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05 悟

 
 歩いて数分経った時、右足首が痺れるように痛むのに気付いた。そこだけ火で炙られたかのように熱を持って、膿むような倦怠感を孕んでいる。
 
 校舎から離れた場所に、金網で囲まれた屋外プールが見えた。まだこの季節は使われていないせいか、金網の周りには背の高い雑草が覆い茂っている。その金網近くにある花壇の縁に腰掛けて、右足のズボンを捲り上げる。
 
 上半身を折り曲げるようにして覗き込むと、右足首が赤く腫れているのが視界に入った。真っ赤という程ではない、咲き始めた梅の花弁のような色を微かに皮膚に滲ませている。人差し指で突っつくと、骨の芯に沁みるような疼痛が走った。痛みに眉を顰めて、震える息を吐き出す。流石に二階から飛び降りて、完全に無傷という訳にはいかなかったらしい。
 
 骨は折れてるのだろうか。それとも、ただの捻挫か。それすら判断する事ができず、健一はぢんぢんと痛む右足首を見下ろしたまま途方に暮れた。もしももう一度呑田に見つかってしまったら、この足では逃げ切ることができない。
 
 
「結局、便所行きかよ」
 
 
 自嘲混じりの独り言が唇から零れた。口角が微かに捻れて、何とも惨めな薄笑いが滲む。
 
 
「何が便所行きだって?」
 
 
 不意に、予期していなかった声が聞こえた。視線の先に、悟が立っていた。悟は、相変わらず冷酷さを思わせるほどの無表情で健一へと近付いて来ると、捲り上げられた右足のズボンをちらりと一瞥した。
 
 
「怪我をしたのか」
 
 
 その事務的な口調が酷く気に食わなかった。他人事のように言いやがって。手前が俺が二階から飛び降りるように誘導したんだろうが。ふつふつと腹の底から不満が沸き上がってくる。
 
 返事もせず苛立った表情で睨み付けていると、次の瞬間、思いがけず悟が健一の足下にそっと膝を落とした。その光景に、健一は酷く狼狽した。目の前の神経質そうな少年は、何があっても地面に膝を付くような人間には思えなかったからだ。
 
 
「足を出せ」
 
 
 普段ならば反発しかわかない悟の命令口調にも、健一は動揺した眼差ししか返せなかった。何故こいつは俺の足元に跪いているのだろう、という単純な疑問が込み上げてくる。
 
 唖然としたまま動かない健一を見て、悟が不機嫌そうに眉根を寄せる。その薄い唇から小さく舌打ちが漏れるのが聞こえた。だが、それらの苛立った仕草に反して、健一の右脛をそっとすくい上げる手付きは優しかった。悟の指先が腫れた右足首に軽く触れる。途端、突き抜けるような痛みが電流のように足全体に流れた。
 
 
「い゛ッ…!」
 
 
 鈍く悲鳴を上げているのに、悟の触り方には遠慮がなかった。指先が腫れた患部をぐにぐにと押し潰すように弄くる。まるでわざと痛みを与えようとしているような触り方だった。
 
 
「痛ぇ、だろうがっ!」
「骨は折れてなさそうだな」
「お前、人の話聞いてんのかよっ!」
 
 
 真上から怒鳴り散らしても、悟が戸惑う気配はない。熱を孕ませた患部をゆるゆると指先でなぞって、淡々と呟くばかりだ。
 
 ふと、それまで足首を見下ろしていた悟が視線を持ち上げる。その感情の乏しい眼差しに、健一は一瞬怯んだ。そういえば、悟とまともに視線を合わせたのはこれが初めてかもしれない。
 
 
「おそらく捻挫だろう。水道のところまで歩けるか?」
 
 
 訊ねられた言葉が耳を素通りして行く。悟の行動が予想外すぎて、健一は呆然とするばかりだ。口を半開きにさせたまま答えようとしない健一に、悟が小さく溜息を漏らすのが聞こえた。そうして、次の瞬間、悟は驚愕な行動を起こした。
 
 花壇に腰掛けていた身体がふわりと浮き上がる。足が宙に浮いているのが視界の先に映る。一瞬、健一は何が起こったのか解らなかった。だが、眼前に悟の顔が見えた瞬間、ようやく自分の身に起こった事を把握した。
 
 
「おっ、下ろせ!」
「五月蠅い。人の耳元でギャアギャア騒ぐな」
 
 
 五月蠅いのは嫌いなんだ。と悟が不愉快そうな声音で呟く。だが、健一も黙っていられなかった。あまりの事に唇がわなわなと震える。健一が今されているのは、所謂お姫様抱っこだった。年の変わらない、自分より細身の少年に、こんな恥ずかしい格好をさせられている現状に頭が真っ白になる。
 
 
「いいから下ろせよ! 巫山戯んな、こんな格好!」
「こんな格好も何も、君が怪我をするのが悪いんだろうが」
「それは、お前が…ッ!」
 
 
 言い返そうとした瞬間に、悟がゆっくりと歩き出す。矢張り細身の身体に、同年代の少年の体重は重たいのだろう。何処か覚束ない足取りだ。それでも一歩ずつ歩みを進めていく。
 
 悟が歩く度に、その振動が右足首に伝わってきて痛苦が身体に染み渡った。腫れた箇所は、ますます赤味を増して、膨れ上がっているようだった。足全体に広がり始めた疼痛に、唇が震えて何も言えなくなる。健一は下唇をきつく噛み締めて、悟の顔を見遣った。悟が眉間に深く皺を刻んで、小さく声を漏らす。
 
 
「重たい」
「…なら、下ろせばいいだろ」
「君がデブなんだ。痩せろ、今すぐ」
 
 
 真面目な顔で、何とも無茶苦茶な事を言う。その悟らしかぬ子供っぽい一言に、健一は少し身体の力が抜けるのを感じた。痛みに歪んでいた唇に、呆れたような笑みが微かに滲む。笑う健一を見て、悟が不可解そうに表情を歪めた。
 
 
「どうして笑ってる」
「別に」
「それは答えになっていない」
 
 
 はぐらかそうとしても、生真面目な奴はご丁寧に問い詰めてくる。ねめつけるような悟の視線を見返しながら、健一は小さく肩を竦めた。
 
 
「お前、案外バカだろ」
 
 
 健一の唐突な罵りに、悟が目を大きく開く。それから、ぽつりとこう返してきた。
 
 
「君よりかは馬鹿じゃない」
「五月蠅ぇな、バカ」
「馬鹿は君だ、馬鹿」
 
 
 水掛け論というか、段々と救いようのない言い合いになってきた。腹立たしさに腕の中で暴れてやろうかと思った時、辿り着いた水道の縁にそっと身体を下ろされた。細い指先が息が詰まりそうなぐらい丁寧な手付きで運動靴を脱がしていく。シューレースホールからするすると靴紐が引き抜かれていく様を眺める。運動靴が脱げた後は、真っ白な靴下を脱がされた。ざらついた繊維が爪先を滑る感触に、首筋がぞくりと戦慄く。
 
 柔らかい脹ら脛を掴まれて、腫れ上がった足首を蛇口の真下へと置かれる。そうして、火照った患部にちょろちょろと冷水が掛けられ始めた。瞬間、突き抜けるような痛苦が脳天に走る。
 
 
「ッ゛、ぅ」
 
 
 痛みを押し殺すように、健一は背中を丸めて呻いた。足を引っ込めようにも、悟が足の甲を掴んでいるから逃れる事もできない。健一はぎゅっと目を細めて、水流がまとわりつく足首を見つめた。冷水に晒されて暫く経つと、次第に熱が拡散されて、痛みが和らいでくるのを感じた。安堵の溜息を漏らしながらも、愚痴るように小さく呟く。
 
 
「お前が窓を開いた」
「それがどうした」
 
 
 事も無げに答えて、悟が健一を見上げる。その瞳には欠片の罪悪感も滲んでいない。悟は健一から視線を逸らすと、言葉を続けた。
 
 
「僕は、君に選択肢を一つ与えただけだ」
「二階から飛び降りるっていう選択肢を?」
「そう。選んだのは君だ」
 
 
 ぴしゃりと言い放たれる悟の言葉に、健一は緩く首を左右に振った。確かに選んだのは健一だ。だが、与えるにしてももっとマシな選択肢はなかったのか、と詰らずにはいられない。
 
 悟が淡々と言葉を続ける。
 
 
「僕は、君がどうなろうが興味がない」
 
 
 酷く冷酷な一言だった。だが、その言葉には微かな孤独が滲んでいた。
 
 
「じゃあ、何でこんな事する」
 
 
 冷水に晒された足首を指さして、健一は問い掛けた。責める口調ではなく、ただただ悟の行動が奇妙で理解できない故の問いだった。何故わざわざこんな面倒な真似までして、どうでもいい相手の手当てをするのかと。
 
 健一の質問に対して、悟は微かに唇を歪ませた。ほんの僅かな冷笑が浮かぶ。
 
 
「君が苛められて便所に流されようが、屋上から飛び降りようが、生きてても死んでてもどっちでもいい。だが、死体になっても家には連れて帰る。僕には、真澄叔父さんとの約束を守る義務がある」
 
 
 酷く堅苦しい口調で悟は呟いた。その盲目的なまでの言葉に、健一は微かな違和感を抱いた。
 
 
「何で、そこまであいつとの約束に拘んだよ」
「自由のためだ」
 
 
 そのロボットのような面に強烈に似合わない単語を、悟は言い放った。健一は一瞬ぽかんと唇を半開きにして、悟の冷たいくらいの無表情をまじまじと見詰めた。だが、『自由』という言葉を数回頭の中で反芻している内に、むかむかとした気分の悪さが胸の奥から込み上げて来るのを感じた。
 
 
「自分の自由のために、俺を不自由にするのか?」
 
 
 吐き捨てるように呟くと、悟は切れ長な瞳を更にすぅっと鋭利に細めた。
 
 
「君がどう思おうが勝手だ。僕には僕のやるべき事がある」
 
 
 素っ気なく言い切ると、悟は掴んでいた健一の爪先からそっと手を離した。言葉に反して、その手付きが優しいのが酷く奇妙に思えてならない。悟は濡れた手をハンカチで拭うと、ポケットから携帯電話を取り出して健一を見遣った。
 
 
「横田を迎えに寄こす。今日は家に帰れ」
 
 
 告げられた言葉に、健一は顔面を盛大に歪めた。家なんかじゃない、と呟いた健一の掠れた声に応えず、悟は視線を逸らして携帯電話を耳に押し当てた。
 
 

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