Skip to content →

13 王様ではない

 
 長い長い一週間だった。
 
 ベッドから起き上がる気力もなく、物を食べようという意志も湧いてこなかった。まるで死人のようにシーツの上に横たわったまま、健一は一週間ひたすら虚空を見つめ続けた。
 
 
「健一、食べて。お願いだから、一口でいいから」
 
 
 時々、夢うつつに肩を揺さぶられる。視界の端で泣き出しそうな顔をした男が必死で健一に訴えかけていた。だが、その懇願に返事をしてやろうとも思えなかった。まるで頭の中から感情が抜き取られたように、心が動かない。
 
 雛のように口移しで水を飲まされる。腕に注射針を刺されて、強制的に栄養を取らされる。床ずれが起きないように、一時間ごとに身体の向きを変えられる。まるで老人の介護でもしているかのような吾妻の献身的な様子を、他人事のように健一は眺めた。
 
 一日が一秒にも十年にも感じられる。目の前の光景は、まるで薄い膜を張ったかのように暗く、澱んでいた。内臓がどろどろに腐って、身体から流れ出し、深い穴底に染み込んでいくような感覚。このまま肉体も魂も溶け出して、この世界から消えてしまえばいいのに、とそれだけを祈っていた。
 
 永遠のような七日間を、健一は死んだように過ごした。
 
 七日目の朝、頭上から怒鳴り声が聞こえた。
 
 
「どうして、こんな状態で一週間も放っておいたんですか…!」
 
 
 珍しい横田の激昂の声だった。頭を動かさず視線だけを向けると、何処か怯えたような、畏縮した吾妻の表情が見えた。
 
 
「健一は、このままの方がいいのかもしれない…」
「何を、何を馬鹿な事を言ってるんですか」
「…ここでずっと寝ていれば健一は、自分から死のうとはしない」
 
 
 諦念を滲ませた吾妻の言葉に、横田が顔を怒りに歪める。その厚い唇がわなわなと震えるのが見えた。
 
 
「巫山戯んで下さい。こんなの、もう自分で自分を殺してるようなもんです」
 
 
 横田が吐き捨てる。その苛烈な言葉に、吾妻の肩がビクリと跳ねた。
 
 嗚呼、本当に珍しい。主人である吾妻に対して、横田は今本気で怒っている。横田の怒りに対して、吾妻は親に叱られた子供のように狼狽えていた。丸っきり主従が入れ替わってしまったかのようだ。
 
 横田がぐっと手を伸ばして、健一の二の腕を鷲掴む。そのまま人形を扱うように無造作に引っ張られた。
 
 
「健一さん、起きて下さい。貴方は、まだ自分で起きれるはずです」
 
 
 叱り付けるような横田の声に、健一は反応を返さなかった。ただベッドから上半身を引っ張り起こされたまま、波打つシーツをぼんやりと見つめる。
 
 だらりと全身を脱力させていると、らしくもない強引さで横田が健一の腕を引っ張った。引き摺られた身体がベッドから落ちる。衝撃と微かな鈍痛が腰部に走る。
 
 その様子を見ていた吾妻が掠れた声で叫ぶ。
 
 
「横田、健一に可哀想なことをするなっ…」
 
 
 吾妻の言葉に、横田が眦を更に吊り上げる。
 
 
「本当に可哀想なのは…ッ!」
 
 
 溢れ出た言葉は最後まで吐き出されなかった。言葉を詰まらせた横田は、それでも健一の腕を離さなかった。
 
 腕に刺さったままの点滴の針を無造作に抜かれる。プツッと皮膚から太い針が抜き出る感覚に、健一は無意識に呟いていた。
 
 
「いた、い」
 
 
 一週間ぶりの言葉だった。喋ることを忘れていた咽喉がピリリと粘膜が剥がれるように痛む。床にへたり込んだまま、首だけを斜めに傾かせる。そのまま横田をじっと色のない眼差しで見上げた。
 
 健一を見下ろした横田が小さく呟く。
 
 
「痛いですか。なら良かった」
「はなせ」
「嫌です。離したら、きっと貴方は独りで死のうとするんでしょう」
 
 
 その通りだ。このまま健一は朽ちて死んでいくことだけが望みなのだから。
 
 黙って見上げていると、紐で繋がれたナマコのように床を引き摺られた。その後ろを、吾妻が泣き出しそうな顔で追いかけてくる。スリッパのぺたぺたという音が酷く情けなく耳に届いた。
 
 
「横田、どこに行くんだ。健一をどこに連れて行くんだ」
 
 
 まるで『置いていかないで』と親にしがみ付く子供のような吾妻の声に、横田が足を止める。横田は吾妻を見つめると、悲しいくらい穏やかな声音で言った。
 
 
「真澄さんが自分に命じたんですよ」
「え?」
「健一さんを守れ、と」
 
 
 吾妻が唇を半開きにしたまま、目を丸くする。まるで自分がそんな事を言ったことすら忘れていたようだ。
 
 
「ですから、自分は自分なりの方法で健一さんを守らせて頂きます」
 
 
 そう言い切るなり、横田は健一の身体を肩へと担ぎ上げた。まるで米俵のように担がれたまま、何処かへと連れて行かれる。それが何処なのか、健一には想像も出来なかった。ただ視界がぐらぐらと揺れる。
 
 揺れる視界の先で、吾妻が置き去りにされる子供のような眼差しで健一を見つめていた。
 
 
 
 
 
 マンションを出て、車で二十分ほど離れた場所にある一軒家へと連れて行かれた。今時珍しい木造の長屋で、垣根で覆われた広めの庭には丁寧に手入れされた花々が咲いている。
 
 後部座席から下ろされて、また米俵のように肩に担がれる。玄関を通り過ぎる時に、視界の端に表札が映った。表札には『風鈴亭』と書かれている。
 
 
「ふうりん、てい」
 
 
 何の考えもなしに、目に付いたものを反射的に口に出す。健一の声が聞こえたのか、横田が呟いた。
 
 
「それは前にいた住人が掛けていた表札です。自宅で華道か茶道を教えていたようで。面倒なのでそのまま付けています」
 
 
 先ほどよりも横田の声音は穏やかになっていた。怒りも多少は収まっているのだろう。
 
 玄関を通って、室内へと運ばれる。家の中には清涼とした畳の匂いが漂っていた。庭先に面した和室へと連れて行かれて、ようやく床へと下ろされる。べったりと座り込んだまま庭を眺めていると、横田が声を掛けてきた。
 
 
「今、粥を作ります」
 
 
 返事が返ってこない事など解っているだろうに、それでも律儀に宣言していく。畳が軋む音と一緒に、横田の姿がキッチンへと消える。
 
 今は何時なんだろう。そもそも何月なんだろう。それすらも判らなかった。ただ庭先には陽の光が降り注いでいて、キラキラと輝く草花が痛いくらい眩しく感じる。今の自分には、その明るい風景が酷く不釣り合いに思えた。
 
 右半身から畳へと倒れ込む。頬へと吹き付けてくる風が涼しくて心地よい。チリンと軽やかな鈴の音が聞こえた。視線を持ち上げると、縁側に年季の入った銅製の風鈴が吊されているのが見えた。おそらくそれも前の住人が置いていったものなんだろう。
 
 その瞬間、春なんだ、と不意に思い出した。あと二月もすれば夏がやって来る。一年前に、健一は夏の野球大会で優勝した。父と母と姉と暮らしていた。伸樹と肩を組んで笑いあっていた。平凡な日常を、ただ当たり前に幸福に過ごしていた。
 
 思い出した瞬間、涙が溢れそうになった。だが、涙は出てこない。泣き方が思い出せない。たった一年で、何もかも変わってしまった。すべて、粉々に壊れてしまった。
 
 横田が粥を持って戻ってくる。横臥している健一の前に膝を付くと、甲斐甲斐しい手付きで背を抱き起こしてきた。その大きな掌の感触を感じながら、健一は譫言のように呟いた。
 
 
「さわるな」
「起こすだけです」
「ほうっておけ」
「放っておけません」
「きもちわるい」
「少しの間だけ我慢して下さい」
 
 
 淡々とした遣り取りが繰り返される。視線を持ち上げると、見下ろしてくる横田と目が合った。感情を沈殿させた奥深な瞳、健一に刺されたあの時と同じ眼差しだ。
 
 気まぐれに左掌を伸ばして、横田の下腹に触れる。途端、横田の皮膚がピクリと戦慄くのを感じた。
 
 
「いっしょにいたら、また、刺す」
「構いません」
「こんどは、死ぬかもしれない」
「構いません」
 
 
 阿呆の一つ覚えのように、構わないと横田は繰り返す。その実直を通り越して、愚鈍な返答に健一は口角を僅かに吊り上げた。
 
 
「あんたは、ばかだ」
「はい、自分は馬鹿です。健一さんが自分を…俺を殺してしまっても構いません。貴方には、その権利がある。傷付ける権利も、殺す権利も――だから、死なないで下さい」
 
 
 文章に脈絡がない。というか、意味不明にも程がある。横田を殺す権利があるというのなら、健一が死ぬ権利だってきっとあるはずだ。それなのに、横田が健一を生かそうとする理由が解らなかった。
 
 健一は嗤った。唇を歪めたまま、咽喉の奥からくぐもった笑い声を漏らす。烏の引き攣った鳴き声のような、錆だらけの金属を擦り合わせたような、不愉快な笑い声だった。
 
 横田の腕に抱き起こされたまま、両手で顔を覆って笑い続ける。
 
 
「ばかだ、ばか、ばかやろう」
 
 
 幼稚な罵声を笑い声混じりに吐き出す。自分の命を粗末に扱うくせに、他人の命を大事にしようだなんて、そんなのは矛盾している。横田はとんでもなく救いのない馬鹿野郎だ。
 
 笑い声が止まらない。だが、次第に笑い声が歪んでいく。掠れていく。惨めに震え出す。
 
 悪党のように嗤い続けたかった。悪へと染まっていくのなら、最期まで完全無欠な悪党でいたかった。だが、出来なかった。悪に成りきるには、健一は幼すぎた。愚直なまでの忠誠を、優しさを踏み躙り続けることは出来なかった。
 
 涙も出ないのに、声が嗚咽に震える。ひっくひっくと咽喉がしゃっくりのように上下に痙攣する。笑うのが苦しかった。泣きたかった。泣けないのが悲しくて、それなのに、どうしても涙が出てこない。
 
 酷くか細い、惨めったらしい声で、健一は囁いた。
 
 
「――たすけて…」
 
 
 誰にも助けてなんて言わないつもりだった。真昼が死んだ夜に、そう心に誓っていた筈だった。それなのに、決意を裏切って、脆弱な心は唇を動かしていた。
 
 
「たすけて……おねがい、…だれか、たすけて…」
 
 
 神様たすけて。誰かたすけて。誰でもいいから、こんな地獄から俺を救い出して――
 
 繰り返す言葉は、もう意味を成していなかった。ただただ救いを乞い続ける、醜く浅ましい懇願だ。
 
 
「健一さん…」
 
 
 横田の動揺に上擦った声が聞こえる。次の瞬間、身体をきつく抱き締められた。横田の両腕が健一の背中を力強く抱いている。触れ合った部分から伝わってくる体温が、確かな心音が、自分がまだ生きていることを教えてくれる。
 
 
「ゆるして…」
 
 
 無意識に言葉が零れていた。
 
 
「ごめんなさい…ゆるして…」
 
 
 誰に謝っているのか、誰に許しを乞うているのか、自分でも判らなかった。横田にか、家族にか、真昼にか、保田にか、それらすべてをひっくるめた何もかもに対してなのか。自分が生きていることを、心から謝りたかった。
 
 生きていてごめんなさい。死ななくてごめんなさい。どうか許して…。
 
 横田の胸元を両手で握り締めたまま、ゆるして、と譫言のように何度も繰り返す。健一の哀願に、横田は一度だけ深く頷いた。
 
 
「許します。貴方を、許しています」
 
 
 気が付けば、横田の声も震えていた。顔を覆っていた両手に、ぽつぽつと滴が降り注ぐ感触がある。そっと両手を外すと、横田の泣き顔が見えた。厳つい顔をくしゃくしゃに歪めて、横田は子供のように両目から涙を零している。
 
 そっと手を伸ばして、横田の頬に触れる。涙で濡れた感触が指先に静かに伝わってくる。
 
 
「…どうして、泣くの…」
「…解りません、胸が苦しくて…」
 
 
 ぽろぽろと流れ落ちてくる涙が健一の頬に降り注ぐ。その感触に、不意に胸が締め付けられた。もしかしたら、もう健一のために泣いてくれるのは目の前の男ぐらいしかいないのかもしれない。
 
 
「泣かないで、横田さん…」
 
 
 出会った時のように名前を呼ぶと、横田はわっと堰を切ったように泣きじゃくり出した。大粒の涙を零しながら、横田が涙声のまま呟く。
 
 
「いつか…救われる日がきます…。許されることも、許すことも、いつか、きっと、できるようになるんです…」
 
 
 だから、生き続けて下さい。と横田は言った。固く瞑られた目蓋からは相変わらず涙がポロポロと滴り落ちている。濡れた目蓋の合わせ目へと指先を滑らせながら、健一はぼんやりとその言葉の意味を考えた。
 
 
「いつか…?」
「はい、いつか」
 
 
 吾妻に捕らえられてからの一年間で『いつか』と何度繰り返されたことだろう。そんな曖昧な言葉を嘲笑ってやりたかった。だが、口角は微かに痙攣しただけだった。
 
 
「横田さん…おれ、泣きかた、忘れちゃったよ…」
 
 
 泣き方すら忘れた人間に、そんな『いつか』が訪れるとは思えなかった。諦めの言葉を漏らす健一に、横田は力強く首を左右に振った。
 
 
「涙を流さないからといって、泣いていない訳ではありません。貴方が悲しんでいない訳ではない。貴方には心がある。あるからこそ、こんなにも苦しい…」
 
 
 胸の奥に語りかけてくるような声音に、また痛いくらい心臓が締め付けられた。涙に濡れた横田の瞳を見上げながら、健一はぽつりと問い掛けた。
 
 
「…なぁ…おれに、失望した?」
「失望? どうしてですか?」
「あやまったから…」
 
 
 以前横田から言われた言葉を思い出す。
 
 上のものが下のものに軽々しく謝罪するべきではない。プライドのない人間に仕えるつもりはない。
 
 そう言われてから、どれだけ酷い言葉を吐いても、健一は横田に謝った事はなかった。こんな脆くて情緒不安定な子供に仕えるのは嫌になっただろうか、と横田を見上げる。だが、横田は顔を歪めて、首を左右に振った。
 
 
「いいえ…いいえ、失望なんかしません。自分が間違っていたんです。俺が間違っていた…」
 
 
 また横田の瞳から涙が溢れ出す。ぽつぽつと小雨のように落ちてくる涙が切ない。横田がしゃくり上げながら、掠れた声で囁く。
 
 
「健一さんは…王様ではない」
 
 
 それはやっぱり失望しているという事ではないのだろうか。じっと見上げると、後悔を滲ませた眼差しが落ちてきた。
 
 
「健一さんは、まだ十二歳の子供です。大人が守らなくてはいけない、子供なんです…」
 
 
 死んだ男の口から、同じ言葉を聞いたような気がする。健一は普通の子供なんだと。そう言って、頭を撃ち抜いた男がいた。
 
 
「それ…だれにも、言っちゃ、だめだよ…」
 
 
 口に出せば、誰かに聞かれれば、横田も同じような運命を辿ってしまう気がした。言い聞かせるように囁くと、横田は更にくしゃくしゃに顔を歪めた。背中を抱く横田の腕の力が強くなる。
 
 
「貴方を守ります」
「そんなこと、しなくていいよ」
「いいえ、自分がそうしたいんです。健一さんを守りたい」
 
 
 まるで護衛か、盲目的な忠臣のような台詞だ。咽喉を反らすようにして小さく笑い声を漏らす。目の前は真っ暗なのに、笑えるのが自分でも不思議だった。
 
 
「横田さん、おしえて」
「何を、ですか?」
「戦いかた」
 
 
 もう誰にも守られたくなかった。真昼も保田も、健一を守ろうとして死んでしまった。このままだと横田もいつか死んでしまう気がする。だから、誰にも守られないよう、この残酷な世界との戦い方を知りたかった。
 
 横田が躊躇うように数度瞬いてから、深く頷く。
 
 
「…解りました。まず、動けるようになるのが先です。粥を食って下さい。少しぬるくなってしまいましたが…」
 
 
 匙で掬われた粥が口元へと近づけられる。ふんわりと鼻先に漂ってくる玉子の匂いに、咽喉が柔らかく動いた。
 
 

backtopnext

Published in catch3

Top