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11 悪党

 
 半ば放心状態のまま肩越しに振り返ると、吾妻が柔らかな笑みを浮かべているのが見えた。
 
 パクヒョルが反対方向へと折れ曲がった人差し指を押さえながら、微か苦痛の滲んだ眼差しで吾妻を見遣る。
 
 
「…組長サン」
「僕は、お前に健一の家庭教師をさせる事は許した。だが、健一に触れることまで許したか?」
「…申し訳——」
「ア゛ぁ? 謝罪なんか聞いてねぇんだよ。許したか許してねぇかを聞いてんだよ。手前は言葉も解んねぇのか、腐れ低脳犬が」
 
 
 朗らかな微笑みにそぐわぬ下劣な台詞を吐き捨てながら、吾妻がパクヒョルの前髪を鷲掴む。そのまま、殆ど脳天を叩き割るような勢いで、パクヒョルの頭部を机へと叩き付けた。ゴヅッ、と重たい音が響いた瞬間、健一の皮膚は音を立てて総毛立った。
 
 
「やっ…!」
「やめろ、って言ったら、こいつを殺す」
 
 
 叫び掛けた言葉が冷たい声に叩き落とされる。吾妻はパクヒョルの後頭部を押さえつけたまま、微かに寂しげな眼差しで健一を見下ろしていた。
 
 
「健一は、いつだって他人を庇うんだね」
「別に、庇ってなんか…」
「じゃあ、こいつは殺してもいいよね。大丈夫、家庭教師なら幾らでもいるよ。こいつは豚の餌にでもして、次は腐れ犬よりかはマシな奴を使うことにしよう」
 
 
 打って変わって明朗な声になった吾妻がパクヒョルの項へと、もう片方の掌を伸ばす。健一は、咄嗟にその腕へとしがみ付いた。吾妻の片腕を取り押さえたまま、押し殺した声で叫ぶ。
 
 
「殺すなッ」
「どうして? 健一はこいつが好きなの?」
 
 
 その問い掛けを聞いた瞬間、ぶわっと鳥肌が立った。好きだとか愛してるだとか、そういう甘ったるい感情に対する嫌悪が泥の煮汁のように体内からじわじわと溢れ出してくる。
 
 吾妻の暗い瞳が健一をじっと見つめている。健一はその瞳を見上げながら、震える声で呟いた。
 
 
「だ、れも好きじゃない…」
 
 
 顔が歪むのを堪えられなかった。下唇を噛み千切りそうなくらい噛み締めながら、健一は掴んだ吾妻の腕へとキツく爪を立てた。ギリギリと爪先を肉へと食い込ませながら、健一は唸るように繰り返した。
 
 
「だれも、お前も、お前もお前もお前も、みんな、好きじゃない」
 
 
 吾妻を、ゆり子を、悟を、ミノルを、そして机にコメカミを押し付けられたパクヒョルを見渡しながら、健一は自分に言い聞かせるように吐き捨てた。
 
 ゆり子の微笑み、悟の無感情な眼差し、ミノルの吃驚したような顔、パクヒョルの少し悲しげな目、吾妻の泣き笑いの表情、そのすべてが今憎かった。全員引き裂いて、その肉片を部屋中にまき散らしてやりたい程に。健一へと向けられる感情すべてが吐き気がするほどおぞましく、気色悪かった。
 
 
「じゃあ、どうしてこいつを殺しちゃいけないの? 好きじゃないなら殺したっていいじゃない」
 
 
 パクヒョルの髪を鷲掴んだまま、吾妻が子供のように首を傾げる。そのわざとらしい仕草を憎々しげに睨みながら、健一は鈍く吐き捨てた。
 
 
「俺は、まだ使い道があるもんを壊すなっつってんだ」
「使い道?」
「こいつは、俺に『奪い方』を教えるために、ここに来たんだろうが。それなのに、初っ端から壊してどうすんだ。糞の役にも立たねぇ内に潰しちゃ意味ねぇだろうが」
 
 
 酷薄な健一の台詞に、一瞬だけパクヒョルの指先が戦慄いたように見えた。だが、健一はその蠢きから視線を逸らした。少しでもパクヒョルの気持ちを慮ったりしたら、自分の唇が凍り付いたように動かなくなるのは解り切っていた。
 
 健一の残酷さを愉しむように、吾妻が唇を湾曲させる。
 
 
「だけど、指の折れたディーラーが役に立つと思う? 足の折れた馬を殺すように、指の折れたディーラーも殺してやるのが優しさってものだよ」
 
 
 自分がパクヒョルの指を折っておきながら、いけしゃあしゃあと巫山戯た事を言いやがる。吾妻の薄笑いを見上げながら、健一は冷めた声で呼んだ。
 
 
「パクヒョル」
 
 
 健一の声に、パクヒョルがコメカミを机に押し付けたまま視線だけ健一へと向ける。
 
 
「…はい」
「左手を出せ」
 
 
 パクヒョルに人差し指を折られた左手を差し出すように命じる。パクヒョルは一瞬目を瞬かせたが、諦めたようにそっと目を瞑った後左手を差し出してきた。
 
 空中で微かに戦慄く指先を眺める。その人差し指は上方向へと捻じ曲げられている。健一は右手を伸ばすとパクヒョルの人差し指を掴み、躊躇わず下方向へと一気に折り曲げた。瞬間、コキッと骨が擦れ合う小さな音が聞こえて、パクヒョルの額が痛苦に耐えるように机に打ち付けられた。伏せられたパクヒョルの顔から、奥歯が噛み締められる鈍い音が聞こえる。
 
 微かに歪みながらも元の位置へと戻った人差し指を眺めて、健一は淡々とした声音で訊ねた。
 
 
「パクヒョル、カードは繰れるか?」
「…ッ」
「カード、は、繰れるか」
 
 
 痛みに背筋を震わせるパクヒョルへと、突き付けるように何度も訊ねる。すると、パクヒョルがゆっくりと視線を持ち上げた。パクヒョルの髪を鷲掴んでいた吾妻の手はすでに離れている。
 
 
「…はい、繰れ、ます」
 
 
 そう答えるパクヒョルの額には冷汗が滲んでいた。痛みに虚ろがかった瞳を見据えてから、健一は吾妻へと視線を移した。
 
 
「まだ使える」
 
 
 その一言に、吾妻が笑うような呆れたような表情を浮かべる。そうして、諦めたように緩く首を左右に振ると、短く笑い声を漏らした。
 
 
「うん、いいよ。今回は殺さないであげる」
「今回は?」
「こいつに使い道がなくなったら直ぐに殺すよ。勿論その時は構わないよね?」
 
 
 そう言って、にっこりと微笑む吾妻の様子に吐き気を催す。不快感に顔を顰めながら、健一は吐き捨てた。
 
 
「そんな解りきった事を、いちいち聞くな」
「健一の口からちゃんと聞きたいんだよ」
 
 
 執拗な言葉に、堪らない苛立ちが込み上げてくる。憎悪を孕んだ眼差しで吾妻を睨み据えて、健一は噛み付くような声で叫んだ。
 
 
「こ、ろせばいいだろッ! 役に立たない糞は、どいつもこいつもブチ殺せッ!」
 
 
 喚き散らして、健一は奥歯を砕きそうなくらい噛み締めた。熱を持った眼球が溶け落ちてしまいそうだった。憎悪に歪んだ健一の表情を見つめて、吾妻がうっとりとした表情で呟く。
 
 
「それを聞いて安心したよ。やっぱり、健一は——」
 
 
 吾妻の指先が伸ばされる。首筋へと滑らされた指先の感触に、健一は小さく皮膚を戦慄かせた。そうして、吾妻はまるで恋するような声でこう囁いたのだ。
 
 
「僕と同じ、悪党だ」
 
 
 瞬間、呼吸が止まった。全身の血の気が下がって、代わりのように怖気が這い上がってきた。指先が冷たい。目の前の光景が色を失くしていく。確かに在ったはずの『自分』が静かに消えていくような感覚。元の自分が消えて、新しく現れるのは?
 
 凍り付く健一には目も向けず、窓から外を眺めていた悟がぽつりと呟く。
 
 
「君は、いつも間違える」
 
 
 その言葉が聞こえた瞬間、堪え切れず憤怒が噴き出した。目蓋の裏が真っ赤になるのと同時に、右手が動いていた。振り上げた掌が鋭い音を立てて、悟の左頬を張り飛ばす。鋭い打擲音が鳴るのとほぼ同時に、悟の身体が椅子から転がり落ちた。
 
 床に倒れた悟へと獣のように飛び掛かって、健一は右拳を高く振り上げた。仰向けに倒れた悟が圧し掛かる健一を、斜に見上げている。その死人のような温度のない眼差しを見た瞬間、どうしてだか振り上げた拳が動かなくなった。
 
 拳を固く握り締めた健一を凝視して、ゆり子が悲痛な叫び声を上げる。
 
 
「やめて、弟を殴らないでっ!」
 
 
 何だよそれ。何で、俺が悪党扱いされなきゃならないんだ。俺は、いつだって間違いたくなんかなかった。間違った道に引き摺り込まれて、望んでもいない腐った未来を与えられる気持ちがお前等に解るか。絶対に、死んでも解るわけないくせに。
 
 燻るような思いが込み上げて、胸を苦しく締め付ける。健一は振り上げた拳をだらりと下げて、掠れた声を漏らした。それは自分でも悲しいくらい、泣き出す直前のような声に聞こえた。
 
 
「…俺が、一番悪いのかよ…」
 
 
 ぽつりと呟いて、健一は立ち上がった。右足を引き摺りながら、自室への扉へと向かう。健一を引き留める人間は誰もいなかった。扉を閉める直前、背後からミノルのはしゃいだ声が聞こえてきた。
 
 
「あれがオンナのひすてりーってやつか!」
 
 
 もう怒鳴り返すことも出来ず、健一は閉めた扉の内側でしゃがみ込んで、両手でそっと顔を覆った。
 
 目蓋の裏は、暗闇ばかりが広がっていた。
 
 

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