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06 ゆり子

 
 校門の前に横付けされていたベンツが見えた。ヤクザという人種は、いっそ宗教的と思えるほどベンツを乗り回している。ベンツに乗るというのが、組にとって一種の力の誇示にもなっているのかもしれない。だが、健一にとっては黒塗りのベンツというのは、ただ悪目立ちするだけの不愉快の乗り物でしかなかった。
 
 悟に肩を貸してもらいながら、ひょこひょこと右足を引き摺ってベンツへと近付く。後部座席の扉のすぐ側に見覚えのある巨体が立っているのが見えた。
 
 
「お疲れ様です」
 
 
 膝を折って、横田が挨拶を口にする。その姿を憎々しく眺めながら、健一は冷たく返した。
 
 
「横田、俺はこの車で迎えに来るなって言ったよな」
 
 
 こんなヤクザ丸出しの車で学校に送り迎えされるなんて冗談じゃない、という理由で、中学入学時に健一は横田にベンツで送迎するなという厳命を下していた。健一の詰問するような声音に、横田が一瞬眉尻を下げる。そうすると厳つい男の面に、何とも言えない哀愁が滲んだ。
 
 
「申し訳ございません。…真澄さんがこの車で迎えに行けと自分に命じられまして…」
「あいつが?」
「最初に見せつけておいた方が…、健一さんがどういうお方なのか解りやすいだろうと」
 
 
 ばつが悪そうに語る横田の視線が校舎の方へと向けられる。肩越しに振り返ると、校舎の窓から健一達を見つめる無数の顔が視界に入った。誰も彼もが好奇心に満ちた眼差しで『ヤクザの愛人』を観察している。それを感じ取った瞬間、再び健一の眼球の奥で憤怒の炎が燃え上がった。あの男は、どこまでも健一を孤立させないと気が済まないらしい。
 
 怒りのあまり吐き出す息が震える。身体を支えていた悟の肩を突き飛ばすと、健一は校庭前に作られた花壇に転がっていた掌大の石を手に取った。それを握り締めたまま、車のフロント側へと足を引き摺りながら向かう。そうして、譫言のようにこう呟いた。
 
 
「俺がどういう人間かって?」
「健一さん」
「じゃあ、教えてやろうじゃねぇか」
 
 
 吐き捨てるのと同時に、健一は石を握りしめた拳を大きく振り上げた。それをフロントガラスへと目掛けて一気に振り下ろす。ガギッという鈍い音が響くのと同時に、叩き落とされた石を中心にしてフロントガラスに蜘蛛の巣状の罅が入るのが見えた。だが、防弾性なのかガラスは砕けることもなく、穴があくこともなかった。
 
 先端が砕けた石を、無造作に地面に放り投げる。石を握り締めていた掌は薄っすらと皮膚が剥げて血が滲んでいたが、痛みは感じなかった。悲しげに表情を歪めた横田をきつく睨み付ける。
 
 
「次に舐めたこと言いやがったら、手前の腹にもう一回穴を空けてやる」
 
 
 噛み付くような健一の声音に、横田の表情がますます歪んでいく。まるで哀れむようなその面が憎らしい。お前だって、結局は吾妻の仲間のくせに。憎悪に尖っていく健一の顔を見つめたまま、横田は弱々しく頷いた。 
 
 
 悟が呆れたように肩を竦めているのが見える。その仕草にも容易く怒りは煽られて、怒鳴り散らそうと口を開き掛けた瞬間、不意にベンツの後部座席のドアが開いた。ベンツの中からそっと身体を覗かせたのは、穏やかに微笑む少女だ。丸みを帯びた柔らかい輪郭に、頬に浮かぶ大きめのえくぼ、肩より少し下まで伸びた髪は左右でおさげに結われている。背は健一よりも数センチ高く、歳も少し上に見えた。
 
 思わず唇が半開きになった。その少女の顔は、以前見たことがある。悟が苦々しく顔を歪めて「姉さん」と呟く声が聞こえた。
 
 
「お久しぶりです。お会いするのは、去年ぶりですね」
 
 
 少女のぷっくりとした唇から軽やかな声が零れる。健一は一度瞬いてから、ゆっくりと唇を開いた。
 
 
「爺ちゃんの遺言が読まれた時に」
「はい。私と悟と実の兄弟三人で参席しました」
 
 
 そうだ。去年の秋頃、吾妻の父親が死んだ時に、この少女とは会っている。遺言状が読まれた席で、足の痺れた健一にこの少女は『大丈夫?』と声もなく訊ねてくれたのだ。
 
 
 不思議そうな眼差しで凝視する健一を眺め返したまま、少女はぺこんと小さく頭を下げた。何の媚びもてらいもない酷く自然なお辞儀だった。
 
 
「私、吾妻ゆり子って言います。ゆっこって呼んで下さい」
「はぁ、ゆっこ」
 
 
 ゆり子から言われたあだ名を痴呆症の爺のようにただ意味もなく繰り返す。あだ名で呼ばれたことが嬉しかったのか、ゆり子がふわりと笑みを深める。
 
 
「はい、これからよろしくお願いしますね」
「はぁ?」
 
 
 よろしくの意味が解らず顔を顰める健一を、ゆり子は酷く長閑な表情で見返した。まるで、まだ物を知らない赤ん坊を見るような柔らかい眼差しだ。だが、次の瞬間ゆり子の口から出てきたのは、その表情とはまったく真逆の言葉だった。
 
 
「きっと、これから私たち争わなきゃいけないと思うんです。もしかしたら、殺し合わなくちゃいけないかもしれません」
 
 
 一瞬、現実感がなくなった。唖然としたまま、ゆり子の顔を見つめる。突然現れた上に、一体何を言い始めてるんだこの女は。今日の晩ご飯何にしようか困ったわ、とでも言いたげな仕草で、ゆり子が頬へと掌を押し当てて小首を傾げる。
 
 
「会ったばかりなのに、いきなりこんなこと言ってごめんなさい。でも、最初にきちんと言っておかないとフェアじゃないと思って」
「フェアもなにも、殺し合うってどういう事だよ」
 
 
 健一の動揺の声に、ゆり子が曖昧に微笑む。笑っているのに、何処か薄ら寒い感じがする微笑だった。唇を開き掛けたゆり子を制止するように、横田がベンツの後部座席を開く。
 
 
「健一さんもゆり子さんも、どうか続きは中でお話下さい」
「あら、外で話すのは駄目だった?」
 
 
 驚いたようにゆり子が唇へと掌を押し当てる。その演技がかった行動が少女の印象を、少しずつ奇妙に歪ませていくような感覚に襲われた。
 
 
「じゃあ、中で話しましょう? ほら、悟も来なさい」
 
 
 まるで母親のような口調で、ゆり子が悟へと声を掛ける。その呼びかけに、悟は微か不機嫌そうに眉根を寄せた。
 
 
「僕は、まだ授業がある」
「授業と命とどっちが大事なの?」
 
 
 笑える台詞だと思った。授業と命を同列に並べるなんて馬鹿馬鹿しい。だが、悟はにこりとも笑わず、当たり前のようにこう答えた。
 
 
「授業」
 
 
 そう言い放つなり、校庭を横切って校舎の方へと足早に歩き出してしまう。その後ろ姿を呆然と眺めていると、隣でゆり子が高らかに声を上げるのが聞こえた。
 
 
「悟! 生まれた家からは逃げられないのよ! 逃げずにきちんと向かい合いなさい!」
 
 
 それは叱責というよりも忠告のように健一には聞こえた。悟は振り返りもしない。ゆり子は暫く弟の背中を眺めた後、ふぅと小さく溜息をつくと健一へと向き直った。
 
 
「それじゃ、行きましょう?」
「何処に」
「病院に。それから、貴方の家」
 
 
 微笑みながらも有無を言わせないゆり子の口調に、それは俺の家じゃないと否定することも出来なかった。開かれたベンツの扉がまるで暗い洞窟へと続く長い道のように見えた。
 
 

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