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09 家庭教師

 
「どうしたの、それ」
 
 
 というのが、帰宅した吾妻の第一声だった。その唖然とした声音に苛立ちを感じながら、健一は不機嫌さを隠しもせず吾妻を睨み付けた。
 
 
「どうしたも何も、お前の甥っ子だろうが」
 
 
 吾妻の視線は、ソファーに座る健一へと向けられている。更に詳しく言えば、健一の腰にタコのようにべったりと絡み付いている子供へと。脇腹にぐりぐりとコメカミを擦り付けられるのがくすぐったくて、健一は片手で実の頭を鷲掴んだ。そのまま、べりっと脇腹から頭を引き剥がしてしまう。途端、実が不満げに声をあげるのが聞こえた。
 
 
「なにすんだよぉ!」
「べたべたすんな、ウザってえ」
 
 
 冷たく言い放っても、実の表情は上機嫌なままだ。頬はまだ叩かれた赤味を残したままだと言うのに、口元だけがふにゃりと緩んでいる。その口元から、ひひ、と不気味な笑い声が小さく零れた。
 
 
「おれ、おまえみたいなの何ていうか知ってるぞ」
「はぁ?」
「つんでれ、っていうんだろ?」
 
 
 空いた口が塞がらないとはこの事だ。健一の顔を見詰めたまま、ふへへ、とだらしなく笑う実の顔に苛付いて、無意識に右手がその頭を張り飛ばしていた。べしっと頭を打ち付ける掌の感触に、実がいてぇっと大袈裟な悲鳴を上げる。
 
 
「なんで叩くんだよ! おれは、おまえの夫だぞ! 夫にやさしくしろぉ!」
「誰が夫だ、阿呆」
「あほって言うなぁ!」
 
 
 ぎゃんぎゃんと喚き散らす子供の姿に、心底辟易する。いきなり好きだと言ってきたり、嫁だの夫だの主張してきたり、この子供は頭がどうかしているとしか思えない。
 
 こういう時に姉であるゆり子が実の暴走を押さえるべきだと思うのに、ゆり子は迎えに行かなきゃいけない人がいると言って数十分前に出かけてしまった。勿論ゆり子は実も一緒に連れて行こうとしたが、『おれはヨメと一緒にいる!』という実の意味不明かつ強固な主張によって、それを断念してしまった。結局、ゆり子は弟に甘すぎるのだ。
 
 健一に叩かれた頭を撫でながら、実がぶつぶつと愚図るように呟く。
 
 
「でも、ゆるしてやる。おとうさんが、ごくどうのヨメは気がつよい方がいい、って言ってからな。ほれたオンナはだいじにしろ、とも言ってたし」
「そもそも、俺は女じゃない」
「おれは、そういうこまかいことは気にしないからアンシンしろ」
 
 
 全然細かくないだろう。むしろ一番重要なところじゃないのか。と小一時間ぐらい説教してやりたくなる。だが、再び子犬のように健一に擦り寄り始めた子供に、そんな事を言っても無意味なのは解り切っていた。
 
 ソファーへと凭れ掛かって、重苦しい溜息を吐き出す。それと同時に、それまで立ち尽くしていた吾妻が口を開いた。
 
 
「健一が嫁ってどういうこと?」
 
 
 その問い掛けに、一瞬身体がギクリと強張るのを感じた。吾妻の声音は、怒りも焦りも滲ませていなかった。酷く淡々とした問い掛けは、いっそ虚無的にすら感じる。だからこそ余計に、穏やかならぬ吾妻の内心が伝わってくるようだった。
 
 硬直する健一に対して、実は事の深刻さにまったく気付いていない。ぱっと顔を上げると、無邪気な様子で吾妻へと言い放つ。
 
 
「ますみ! これ、おれにちょうだいっ!」
「これって?」
「けんいち!」
 
 
 高らかに漏らされる台詞にひやりと肝が冷える。へぇ、という短い相槌と共に、伏せられた視界に吾妻の両足が入ってきた。健一の目の前にそっと立ち尽くしている。別にどうという事はない、極自然な動作だ。それなのに、健一は俯いたまま視線を上げられない。吾妻が今どんな表情をしているのか、見るのが恐ろしかった。指先から薄く体温が抜けて、小さく戦慄く。
 
 
「健一が気に入ったの?」
「うん! おれのヨメにする!」
 
 
 もう、それ以上言うなと叫びたかった。酷い目にあわされる前に、その巫山戯た冗談を撤回しろと実の身体を揺さぶってやりたかった。だが、唇が動かない。じっくりと染み付けられた恐怖が健一の身体を動かなくさせる。
 
 
「実は、健一のことが好きなんだね」
 
 
 独りごちるような吾妻の声音が聞こえるのと同時に、すっと視界の端を吾妻の白い手が横切った。その手は、真っ直ぐ実へと向かって伸ばされている。実は、近付いてくる叔父の手を不思議そうに見つめていた。
 
 その光景が視界に映った瞬間、健一は反射的に、実の身体を自身の背後へと勢いよく押しのけていた。健一の身体とソファーの背凭れにきつく挟まれて、実が、うぐっ、とくぐもった声を漏らすのが聞こえる。だが、今は実に構っている余裕はなかった。実を背後に隠したまま、手を伸ばした形のまま止まった吾妻を、下唇を噛んで睨み付ける。吾妻は、薄く微笑んでいる。口元は笑っているのに、眼鏡の奥の瞳は寒気が走るほど冷たく凍えていた。
 
 
「健一、いきなりどうしたの?」
 
 
 白々しくも訊ねてくる吾妻を、健一は下唇を噛んだまま睨み付けた。
 
 
「お前こそ何する気だ」
「何を? 健一は、僕が実に“何か”するとでも思ってるの? 実は、可愛い甥っ子だよ」
「真昼はお前の妹だったぞ」
 
 
 自分が実の妹に何をしたのか忘れたわけじゃあるまい。殺して吊し上げるという残虐非道な真似をしておきながら、今更吾妻の心に『親族の絆』なんてものが存在するとは思えなかった。妹を殺しておいて、甥っ子を殺さないという保証はない。
 
 吐き捨てられた健一の言葉に、吾妻の表情が微か寂しげに歪む。口元は笑っているのに、目尻は情けなく垂れ下がっている。いつも通りの、吾妻の泣き笑いの表情だった。
 
 
「健一が悪い」
「は?」
「ぜんぶぜんぶ、健一が悪いんだ」
 
 
 まるで子供のように責任転嫁の台詞を繰り返して、吾妻が弱々しく笑う。その疲れたような笑顔を見上げて、健一は不快感に顔を歪めた。
 
 
「人のせいに…」
「けんいち、せまい! くるしいっ!」
 
 
 言い掛けた言葉が甲高い子供の声で遮られる。こっちの気も知らず、実は健一の背中をぽすぽすと叩いては不平不満を喚き散らしてくる。押さえつける力を弱めると、実が健一の肩からぷはっと顔を覗かせた。吾妻の悲しげな顔を見て、実は不思議そうに瞬いている。その表情を見つめて、吾妻は掠れた笑い声を漏らした。笑っているのか泣いているのか判断に困る、酷くか細い笑い声だった。
 
 吾妻が所在なく漂っていた手を伸ばして、実の頭を数度柔らかく撫でる。何処かぎこちない、壊れ物を触るような怯えた手付きだった。
 
 
「実、ごめんね。健一は、あげられないんだ」
「え、なんでだよっ!」
 
 
 吾妻の言葉に、実が健一の肩からぐっと身を乗り出して問い掛ける。それに対して、吾妻は弱々しく笑うばかりだ。
 
 
「ごめんね」
「なんで、なんでなんでっ! おれがほしいって言ってんのに、なんでダメなんだよっ!」
 
 
 自分の主張が通らないのはおかしいとばかりに喚き散らす実を眺めて、吾妻が困ったように首を傾げる。そうして、少し泣き出しそうな声でこう答えた。
 
 
「僕も健一が好きだから、どうしてもあげられないんだ」
 
 
 一瞬、背筋がぞっと戦慄いた。あれだけ人に畜生な真似をしておきながら、好きだなんて清廉な言葉を吐ける吾妻に悪寒が走る。好きだと言われるぐらいなら、犯したいからだとか、殴りたいからだとか、そういう薄汚い言葉を告げられる方がよっぽどマシだった。こんな醜悪な関係を『好きだから』なんて甘ったるい言葉を定義付けられるのは堪らなく気色悪い。
 
 それなのに、吾妻の表情は途方に暮れた子供そのものだ。自分の感情を持て余しているような、戸惑いの表情だった。ぎこちない指先に頭を撫でられながら、実は吾妻をじっと見上げている。吾妻は数度祈るように実の頭を撫でた後、ゆっくりと掌を離した。
 
 
「ますみも、けんいちがすきか」
「うん、大好きなんだ」
 
 
 ぽつりと呟かれた実の一言に、吾妻が幼子のように頷きを返す。吾妻の瞳がそっと健一へと向けられる。縋り付くような吾妻の眼差しに、不意に息が止まりそうになった。嫌悪と共に沸き上がってくるのは、微かな哀れみだ。まだ、この男は健一に愛されたがっているのか。どう足掻いたって、一生愛されないことくらい解っているだろうに。
 
 
「本当に愛してもいないのに、愛されるわけがないだろうが」
 
 
 小さく吐き捨てる。吾妻の虚構を打ち崩そうとする健一の言葉に、吾妻が傷付いた表情を微かに滲ませた。だが、その哀しみの表情は、頬に浮かぶ追従の笑みに直ぐに飲み込まれる。吾妻は、悲しい時に純粋に悲しい顔をする事が出来ない。その逆も然りだ。楽しい時に笑えない。辛い時に泣けない。吾妻の感情のベクトルはちぐはぐな方向へと向かうばかりで、決して正常な反応を返すことはなかった。
 
 吾妻の微笑みを見ていると、腹の底がむかむかしてくるのを感じた。まるで継ぎ接ぎだらけの仮面でも見ているかのような不快感に襲われる。ざわりと込み上げてくる憎悪のままに口を開きかけた瞬間、リビングの扉が開く音が聞こえた。
 
 開かれた扉から見えたのは、ゆり子と悟の顔だ。だが、その後ろにもう一つ人影が見えた。そののっぺりとした能面やすっと通った美しい鼻筋には覚えがあった。
 
 
「パクヒョル!」
 
 
 咄嗟にソファから立ち上がって、健一は高らかな声を上げた。健一の声を聞いて、パクヒョルが口元をほのかに緩ませる。
 
 
「こんにちは」
「どうして此処にいるんだ? 警察に捕まってなかったのか?」
 
 
 パクヒョルの傍らまで走り寄って、口早に問い掛ける。パクヒョルはゆっくりと瞬いた後、健一へと深々と頭を下げた。
 
 
「貴方のおかげ」
「あなた?」
「そう貴方、健一サン。貴方が私助けろと言った。だから横田サン、私のためにたくさん動いてくれた。私、警察から出すのにオカネたくさん必要だった。警察に、たくさんソデノシタをしました」
「ソデノシタ?」
「賄賂のことだよ」
 
 
 首を傾げる健一を見て、吾妻が横槍を入れてきた。ソファの肘掛けに腰を下ろしたまま、吾妻が片手を持ち上げてパラパラと札束をばらまく仕草を入れる。その動作を眺めて、健一は薄く目を細めた。
 
 
「それを、横田が?」
「はい。横田サン、約束は守ると言ってました」
 
 
 パクヒョルの説明を聞いて、健一は微かに眉尻を下げた。健一に約束した通り、横田はパクヒョルを助けるために尽力してくれたのだ。そんな横田に対して、先ほど健一が取った態度は決して誉められたものではなかった。酷い態度を取り、フロントガラスを叩き割ったのだ。
 
 込み上げてきた罪悪感が健一を俯かせる。視線を伏せたまま、健一は小さく相槌を返した。
 
 
「そっか。でも、また会えてよかった」
「はい。私も貴方に教えることできて、とても嬉しい」
 
 
 その一言に、健一は伏せていた視線を持ち上げた。不思議そうな眼差しでパクヒョルを見つめる。
 
 
「教える?」
「そう。最初は何が宜しい? バカラ? BJ? もいちどポーカー? ルーレットも出来るよ」
「ちょっと待って。一体何言ってんの」
 
 
 パクヒョルの唇から次々に溢れ出る単語に、健一は酷く困惑した。制するように声を上げると、パクヒョルの形のいい唇はピッタリと閉ざされた。その代わりのように言葉を発したのは、にやにやと気味の悪い笑みを浮かべた吾妻だ。
 
 
「健一、パクヒョルは家庭教師だよ」
「は、家庭教師? 何の?」
 
 
 未だ現状を把握していない健一を、悟が冷めた眼差しで眺めている。
 
 
「君は馬鹿か。パクが教えるのなんて一つだけだろうが」
 
 
 投げ掛けられる蔑みの言葉に、健一は不機嫌そうに鼻梁を寄せた。横目で悟をねめつける健一を見て、吾妻が小さく肩を揺らして笑っているのが見える。そのまとまらない空気を締めるように最後に声をあげたのはゆり子だった。
 
 
「さっ、早く始めましょう。手慣らしに、最初はBJでいいでしょ。ほら、実起きてっ。お勉強の時間よ」
 
 
 ソファでだらけだしていた実へと声を掛けて、ゆり子がきびきびと動き出す。お勉強と聞いた途端、実は不満げな声をあげた。
 
 
「えー、おれ勉強きらいー」
「そんなこと言っちゃ駄目よ。ちゃんと博打のお勉強しないと、いい組長さんにはなれないんだからね」
 
 
 何とも浮き世離れた言葉だ。『博打のお勉強』だなんて、浮き世離れたというか、奇妙すぎて滑稽と言おうか。口元に引き攣った苦笑いを浮かべながら、健一はパクヒョルへと視線を向けた。パクヒョルは数度瞬いた後、にっこりと艶やかな笑みを浮かべた。
 
 
「貴方、強くなる。私、保証します」
 
 
 微笑むパクヒョルに、そんな保証をされても嬉しくない、とは言えなかった。
 
 

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