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08 実

 
 病院での診察の後、健一は、横田とゆり子と共にマンションへと戻った。
 
 右足首はギプスで厳重に固定され、その上一週間はこれを使って歩くようにと松葉杖まで渡された。初めて使う松葉杖に慣れず、カクカクと機械のようにぎこちなく歩いている健一を見かねて横田が背中におぶりましょうかと申し出てきたが、健一はそれを一笑に付した。例え横田の言葉が純粋な善意だとしても、吾妻の犬の手など借りたくもなかった。
 
 悲しげな横田の顔を見たくなくて、もうお前は付いて来るなと命じてからマンション最上階の部屋へと向かう。そうして、部屋へと入った瞬間、喧しい大絶叫が鼓膜をビリビリと震わせた。
 
 
「サイコーレンジャー、発進ごーごーごぉー!!」
 
 
 反射的に松葉杖を持っていない方の手で片耳を塞ぐ。その絶叫の後、ばたんばたんと何かが落ちる音が続け様に聞こえた。聞き覚えのない子供の声に訝しさを感じながらも、健一はリビングへと向かって足を進めた。
 
 そうして、リビングの現状を見た瞬間、呆気に取られた。出る前は整然と整っていたはずの部屋が今は物取りにでもあったかのように滅茶苦茶に荒らされている。棚の上に置いてあった物は軒並み床に落とされていて、ベランダ側の大きな壁はひび割れていた。観葉植物が倒れたせいで床は土まみれで、その上オレンジジュースを零したのか白かった絨毯は今では鮮やかな橙色に染まっている。テレビには、最近子供に人気な戦隊ヒーロー物の特撮が大画面で映っていた。
 
 あまりに酷い部屋の現状に言葉を失っていると、ソファの上でポテトチップスの袋片手に飛び跳ねていた子供がくるりと振り返った。
 
 
「あっ! あいじんだ!」
 
 
 まだ小学校に入ったばかりくらいに見える幼い少年だった。その無邪気な表情だけで周りから甘やかされて育てられたのが判る。少年はポテトチップスを撒き散らしながらソファから飛び降りると、呆然と立ち尽くす健一へと小走りに近付いてきた。
 
 
「あいじん、どうしたんだその杖!」
 
 
 邪気なく愛人と喚く子供の姿に、健一は怒りを覚える前に唖然とした。一体、この無神経なガキはどこのどいつだ、と思う。だが、よくよく見れば、見覚えのある顔だった。遺言状の席で、ゆり子と悟と並ぶようにして座っていた子供だ。
 
 斜め後ろに立っていたゆり子がそっと窘めるように声をあげる。
 
 
「実、静かにしなさい」
「なんでだ! ますみは、おれのすきにしていいって言ったぞ!」
「だからって、人様の家をこんなめちゃくちゃにしちゃ駄目でしょう?」
「おれがクミチョーになったら、ぜんぶおれのもんじゃん! おれのもんをすきにして、何がわるい!」
 
 
 躾のなっていない小型犬のようにきゃんやんと喚き返してくる実に、ゆり子が弱り切ったように眉尻を下げる。頑是無い弟の扱いのほとほと困り果てている様子だ。その姉弟の様子に、健一は心底呆れた。自分が世界の中心であると疑いもしていない馬鹿ガキと、正統な血筋を引いていない負い目から弟を叱れない姉なんて、何とも滑稽な関係だ。
 
 阿呆らしい姉弟の遣り取りを無視して、健一は松葉杖をつきながら自室へと向かい始めた。直ぐさま背後から実の金切り声が響いてくる。
 
 
「おい、あいじん! おれのことムシしてんじゃねえ!」
 
 
 鼓膜にキンキンと突き刺さるような声に、いい加減苛立ってきた。放っておいて欲しいだけなのに、どいつもこいつも健一に干渉してきやがる。健一は振り返らないままに、短く吐き捨てた。
 
 
「五月蠅ぇ、ぎゃあぎゃあ喚くな」
「あぁん!? おれをだれだと思ってるんだ!」
「馬鹿で脳味噌足りねぇガキだろうが」
 
 
 ふっ、と鼻先で嘲りながら健一は言い放った。自室の扉へと手をかけて開こうとする。だが、次の瞬間、突然松葉杖の先端が床を滑った。支えを失った身体がぐらりと傾いて、そのまま肩から床へと転倒する。途端、右肩に鈍い痛みが走って、健一は顔を歪めた。左手で右肩を押さえながら、視線を持ち上げる。そうして、理解した。実が右足を振り凪いだ格好のまま、きつく健一を睨み付けている。おそらく、背後から松葉杖を蹴り飛ばしたのだろう。
 
 
「だれがバカだっ! だれがノーミソたりねぇだ! もっかい言ってみろっ!」
「お前のことだ糞ガキ」
 
 
 痛みで歪みそうになる顔を平静に保ったまま、健一はもう一度吐き捨てた。繰り返される罵りに、実の顔が見る見るうちに赤く染まっていく。その様子を見ていたゆり子が慌てたように声をあげる。
 
 
「実、いい加減にしなさい!」
「うるさいっ! あいじんなんかにバカにされてだまってられるか! おれはクミチョーだぞ! おれがイチバンえらいんだぞ! こんなヘンタイやろう、ぶっころしてやる!」
 
 
 稚拙な悪態だ。きっと普段だったら聞き流せる筈だった。ガキが阿呆なことをほざいてると鼻で嗤えば済む話だった。それなのに、唐突に脳味噌の奥で何かが千切れる音が聞こえた。呑田に蔑まれ、ゆり子に敵意を向けられ、その上こんな子供にすら見下されなくてはならないのか。巫山戯るな、手前らは人のことをサンドバッグとでも思ってるのか。
 
 
「ぶっ殺す?」
 
 
 そう問い返す自分の声が遠く聞こえた。まるで鼓膜に水でも入ったかのような感覚だ。薄く嗤う健一の表情に気付いたのか、ゆり子がはっとしたように表情を変えるのが見えた。ゆり子の手が弟へと伸ばされる。その手よりも早く、健一は実へと一気に飛び掛かった。自分よりも小さな身体を床へと叩き付けて、突然のことに目を白黒させる実の顔を真上から覗き込む。
 
 
「出来るもんなら、やってみろよ」
 
 
 そう甘く囁くのと同時に、健一は掌を振り上げた。それを柔らかい頬へと目掛けて、一気に振り下ろす。風を切る音と同時に、実の頬がパァンと甲高い音を立てた。
 
 
「ぎゃっ!」
 
 
 掌がぢんと痺れるような感覚と共に、実の唇から悲鳴が漏れる。子供の高い叫びを聞きながら、健一は今しがた実の頬を張った手の甲で、反対側の頬を張り飛ばした。再び鋭い破裂音が響く。赤く腫れていく子供の頬を見ながら、健一は紛れもない笑みに表情を崩した。
 
 
「なぁ、殺すんだろ? 殺したいなら殺せよ。ほら、ほら」
 
 
 掛け声のように言葉を発しながら、何度も子供の頬を殴り付ける。その度に実の唇からは、小気味いい悲鳴が漏れた。それが酷く面白かった。叩くと言葉を喋るオモチャで遊んでいるような気分だ。
 
 
「いたぃ! イタいぃっ!」
「やめて! まだ子供なのよ!」
 
 
 実な悲痛な泣き声に混じって、ゆり子の痛ましい訴えが聞こえてくる。健一は振り上げた手を止めて、静かにゆり子を見遣った。
 
 
「子供だから何?」
 
 
 酷く淡泊な健一の問い掛けに、ゆり子が息を呑む。そうして、ゆり子は口篭もるように唇を揺らした後、掠れた声で答えた。
 
 
「子供だから、許してあげて下さい…」
「イヤ」
 
 
 いたいけな哀願を、健一は一息に撥ね除けた。威嚇するように鼻梁に皺を寄せて、ゆり子を睨み付ける。
 
 
「子供だから許してって何だよ。そんな理由で、お前はこんな糞ガキを叱りもせず、野放しにしてきたのかよ。こいつも馬鹿だけど、お前の方がもっともっと馬鹿だ」
 
 
 吐き捨てられた健一の言葉に、ゆり子の身体が一気に硬直する。少女の顔が泣き出しそうに歪むのを見る前に、健一は真下にある実の顔を見下ろした。実の頬は今は両頬とも真っ赤に染まって、その丸い瞳からは大粒の涙がぽろぽろと溢れ出している。その表情に先ほどまでの傲慢さは残っていない。突然の暴力に怯え、打ちひしがれている子供のものだ。
 
 その哀れな顔を見下ろして、健一は自分の胸が小さく痛むのを感じた。まるで自分自身を見ているような気分に陥ったからだ。吾妻に攫われたばかりの幼かった自分を痛めつけているような、酷く最低な気分だった。
 
 鼻血を垂らしながらえぐえぐと泣きじゃくる実の胸倉を掴む。そのまま上下にぐらぐらと揺さぶりながら、健一はその顔を間近で見据えた。
 
 
「この部屋荒らしたのは誰だ?」
「…お、お゛れ…っ」
「俺にぶっ殺すって言ったのは?」
「…おれ゛、ぇ…」
「こういう時、何て言わなきゃいけないか解るか?」
 
 
 単純な問い掛けの筈なのに、実は皆目検討も付かないようにパチパチと瞬いた。本気で、その言葉が解っていない表情だ。きっと産まれてから一度もそんな言葉を使ったことがないのだろう。
 
 
「ごめんなさい」
「…ぇ?」
「ごめんなさい、だろうが」
 
 
 涙で濡れた瞳を見詰めたまま、健一は言い聞かせるようにゆっくりと呟いた。実が唖然としたように健一を見上げている。茫然自失な実の表情を見返して、健一は顔を憎々しく歪めた。
 
 
「さっさと、ごめんなさいって言えッ!」
 
 
 叩き付けるような健一の怒声に、実がビクリと全身を震わせる。そうして、強張った唇をそろそろと開いて、か細い声で囁くように漏らした。
 
 
「ご、…め゛んなさ…ぃ…」
 
 
 殆ど泣き声に近い謝罪の言葉を聞いた瞬間、健一は掴んでいた実の胸倉から呆気なく手を離した。右足首が痛むのを感じながらも、ゆっくりと立ち上がる。途端、ゆり子が実へと駆け寄って、仰向けに倒れた小さな身体を助け起こすのが見えた。
 
 実は鼻血を垂れ流したまま、相変わらず呆然とした表情で健一を見上げている。あどけなくも見える実の表情を見返して、健一は小さく呟いた。
 
 
「ごめん」
「…ふ、ぇ?」
「俺も殴って、ごめん」
 
 
 謝っているとは到底思えないくらい素っ気ない言い方で謝罪の言葉を漏らす。健一の謝罪に、実が目を丸くするのが見えた。
 
 これで喧嘩も終わりだろうと思って、健一は転がった松葉杖を拾おうと背を屈めた。だが、掴みかけたところで、ひゅっと掌から松葉杖が離れていってしまう。怪訝に視線を持ち上げると、膝立ちになった実が松葉杖を両腕に抱き締めて健一を凝視しているのが見えた。
 
 
「あ゛ぁ? まだ喧嘩してぇのか?」
「おれ゛…」
 
 
 健一の威圧的な口調に怯むこともなく、実は譫言のように「おれ…、おれ…」と漏らしながらそっと立ち上がった。涙で濡れているせいか、健一を見つめる実の瞳がキラキラと輝いて見える。
 
 
「おれ…」
「だから、俺が何だよ?」
「おれ、おまえ好きかも!」
 
 
 思わず、ずっこけそうになった。唐突すぎる実の告白に、健一は言葉を返すこともできず呆然とした。唇を半開きにしたまま、先ほどよりも活き活きとしている実の顔を眺める。
 
 
「ちょっと、実、何言ってるの」
「おまえのこと気にいった! おれのヨメにしてやる゛から、ありがたく思えっ!」
 
 
 ゆり子の困惑の声を無視して、実は訳の分からない言葉を叫び続けている。一体何がどうなって好きという思考に至ったのか、理解不能もここまで来たらいっそ笑えてくる。頭の奥が鈍く痺れるのを感じながら、健一は「勘弁してくれ…」と呻く自分の声を聞いた。
 
 

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