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04 汚物

 
 トイレの個室にぶち当たって、背骨が軋んだ音を立てる。
 
 衝撃に息を詰めながら、健一は酷く緩慢な動作で視線を持ち上げた。健一の目の前には、にやにやと薄ら寒い笑みを浮かべる三人の少年が立っている。先ほどクラスで健一を盛大に罵っていた呑田と、その取り巻きのだんごっ鼻と狐目の少年二人だ。
 
 
「おい、どこ行くんだよホモ野郎」
 
 
 呑田は仁王立ちの姿勢で、居丈高な口調で問い掛けてくる。どこに行くも何も、今この時点でトイレに来ているじゃないか。トイレに居る人間に、どこに行くかなんて問い掛ける事自体が酷く馬鹿げている。嗚呼、でも、そんなのはどうでもいい事か。呑田は、健一がどこに行くのかなんて事に興味があるわけじゃない。ただ、健一を罵りたくて難癖を付けているだけなのだから。
 
 
 健一はぼんやりと呑田を眺めてから、視線を緩く左右へと巡らせた。先ほどまで小便器で勢いよく放尿していた男子は、呑田達がトイレに入ってきた時点で逃げ出してしまった。昼休憩という時間帯のせいか、廊下の方からは生徒達が笑いさざめく声が聞こえてくる。
 
 当て処もなく視線を彷徨わせていると、不意にこめかみにゴツッと鈍い衝撃が走った。
 
 
「どこ見てんだよ。人と話す時は、相手の目を見なさいってママに教わりませんでしたかぁー?」
 
 
 呑田がまるでモグラ叩きでもしているかのように、小さく丸めた拳で健一のこめかみをゴツゴツと規則的に殴り付けて来る。その度に、健一の頭部は不安定なヤジロベエのように揺れた。頭蓋骨から伝わってくる鈍い痛みに、微かに眉を顰める。それまでずっと無反応だった健一が表情を変えた事が嬉しいのか、目の前で呑田の顔がぐにゃぁりと卑しく崩れるのが見えた。
 
 
「それとも手前にはママがいないのか? そっか。だってお前ホモだもんなぁ。ホモだから、男のケツ穴から生まれたんだろ。だから、お前からはウンコみてぇなくっせぇ臭いがすんのかぁ」
 
 
 下劣な罵言に、取り巻きの二人が「ウンコやろー、ウンコやろー!」と何とも頭の悪い声をあげる。まるで言葉を覚えたばかりの幼稚園児のような愚劣さだ。呑田と取り巻き二人が声を合わせて、ぎゃっぎゃっと笑い声を張り上げる。ブラックホールのように大きく開かれた口を眺めて、健一はゆっくりと瞬きを繰り返した。自分がどう思われようが、今更どうでもよかった。心臓は無感覚に、与えられる悪意を呑み込むだけだ。
 
 
 呑田は、再び反応の鈍くなった健一を鼻白んだ表情でねめつけて、それからふと何か思い付いたようにその頬を陰湿に歪めた。
 
 
「俺たちが歩く場所にウンコが落ちてるとか、汚くてみんな嫌だよなぁ。ばい菌だらけのウンコ野郎は便器の中に戻さねぇと」
 
 
 その言葉に、呑田の斜め後ろに立っていた取り巻き二人がニィと口角を吊り上げるのが見えた。瞬く暇もなく、両腕を左右から掴まれたと思ったら、トイレの個室の中へと勢いよく押し込まれていた。両腕を取り押さえられ、便器へと向かい合うように立たされて背後から後頭部を鷲掴まれる。呑田が健一の後頭部を掴んだまま、その耳元にねっとりと囁く。
 
 
「ほら、便器に顔突っ込めよ。俺がキレーに洗ってやるからさぁ」
 
 
 くすくすと隠微な笑い声がうなじに吹きかかる。その感触に、健一はぞわりと皮膚を戦慄かせた。後頭部を掴む掌に力が入って、ぐぐっと身体を強制的に前のめりにさせられる。洋式便所が眼前に近付いて、きついアンモニアの臭気が鼻を刺した。その汚物の臭いに生理的な嫌悪が湧き上がってくる。
 
 
「嫌だ」
 
 
 唇から無意識に言葉が零れていた。健一の声に、一瞬だけ後頭部を押さえ付ける力が緩む。だが、次の瞬間、背後から聞こえてきたのは紛れもない嘲笑だった。ぎゃははっ、と如何にも品のない笑い声が狭い個室に反響するように響き渡る。
 
 
「ぶはっ、ぶははっ、いや、いやだってよ! やだぁ、いやぁだー、ママ、僕やぁだー」
「ウンコやろーがナマイキ言うな!」
「ウンコは大人しく流されろ!」
 
 
 呑田の馬鹿笑いに合わせるように、取り巻きの二人が健一へと罵声を浴びせかける。その声を聞きながら、健一はもう一度静かに繰り返した。
 
 
「嫌だ」
 
 
 健一の拒絶を足蹴にするかのように、再び炸裂するような笑い声が背後から響く。
 
 
「だからぁ、ウンコに拒否権があるとでも思ってんですかぁー? つか、いい加減キモいんだよ。お前に触ってる手が腐りそうだからさ、頼むからさっさと流されてくんない? いや、マジで、ほんと、消えろよ」
 
 
 その声を皮切りに、緩んでいた手の力が再び強くなる。健一の顔を便水へと容赦なく沈めようとする動きだ。健一の腕を左右から取り押さえる取り巻き二人がけたたましい笑い声をあげながら、囃子立てるような声をあげる。
 
 
「しーずーめっ! しーずーめっ!」
 
 
 沈めと繰り返す音頭に合わせて、背後から圧力を掛けられた頭がぐぐっと低く沈んでいく。便座が既に鼻先に触れ合いそうな程だ。抗うように必死に首に力を込めながら、健一は鈍く震える息を吐き出した。
 
 こんなに嫌だと言っているのに、誰も健一の言葉を聞き入れようとはしない。誰も彼もが非道な事を無理強いしてくる。それなら、健一だって我慢する必要はなかった。
 
 
 嘔吐を催しそうな程の便臭を感じながら、健一は一瞬目蓋を閉じた。目蓋の裏は、鮮やかなペンキをぶち撒けたように真っ赤に染まっている。血の色にも似た深紅を見た瞬間、健一は閉じていた目蓋を一気に開いた。
 
 右足を軽く浮かし、その踵に全体重を掛けて、斜め後ろへと一気に踏み下ろす。何か堅い物を踏み潰した感触が走ったのと同時に、パキッという枯れ枝が割れたような音が小さく鼓膜を打った。
 
 
「ギ、ぎゃあァッ!!」
 
 
 首を絞められた鶏のような声が身体の右側から聞こえる。視線を動かすと、健一の右腕を取り押さえていた狐目がぴょんぴょんと床を飛び跳ねるようにして悶えている姿が見えた。狐目の足を踏んだ足裏からは、まるで巨大な海老でも踏み潰したかのような気色の悪い感触が広がっている。もしかしたら、足の甲の骨を踏み折ったのかもしれない。
 
 狐目が掴んでいた右腕がするりと抜ける。途端、健一は間髪入れず、自由になった腕を大きく振りかぶった。身体を捻るようにして、健一の左腕を掴んだまま呆然と突っ立っているだんごっ鼻の顔面を目掛けて、拳を叩き付ける。瞬間、拳にぐちゅんと鼻が捩れる感触が広がった。
 
 
「ふぎゃんッ!!」
 
 
 今度は踏み潰された猫みたいな声だと思った。見た目は豚のくせに、と思うと、口元が少しだけ笑みの形に捩れた。健一の拳がぶち当たっただんごっ鼻の鼻頭が更にぺちゃんこに潰れているのが見える。拳を離した途端、だんこっ鼻の鼻孔からは真っ赤な血がぼたぼたと溢れ出した。だんごっ鼻が呆然とした様子で、溢れ出る血を掌で受け止めている。
 
 
 その姿を二目見ぬ内に、健一は勢いよく背後を振り返った。そこには目を丸くした呑田が立ち尽くしている。弄んでいた獲物に突然牙を剥かれて、呆気に取られているようだった。
 
 
「——だから、嫌だって言ったのに」
 
 
 ぽつりと言葉を落として、健一は返事を待たずに一気に駆け出した。呑田を突き飛ばすようにしてトイレの個室から出て、そのまま廊下へと飛び出す。飛び出し様にぶつかりそうになった生徒が短い悲鳴をあげる。その声を聞かなかったフリをして、健一は生徒達の間をすり抜けるようにして駆けた。
 
 
 暫く走った所で、背後から怒鳴り声が聞こえて来る。
 
 
「でめえ゛ぇええ、待てぇえ゛ええ!!」
 
 
 呑田のがなり声が廊下に響き渡る。振り返ると、怒りで顔を真っ赤に染めた呑田が生徒達を突き飛ばしながら健一を追い掛けてくる姿が見えた。甚振っていた獲物に逆襲された事がよほど許せないのだろう。半ば狂乱的とも思える呑田の姿に、健一は駆ける速度を更に早めた。今呑田に捕まったら、便器に顔を突っ込まれる以上に屈辱的な目に合わされるのは解り切っていた。ただの言葉や暴力なら我慢できる。だが、糞便以下の扱いを受けるのだけは我慢ならなかった。
 
 
 背後からは、ギャンギャンと喚く呑田の声が聞こえてくる。狂犬病にかかった犬に追い掛けられているような気分だった。呑田に追い掛けられている健一の姿を見ても、誰も助けようとはしない。皆一様に関わらないように、廊下の端に身を寄せて視線を伏せるばかりだ。
 
 
 だが、その中でたった一人だけ健一を直視する眼差しがあった。廊下の突き当たりに、悟が立っていた。物言わぬ機械のような眼差しが健一をじっと見詰めている。その眼差しが健一に何かを伝えようとしていた。
 
 悟は何も言わず、廊下突き当たりの窓を静かに開いた。カラカラと桟を滑る窓枠の乾いた音が聞こえる。その瞬間、健一は悟の意図を理解した。
 
 
 呑田の絶叫が近付いてくる。その声を尻目に、健一は突き当たりの窓へと辿り着くなり、駆けてきた勢いのまま開かれた桟へと両手と片足を掛けた。地面が遠く下の方に見える。
 
 身を乗り出すと、少し離れたところから掠れた悲鳴が聞こえてきた。
 
 
「あ、吾妻くんっ! やめなさいっ!」
 
 
 数メートル離れた先に、顔面蒼白になった担任が立っていた。気弱そうな顔をした男だ。健一を見る時は、いつも泣き出しそうな顔をしている。そういえば、この教師の名前は何だっただろうか。ぼやけた思考の中、そんな他愛もない事を考えながら、健一は小さく唇を開いた。
 
 
「俺は、吾妻じゃない」
 
 
 答えると同時に、桟に掛けた両手と足裏に力を篭めた。ぐんと持ち上がった肩に強い重力が掛かって、次の瞬間身体が無重力へと向かって飛び出す。開けた視界に、やけに晴れやかな空が映った。全身を包み込む無重力に、腹の中で内臓が踊る。
 
 だが、心地良い浮遊感は一瞬だった。一呼吸する間もなく、ずんと全身が重力に飲み込まれる。窓から空中へと飛び出した身体が見る見る内に地面へと落ちていく。墜落していく。下から吹き付ける空気が痛いくらい耳朶を打った。
 
 
 視界の先に、青々とした芝生が見える。緑色が近付いてきたと思った瞬間、足裏にどすんと重たい衝撃が走った。衝撃を殺し切れず、膝が崩れて肩から地面へと転がり込む。芝生の上を二三回横転して、ようやく健一の身体は動きを止めた。
 
 膝の骨がぢんぢんと熱にも似た痺れを発している。折れていないか確かめるように膝頭を掌で撫でていると、数メートル離れた先で女子生徒達が健一を凝視しているのが視界に入った。膝の上で小さなお弁当箱を開いたまま、目を丸くして硬直している。そりゃ校舎から中庭へと人が降ってくれば驚くのも当然だろう。
 
 
 どうやら骨は無事らしい。痺れた足でふらつきながらも立ち上がった瞬間、背後の校舎から罵声が降り注いできた。
 
 
「てめぇえ゛、これで終わりじゃねぇからなぁあ゛! 逃げれたなんて思ってんじゃねえええぞぉお!」
 
 
 校舎二階の窓から身を乗り出すようにして呑田が叫んでいる。もう悟の姿は見えなかった。
 
 健一はちらりと呑田の姿を見上げてから、身体についた土をゆっくりと払い落とした。そうして、のんびりとした足取りで歩き出した。
 
 

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Published in catch3

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