
「何とか言えよホモ野郎。ホモってのは、まともに口も聞けないんですかぁー?」
 
 
 茶化すような呑田の台詞に、その左右に腰巾着のように付きまとっている少年二人が「へんたーい」「ホモ菌がうつるぅー」などと低俗な合いの手をいれる。片方はだんごっ鼻で、もう片方は狐のように目が吊り上がっている少年だった。名前は、矢張り思い出せない。
 
 
 その間延びした声音が健一の神経をだらだらと弛ませていく。腐った沼にずぶずぶと沈んでいって窒息寸前なのに、今更足掻くのも面倒な気持ちにさせる。こんな幼稚な嫌がらせに、いちいち指先一つ動かすのも億劫だった。膿んだ無気力が健一の全身に満ちている。
 
 虚ろな眼差しをゆるゆると持ち上げる。視線を向けると、呑田は健一を顔を見つめてぐにゃりと頬を歪めた。その顔から滲み出ているのは、目の前の獲物をどういたぶってやろうかと考えている嗜虐心だ。他人をいたぶることが心底愉しいとでも言いたげな表情。自分の絶対優位を信じて疑わない、無知で幼稚な王様。
 
 
 不意に、呑田がムッと眉間を寄せて、人差し指と親指で鼻を摘む。
 
 
「くさい、くさいぃー。この教室、ホモ臭がするぞぉー」
 
 
 その言葉に倣うように、左右に付き従う少年二人も臭い臭いーと騒ぎ始める。再び細波のような笑い声が広がっていく。呑田達の尻馬に乗るように「やだー、ほんと臭いー」などと隣の子と喋り出す女子までいる。
 
 
 健一は沈黙した。クラスメイトの悪意に晒されながら、貝のように呼吸だけを静かに繰り返す。毎晩与えられる陵辱と屈辱に比べれば、この程度の稚拙な苛めなんて大したことではなかった。
 
 
 表情を変えない健一を見て、呑田が不機嫌そうに目尻を引き攣らせる。そうすると、頬に浮かんだ皺で子供らしかぬ醜悪さが顔面に滲み出た。だが、健一は呑田よりももっと醜悪だ。何故なら健一は本物の殺意を知っているから。人を見殺しにした目を、人を破滅させた口を、薄汚い液体を吐き出された内臓を持っているから。
 
 
「教室にホモ臭まきちらされたら堪んねえんだよ。ホモなんて公害だろ。焼却場に直行しなくちゃなんねぇゴミクズが何で学校なんかに来てんだよ。とっとと消えろよ、ホモ野郎。マジで気色悪ぃし」
 
 
 罵声が全身の毛穴から潜り込んでくる。まるで体内に泥を詰め込まれているような感覚だ。それでも、声一つ返さない健一を、呑田は憎々しげに睨み付けた。
 
 
「何とか言えよコラ、手前、俺のこと舐めてんのかよオイ」
「のんくん、こいつが舐めてんのはオッサンヤクザのチンチンっしょ」
 
 
 狐目の少年がいかにも上手い事を思い付いたように、呑田へと進言する。途端、呑田がぶっと噴き出した。ぶはっ、ぶははっ、と放屁音にも似た下品な笑い声が響く。それに合わせて、教室中が笑いの渦へと飲み込まれる。健一以外、みんな楽しそうに笑っている。
 
 
「そっか、そうだよなぁ。こいつが舐めてんのは、オッサンヤクザのチンチンかぁ」
「ぺろぺろぺろー」
「べろべろべろー」
 
 
 だんごっ鼻と狐目が滑稽な表情をして、囃し立てるように阿呆な擬音を次々に吐き出す。教室の笑い声は、最高潮にまで盛り上がった。全身に、無数の悪意が突き刺さる。だが、健一にはそれが痛い事なのだとも判らなかった。ただ、無感情に与えられる悪意を呑み込むだけだ。
 
 
 その時、教室の扉が開く音が聞こえた。まるで指揮棒が下ろされたかのように、一斉に笑い声の合唱が止まる。扉の前に立っていたのは、吾妻悟だ。悟は、健一以上に無機質な表情をして、何事もなかったかのように教室内へと足を進めた。そのまま、自分の席へと腰を下ろす。悟の席は、健一の隣だ。健一の机に乗った薔薇の花も、先ほどまでの嘲笑も聞こえていただろうに、健一を気遣う言葉は一つもない。
 
 悟は、いつだってこうだ。健一に対して、徹底的なまでの無関心を貫いている。吾妻の言いつけ通り、登下校はしぶしぶ一緒にしているが、ひとたび学校に来れば視線すら合わせない。健一も、それで良いと思っている。他人が健一と関わるとろくな事にならないというのは、今までの経験からよく解っていた。
 
 
 だが、今日は珍しく悟が喋り掛けてきた。悟は、膨らんだ白い袋を健一へと差し出している。
 
 
「真澄叔父さんが忘れ物を届けてくれた。君のだろう」
 
 
 淡々と吐き出される言葉を聞きながら、健一はぼんやりと差し出された袋を眺めた。あぁ、これは体操服か。そういえば、今日は体育がある日だった。そんな事を緩慢に考えていると、悟が焦れたように健一の机の上へと体操服の入った袋を置いた。投げ捨てるような、素っ気ない仕草だ。
 
 
 健一は置かれた白い袋を暫く見下ろしていた。吾妻が届けた、という言葉がぐるぐると頭の中を回っている。何度も反芻していると、純白の袋がまるで汚物の詰まったゲロ袋のようにすら思えてきて、微かな吐き気が込み上げてくるのを感じた。あんな男が触ったものなんか、指先一本触れたくもない。
 
 
 そう考えていると、目の前に置かれた袋がひょいと取り上げられた。幼稚園児が玩具でも奪い取ったかのように、呑田が得意げな顔をして健一の袋を腕に抱えている。
 
 
「ホモ野郎に服なんかいるかぁ? 裸で十分だよな?」
 
 
 まだ低能な嫌がらせは続いていたらしい。そうだそうだと囃し立てる声に調子に乗ったのか、呑田はへらへらと媚び諂うような笑顔を悟へと向けた。
 
 
「ねぇ、こいつに服なんか要らないよねぇ。サトルくんもそう思わない?」
 
 
 ヤクザのホモ愛人は苛めの対象だが、ヤクザの息子には敬意を払うらしい。下手なことをしてヤクザの親が殴り込んでくるのが怖いのだろう。阿呆らしい。愛人を苛めようが、息子を苛めようが、どっちだって大した変わりはないのに。
 
 
 同意を求めてくる呑田の声に、悟は面倒臭そうに眉根を寄せた。
 
 
「勝手にしろ。僕には関係ない」
 
 
 返事はそれだけだった。ふいっと視線を逸らすと、黙って鞄の中から文庫本を取り出すと書面へと視線を落としてしまう。本はドストエフスキーの『罪と罰』だ。気取ってやがる。
 
 
 悟から求める反応が返ってこなかった事に、呑田は機嫌をそこねたように顔を歪めた。だが、その苛立ちを獲物で発散してやるとばかりに、健一へと引き攣った笑みを向け直す。
 
 
「さぁ、このカリスマスタイリストのんくんが、何の変哲もない体操服を変態カマちゃんにふさわしい服に変えてやろうじゃあーりませんかー」
 
 
 よくも素面でこんな糞みたいな台詞が吐けるものだといっそ感心してしまう。
 
 呑田はだんごっ鼻から差し出されたハサミを受け取ると、健一の目の前で体操服へと刃先を差し込んだ。バチンと繊維が切れる音が響く。見る見る内に、体操服が切り刻まれていく。上着は、まるで腰蓑のようにスダレ状に切り裂かれた。そうして、ハーフパンツの尻部分に丸い穴をあけると、呑田は「これはチンコ突っ込み用の穴~」などとほざいてゲラゲラと笑い声をあげた。
 
 
 机の上に、バラバラになった服が積まれていく。健一には、それがまるで自分の心のように思えた。心がハサミでずたずたに切り刻まれている。だが、それでも痛みを思い出せないのだ。
 
 
 朝礼のチャイムが鳴る。初日に挨拶した佐野という教師が恐る恐るといった様子で教室に入ってくる。途端、蜘蛛の子を散らすように呑田達は素早く自分達の席についた。健一の机の上に、ボロ布を残して。
 
 
「…それじゃあ、朝のHRを始めるぞー…」
「はーい」
 
 
 弱々しい佐野教諭の声に、生徒達が溌剌とした声をあげる。先ほどまでの陰湿さなど欠片も感じられない、無邪気な声だった。
 
 
 健一は、机の上に残された体操服のなれの果てと一輪の薔薇を見詰めた。
 
 
 今日で、入学して一週間。健一の居場所は、何処にもなかった。
 
 

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