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12 ふたりぼっち

 
 目蓋を開くと、暗闇が全身を包んでいた。窓の方へと視線を遣ると、完全に日は沈んでいた。カーテンの隙間から、星もなく真っ黒に塗りつぶされた空が見える。
 
 床に座り込んだまま、いつの間にかうたた寝していたらしい。あれから何時間経ったのだろう。捻挫した右足首がぢんぢんと膿むように痛んでいるのを感じる。どうやら痛み止めが切れたようだ。
 
 痛む右足首を両手でそっと包み込む。少し熱を持った皮膚が冷えた指先に心地よかった。ほ、と息を吐き出す。どうしてだか、痛みを感じることに酷く安心した。
 
 だが、時計を見上げようと視線を持ち上げた時、視界の端に映ったものを見て、健一は身体をギクリと強張らせた。一瞬、息をする事も忘れるほどの驚愕だった。真正面のベッドの下から、細く長い腕が這いずり出ている。暗闇の中でもはっきりと解るほど、血のように赤いマニキュアがその爪には塗られていた。
 
 
「…な、なに…?」
 
 
 唇から無意識に震える声が漏れていた。呟くと同時に、もう一本の手がにょろりとベッドの下から出てきた。二本の腕は、床をゆっくりと掻き毟りながらベッドの下から這い出ようとしている。そのB級ホラーじみた光景に、健一はただただ唖然とした。
 
 とうとう、ベッドの下から頭が出てきた。金髪のショートカット、白いカッターシャツにチェック柄のミニスカート、何処か見覚えのある姿に、健一の息は止まった。まさか、まさか――
 
 
「…ま…まひ…」
 
 
 言い掛けた名前を、必死に咽喉の奥に押し込める。
 
 だって、そんなはずはない。だって、あの子は、あの女の子は、もう――
 
 ベッドの下から完全にその姿が現れた。ずるずると両腕を使って健一へと近付いてくる。その光景を、健一は震えながら見つめた。逃げることすら思い付かない。だって、こんなのはきっと現実じゃない。
 
 赤いマニキュアが塗られた指先が健一の右足首をキツく掴む。瞬間、骨を突き抜けるように走った痛苦に、健一は短い悲鳴を上げていた。
 
 
「ッ、い゛…!」
「痛ぁあぃ?」
 
 
 悲鳴に混じるようにして、ねっとりとした粘り気のある声が鼓膜へと貼り付いてきた。その声音に、健一は全身を硬直させた。恐る恐る視線を落とすと、健一の右足首をキツく掴んだまま、『あの子』がゆっくりと顔を上げていた。
 
 ひゅうっと鳴る音が聞こえた。それが自分の咽喉が漏らした音だと気付かなかった。
 
 
「…ま、ひる…?」
 
 
 溢れ出た名前に、『真昼』がにったりと卑しい笑みを浮かべる。顔立ちは記憶の中の真昼と同じなのに、その表情はまるで化物でも取り付いたかのようにイビツだった。ニタニタと笑みを浮かべながら、真昼が青白い唇を開く。
 
 
「でも、あたしはもっと痛かったのよぉ。苦しかったのよぉお。首を絞められて、ぶら下げられちゃったのぉお。首がびよんびよんに伸びて、おしっこまで漏らしちゃったぁ」
 
 
 あはははは、と真昼がわざとらしい笑い声を上げる。
 
 
「ねええぇ、あたし死んじゃったのよぉ。殺されたの、あんたのせいでぇええ」
 
 
 笑い声混じりに呪詛をまき散らしながら、真昼が健一の両腕を掴んでくる。そのまま前後にガクガクと身体を揺さぶられた。健一はただ真昼を凝視して、恐怖に身を竦めていた。
 
 これは夢だ、と思った。夢じゃなきゃ、死んだ真昼が現れるわけがない。もしくは健一の幻覚だ。頭がおかしくなったから、真昼の幽霊を見てしまっているんだ。それなのに、どうして痛い。どうして、こんなにも心臓が凍えている。
 
 真昼は頭を左右に振り乱しながら、気が狂ったような嗤い声を上げ続けている。硝子がキィキィと引っ掻かれたかのような不愉快な哄笑だ。
 
 
「あはあぁあはははは、畜生、ちぐしょうっ! お前のせいだぁああ! お前のせいで、あたしは死んだんだぁ! お前がいなけりゃ、あたしはもっと生きていられたのぃい! お前が死ねばよかったのに、なんであたしじゃなくてお前が生きてんだよぉおお!」
 
 
 言葉が心臓に突き刺さる。唇が震えて、歯の根が合わなくなる。両掌で唇を押さえて、健一は掠れた声を上げた。
 
 
「…ま…まひ、る…ごめっ…ごめん、なさい…」
「ごめんだぁあ!? 今更謝ってどうなる! あたしは生き返れねぇんだぞおぉ! 独りで灰になって、独りで地面に埋まってんだぁあ! 嗚呼嗚呼嗚呼あ゛ぁあ゛ぁああぁあああ、つめたい、くらい、ざみしぃ、いやだ、やだよぉお゛、ざみじぃいいいいいい!!」
 
 
 両手で髪の毛をガリガリと掻き毟って、真昼が金切り声で喚き散らす。その声に胃の腑がキュウッと萎縮していく。
 
 怖い、怖くて堪らない。健一が犯した罪が目の前に突き付けられる。真昼という形になって、健一を責め立てていく。
 
 
「お前も死ねよぉお! 一緒に死んでよぉおお! ひとりにすんなよぉおお、一緒にいてよぉ、いますぐ死んでよぉおお!」
 
 
 死んで、と喚く真昼の姿に、健一は酷い絶望に襲われた。唇が恐怖にぶるぶると震える。
 
 
「や…やっ…」
 
 
 嫌だ、違う違う、こんなのは真昼じゃない。真昼はこんな事は言わない。だけど、顔は真昼そのもので。まるで真昼の皮をかぶった悪夢が目の前に現れたように思えた。
 
 殆ど恐慌状態のまま、健一は床を這うようにして逃げようとした。だが、数歩床を這いずったところで足首を掴まれる。真昼が健一の足首を掴んだまま、ニィと唇を引き裂くようにして笑っていた。
 
 
「どこ行くのぉお? また、あたしを見殺しにするのぉお? 卑怯者、蛆虫ゴミ虫クソ虫、犬畜生のオカマ野郎がぁあ、またあたしを殺すのがぁああ゛あぁあ゛!!」
 
 
 劈くような悲鳴が脳味噌に直に突き刺さる。もう、気が触れそうだ。両手で頭を抱えて、健一は絹が裂けるような叫び声を上げた。
 
 
「ごめ、ん、ごめんごめんごめんなさいぃ、許して…ッ!」
 
 
 怯えた少女のように身を竦めながら、健一は半狂乱に喚き散らした。それに被さるように真昼の怒声が響く。
 
 
「うるせぇ、許すがぁああ! 絶対、おまえを許ざないがらなぁああ!! 死ねっ!! 死んで詫びろおおおぉぉお!!」
「死ぬっ! 死ぬからっ! 死ぬから、もう許してっ! 真昼、許してっ…!」
 
 
 哀れに叫びながら、健一は無我夢中で立ち上がった。痛む足首を無視して、マンションのベランダへと向かって駆ける。殆ど縺れるような手付きで窓の鍵を外して、健一はベランダへと飛び出した。
 
 何も考えられなかった。ただ、死ぬことしか頭になかった。死ねば許される、という盲目的な思いがあった。
 
 ベランダの塀に両手を掛けて、身体を縁の上に乗り上がらせる。後は落ちるだけだった。たったそれだけで、健一は真昼に許される。
 
 そのはずだったのに、落ちる直前、誰かに背中の服を掴まれた。後ろへと力任せに引っ張られて、床へと転がる。だが、痛みはなかった。柔らかい何かが健一の身体をキツく抱き締めている。
 
 荒い息遣いが聞こえた。それが自分のものなのか、背後の誰かのものなのかは解らなかった。目がベランダから離せない。
 
 
 どうしよう。死ななくちゃいけないのに、死ねなかった。
 
 
「あぁ、あはは、ふぁははは、あはははあっははっ! マジで死のうとしてやがんのっ! キモッ! ほんと、きっもちわるーい!」
 
 
 真昼がお腹を抱えて笑い転げている。嘲るように、その細い人差し指は健一へと向けられていた。甲高い笑い声が鼓膜をビリビリと震わせる。
 
 
「…真夜…」
 
 
 背後から吾妻の声が聞こえた。吾妻は健一の身体を後ろから抱き締めたまま、険しい眼差しで真昼を睨み付けている。吾妻の視線に気付いたのか、真昼の姿をした何かは笑い声を収めて、気取るように頬へと掌を当てた。
 
 
「なぁに、真澄さん?」
 
 
 執着と愛情がキャラメルコーティングされたような甘ったるく粘着いた声音。真昼の口から真夜の声が出てくる。違う、最初から真夜の声だった。ただ、健一が真昼の姿に惑わされて、何も聞いていなかっただけだ。
 
 艶やかに染められた金髪を手の甲で払いながら、真夜は嫣然と微笑む。死んだ双子の姉そっくりになった自分を誇るように。その姿に、吾妻が苦虫を噛み潰すような声音で吐き捨てる。
 
 
「僕は、健一を追い詰めていいなんて一言でも言ったかい?」
「やだわ、こんなにちょっとした冗談ですよ。こいつが寝てたから、ちょっと幽霊ごっこをして驚かせてやろうと思っただけ。そしたら、こいつが勝手に死のうとしたんですよ。ねぇ、真澄さん、私こんなはしたないこと言いたくはないんだけど…こいつ頭おかしいんじゃないかしら?」
 
 
 真夜は頬へと手を押し当てたまま、大きく溜息を漏らした。その悪意に満ち満ちた声音に、怒鳴り返すことすらも出来ない。健一は茫然自失のまま、じっと真昼の姿をした真夜を見上げた。
 
 真夜が微笑む。姉そっくりの顔で。
 
 
「そんなに真昼に似てる? 似てるわよねぇ。前もちょっと姿を見せてあげたら、馬鹿みたいに賭博場まで追いかけてきて、ほーんと脳味噌カラッポなガキよねぇ」
 
 
 ケタケタと笑い声が聞こえる。賭博場まで追いかけて、という言葉に、忘れかけていた記憶が蘇る。そうだ、確か以前も真昼の幽霊を見かけた。その後ろを必死に追いかけて、健一は賭博場で賭けまでする羽目になったのだ。あれは、真昼の幽霊ではなく真夜だったのか。
 
 
 もう怒りすら沸き上がって来ない。ただ空虚だけが体内を占めている。心が動かない。脳味噌が何も考えられない。まるで生きたまま死んでしまったみたいだ。
 
 唇を中途半端に開いたまま、焦点の合わない視線を彷徨わせる。反論一つしない健一を眺めて、真夜はハッと鼻先で嗤った。
 
 
「つっまんないガキ。こんな奴のせいで真昼は死んじゃったんだぁ。あんたさえいなけりゃ真昼は生きてたのにね」
 
 
 その言葉はどんな言葉よりも健一の心を痛め付けた。
 
 捨て台詞を吐き捨てて、真夜が部屋から出ていく。扉が音を立てて閉まった瞬間、不意に目蓋の裏が真っ暗になった。
 
 
「あ…」
 
 
 唇から掠れた音が漏れる。身動ぎをしようにも、吾妻は健一の身体を抱き締めたまま離そうとはしない。
 
 
「あぁ…」
「健一」
「あぁあぁぁ…」
「健一、大丈夫。大丈夫だから」
 
 
 何が大丈夫なんだろう。大丈夫なところなんて一つもない。身体も心も世界も、全部全部滅茶苦茶じゃないか。目も当てられないくらい粉々に砕けているじゃないか。
 
 身体を拘束する吾妻の両腕を引き剥がそうと藻掻く。だが、藻掻けば藻掻くほど吾妻の腕は強く健一を抱き締めてくる。
 
 
「…ゃ、やだ…やだ……、おっ、おれ、死ななくちゃ…」
 
 
 ひゅうひゅうと咽喉が掠れた音を漏らす。
 
 
「…しっ、死ななくちゃ、いけない…。死な、なきゃ…まひ、まっ、ひる、が…おれを許してくれ、ない…から…っ…」
 
 
 譫言が次々唇から溢れ出す。ベランダへと向かって指先を伸ばす。そこから飛び降りるだけでいい。そうしたら、この滅茶苦茶な世界が終わる。解放される。
 
 それなのに、伸ばした指先が掴まれた。健一の指先を握り締めたまま、吾妻がうなされたように首を左右に振る。
 
 
「ダメだよ。健一、君は死んじゃダメだ」
「なん、で、なんで…何でだよぉッ!」
 
 
 不意に弾けた。頑是のいかない子供のように喚き散らして、健一は吾妻の腕を振りほどこうと力の限り暴れた。小さな拳に叩かれても、吾妻は健一を決して離さない。
 
 
「死ぬだけだよッ! ただ死ぬだけじゃん! 別に死んだっていいじゃんかよぉ!」
 
 
 真昼も死んだ。保田も死んだ。健一が死ぬのだって、別に大した事じゃないのに。死ぬのなんて、ゲームと同じ。ただリセットボタンを押すだけ。
 
 
「ダメ、どうしてもダメなんだ」
 
 
 暴れる健一の肩口へと額を埋めながら、吾妻は殆ど泣き言のように繰り返した。
 
 
「ごめん、ごめんね、健一、君を死なせてあげられない」
 
 
 どうして、謝るくせに離してくれないんだろう。謝るなら死なせてくれればいい。死なせないなら、いっそ謝らなければいい。吾妻の矛盾が健一の心を壊していく。
 
 両腕を掴まれたまま、健一は脱力した。四肢を床に投げ出したまま、真っ暗な天井を見上げる。空も見えない。狭く暗い空間にずっと閉じ込められている。息が出来なくて死にそうなのに、まだ死ねない。この罪ばかりを重ねていく、惨めな人生のエンドロールが見えない。
 
 両手で顔を覆って、誰とも知らない何かに祈る。
 
 
「…おねがい……だれか、許して…」
 
 
 そう囁いた瞬間、健一はようやく弥生の心を理解した。弥生が健一に『許して』と懇願した理由。
 
 誰でもいいから、何でもいいから、許されたいと願う、この惨めで浅ましく心を。目を背けるほど、汚らしい魂の叫びを。苦しくて辛くて、救いのない世界に、救済を祈る悲しみを。
 
 
 全身が寒くて凍える。体内が鉄クズでできた人形にでもなってしまったかのようだ。小刻みに震えていると、頬を背後からそっと撫でられた。冷えた吾妻の掌が健一の頬に触れている。
 
 健一も吾妻も、どちらも悲しいくらいに冷たい。冷たさを冷たさで贖うことは出来ないのに、それでも吾妻は健一の頬を温めるように何度も撫で続ける。
 
 
「君は、許されてる」
 
 
 微かに震えた吾妻の声が聞こえる。その空虚な響きに、心臓がカランと音を立てた。
 
 
「健一は、なにも悪くない。悪いのは僕だけだ。許されないのは、僕だけなんだ」
 
 
 言い聞かせるように、吾妻は健一の耳元でそう繰り返した。祈るような声が悲しい。氷のように凍えていく指先が痛くて、健一は空気が抜けるような声で呟いた。
 
 
「…さむい…」
 
 
 吾妻がもっと強く健一を抱き締めてくる。だけど、寒さは増すばかりで温まることはない。一人ぼっちよりも、二人でいるほうがずっと寒かった。
 
 
「…家に、かえりたい」
 
 
 馬鹿げた懇願が口をついて溢れてくる。吾妻に捕まった最初の頃、何度も繰り返した言葉だ。だけど、その時よりも言葉はずっと空虚さを増していた。
 
 帰りたい。帰れない。この世界のどこにも居場所がない。
 
 
「家にかえして…」
 
 
 家なんてもうないのに。それでも、囁いてしまう声が空しかった。吾妻は健一の首筋に口元を埋めて、弱々しく首を左右に振った。
 
 
「…イヤだ」
 
 
 まるで子供の駄々のような事を言う。骨が軋むような強さで抱き締められて、息が詰まる。唇から掠れた呼吸音が漏れた。
 
 
「君を離せない。どうしても、離してあげられない」
 
 
 繰り返される言葉に、目蓋の裏が真っ黒に塗り潰される。
 
 じゃあ、俺は死ぬまで、こんな男とずっと一緒に居続けなきゃならないのか。生きたまま何度も心を嬲り殺されて…そんなの地獄だ。こんな世界は、地獄だ。
 
 
「…死んだほうがマシだ…」
 
 
 健一の身体を包み込む吾妻の腕が微かに震える。そうして、背後から泣き笑うような声が聞こえてきた。
 
 
「僕を殺せば、健一は幸せになれる」
 
 
 乾いた空笑いが聞こえてくる。それは吾妻の妄執的な思い込みのように聞こえた。もしくは吾妻の切ない願望か。
 
 
「大丈夫、健一は強い。きっと誰よりも強くなれる。だから、君は大丈夫なんだ。死ななくていい。何も怖がらなくていい。何もかも、全部上手くいくから」
 
 
 大丈夫、とまるで呪いのように耳元に囁かれる。下腹の上で祈るように組み合わされた吾妻の両手が小刻みに震えている。そっと触れてみると、怯えるみたいに指先がピクリと跳ねた。
 
 身体を包み込む温度が冷たい。さむい、さむい、と繰り返すと、吾妻が泣き出しそうな声で「さむいね」と呟いた。酷く心細そうな声だった。
 
 

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