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14 訓練

 
 粥飯は、一週間続いた。弱っていた胃が落ち着いてくると、一転して血が滴るようなステーキが出てきた。皿からはみ出そうなほど巨大なステーキを見て、健一は目を丸くして横田を見上げた。
 
 
「牛肉はタンパク質やアミノ酸が豊富に含まれています。それに赤身の肉は消化吸収が遅いので、アミノ酸濃度を高く維持することができて、筋肉の成長を促してくれるんですよ」
 
 
 エプロン姿のまま、そう誇らしげに説明する横田の姿を、健一は呆れた眼差しで見つめた。確かにそれは正しい理論かもしれないが、世の中には加減というものがあるだろう。
 
 だが、横田の好意を無碍にすることも出来ず、健一は自分の胃袋よりも巨大であろうステーキへとナイフを通した。結局初日は、ステーキの半分も食べきることが出来なかった。
 
 食生活の改善と共に、武術指導も始まった。縁側の廊下に正座したまま、横田は健一へとこう語りかけた。
 
 
「自分は、本当は貴方にこんなことを教えるべきではないかもしれない。戦わない生き方や、別の方法での世界との戦い方を教えるべきなのかもしれない。ですが、自分も人には話せないような不器用な、愚かな生き方をして来ました。そんな自分が教えられるのは、戦って自分を身を守る方法ぐらいです。ですから健一さん、守るために戦って下さい。壊すために戦っては駄目です。壊してしまえば、一緒に貴方が壊れることになる。どうかそれだけは心のどこかに留めておいて下さい」
 
 
 そう言って、横田は両手を床について深々と頭を下げた。そのまま微動だにしない横田を見下ろしたまま、健一は声を漏らした。
 
 
「解った。なるべく、覚えておく」
 
 
 頼りない健一の返答でも、横田は納得したようだった。納得したフリをしただけなのかもしれない。健一の現状を考えれば、そんな綺麗事は強要できないと理解していたからかもしれない。
 
 曖昧な誓いから、横田のレクチャーは開始された。
 
 最初は体力作りからと言われて、一緒に縄跳びを行う。一分跳んで、三十秒休む。それを十回ほど繰り返す。これが案外キツく、五回目から既にふくらはぎが攣ったように痛んだ。
 
 汗だくになって荒い息を付いていても、横田から『初日はこれぐらいにしておきましょうか』という一言は勿論でてこない。その代わりのように、どたんどたんと鈍く飛び跳ねる健一の隣で、軽快に跳びながら横田が言う。
 
 
「両足でいっぺんに跳ぼうとするから疲れるんです。片足ずつリズミカルに。右足で跳んだら、次は左足で跳ぶ。両腕を振り回して縄を回すのではなくて、両腕は固定して手首で回すんです。でないと、足だけでなく腕まで攣りますよ」
 
 
 平然と言い放つ横田の余裕面を、縄で打ち据えたくなるのを堪えながら、健一は必死で跳び続けた。そうして、ふくらはぎがピクピクと痙攣し始めた頃に、ようやく縄跳び十回が終わった。
 
 水分補給をして一分も経たずに、今度はストレッチが開始された。ストレッチなんて身体をゆっくり動かすだけで縄跳びほど疲れないだろう、とほっと息をついたものの、そこまで甘くはなかった。
 
 
「はい、両腕と爪先だけで身体を支えたまま、一分間動かないで下さい。動いたら、最初からやり直しです」
 
 
 つい一週間前まで健一を抱き締めて、わんわん泣いていた男とは思えない。横田の指導は、控えめに言っても完全スパルタだった。今まで野球しかスポーツをやってきたことがなく、ここ一年間は運動といえる運動をしてこなかった健一には、横田の指導は鬼のようにも感じた。
 
 地獄のようなストレッチを幾つもこなして、ようやく休憩が与えられる。床に座ったまま放心状態の健一の手に、横田は長い布のようなものを巻き付け始めた。
 
 
「これ何?」
「バンテージです」
「ばんてーじ?」
「ボクシングなどで使う、拳を守るための装具です」
「横田さん、ボクシングやってたの?」
「ボクシングも、空手も柔道も、修斗も。格闘技と呼べるものは何でも手を出しました」
「強くなりたかったの?」
 
 
 まるで物を知らない子供のように質問を続ける健一を、横田が微か困ったように微笑んで見つめる。
 
 
「そうですね。強くなりたかった。大切なものをすべて守れるくらいに」
 
 
 切なげな横田の声音に、それ以上問い掛けることが出来なくなる。不意に思い出した。横田は、自分の妻子を殺されているのだ。自分の愚かさ、弱さから。
 
 健一が黙り込んでいると、横田は微笑んだ。いつものように、憂いをおびた優しげな微笑みだ。
 
 
「貴方は優しいですね」
「え?」
「自分の死んだ妻と子供のことを考えて、いま何も聞かないでくれたのでしょう」
 
 
 横田の言葉に、健一は更に押し黙った。困ったような眼差しで横田を見つめていると、横田は微笑んだままこう続けた。
 
 
「自分は、恥ずかしいです」
「…恥ずかしい?」
「本当は貴方を連れて逃げるのが一番良いと解っているんです。こんな戦い方なんぞ教えず、真澄さんから逃がして新しい人生を歩ませてやるのが一番良いのだと…」
 
 
 横田が言葉を詰まらせる。その目が潤んでいるのが見えた。健一は無意識に手を伸ばして、横田の頭を撫でていた。幼児のように目を潤ませる男の頭を、何度も何度も撫でる。
 
 
「そんなことしたら、横田さん殺されちゃうよ」
「たとえ自分が殺されるとしても…」
「ねぇ、ねぇ横田さん、俺わかってるよ。逃げたって逃げられない。きっとあいつは見つけ出す。どんな手を使っても、俺と横田さんを捕まえる。見つかったら横田さんは殺される。俺も殺される。もしかしたら殺されないかもしれないけど、きっと死んだ方がマシだって思えるぐらい酷い方法で生かされ続ける。逃げたって意味がない。俺、わかってるんだよ」
 
 
 頭を撫でながら、そう言い聞かせるように呟くと、横田の目の縁に涙が盛り上がっていくのが見えた。
 
 
「だから、俺を逃がしたりなんかしないで。そんなの俺は望んでない」
「…それなら、健一さんの望みは何なのですか?」
 
 
 横田が顔を上げる。悲しげな瞳がまっすぐ健一を見つめていた。その瞳をじっと見つめたまま、健一はほんの少しだけ笑って、何も答えなかった。
 
 
***
 
 
 トレーニングを開始してから、今日で既に三週間目になる。
 
 日課のミット打ち、ジャブとストレートとフック、基本のパンチをまずは身体で覚えるまで叩き込んでいく。
 
 
「健一さん、足が止まってます。足は絶えずリズムを刻んで」
 
 
 ミットを構えたまま横田が声を上げる。両手のミットが横田の左脇腹へと並べられる。キックの形だ。間髪入れず、左足を軸に右足を大きく振り上げる。バチッと小気味の良い音を立てて、ミットが凹むのが見えた。
 
 
「足で蹴るんのではなく、身体を回して蹴るんです。軸足を九十度動かして踵を相手へと向け、脛の内側で蹴り付ける。そうすれば、今よりもずっと威力が増します」
 
 
 横田のレクチャーに、健一は無言のまま頷いた。喋ると、疲労のあまり涎が口から溢れて来そうだからだ。額からは汗が滝のように流れている。グローブを付けた手を動かして、その腕で顔の汗を雑に拭った。
 
 横田が中腰になって、再びミットを構える。そのミットへと無心で拳を打ち込んでいく。最後にストレートを打ったのと同時に、横田がミットを下ろした。同時に、健一もリズムを刻んでいた両足を止めて、荒い息を零した。健一へとグローブを脱ぐように促しながら、横田が口を開く。
 
 
「集団と戦う際の前提を」
「追い詰められない。囲まれない。可能であれば一対一の状況を作り出す」
「それでも、囲まれた場合は」
「武器を使う」
 
 
 そう言うと同時に、横田が細長い棍棒を投げてきた。キャッチして、両手で握り締める。最初に渡された時は、学校で使っている箒の柄みたいだと健一は笑った。だが、横田はまじめな顔で「それも武器になります」と答えただけだった。机でも椅子でも、鉛筆でもハンカチでも、何でも武器になるのだと。武器にしなくてはならないのだと。
 
 横田が付け加える。
 
 
「もしくはリーダー一人を狙う。徹底的に、容赦なく、殺す気で破壊する。人間が破壊される光景は、他者の心に怯えを植え付けます」
「殺す気で?」
「はい、殺す気で。暴力を行使すると決めた際に覚悟することは徹底することです。生半可に殴るぐらいなら何もしない方がいい。相手が恨む余地を残さず従属するまで、それこそ死ぬまで徹底的に痛めつけなくてはなりません。殺すぐらいの覚悟がなければ、相手は貴方に牙を剥き続けます。ですから」
「徹底的に、容赦なく」
「はい」
「でも、本当に殺しちゃったら?」
 
 
 健一の安直な問い掛けに、横田が柔らかな笑みを浮かべる。暴力の話をしているとは思えない程、和やかでリラックスした表情だ。
 
 
「自分が処理します。ですから、健一さんが心配する必要はありません」
「俺、別に心配なんかしてないよ」
 
 
 不貞腐れたように言い返すと、横田は声を上げて笑った。まるで子供のように屈託のない笑い声だ。もう一本の棍棒を手に持つと、横田はまだ嗤いの残る目で健一を見つめた。
 
 
「昼まで武器を用いた訓練を行います。昼飯を食ったら、また基礎トレーニングから始めますよ」
 
 
 容赦ない言葉に、健一は棍棒に凭れるようにしてげんなりと肩を落とした。
 
 

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