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15 桃と嘘

 
 昼飯の時間になると訪れてくる男がいる。毎日毎日飽きもせず、その手に土産を携えて、情けない笑顔を浮かべながら。
 
 
「健一、今日は水饅頭を持ってきたんだけど…和菓子は好きかな?」
 
 
 素麺が大量に積まれたボウルへと箸を伸ばしながら、その声が聞こえなかったフリをする。目の前の男を透明人間のように扱ったまま、素麺をつゆに付けてずるずると音を立てて啜った。
 
 
「夏みかんの入ったゼリーもあるよ。落雁も…あ、落雁って知ってる? お米の粉と水飴を混ぜて乾燥させたものなんだけど、お抹茶と一緒に食べると美味しいんだ」
 
 
 健一の顔色を窺いながら、遠慮がちに声を掛けてくる男が鬱陶しい。目の前の男は、健一の眉間に深く刻まれた皺に気付いていないのだろうか。
 
 健一が横田の家に連れて来られてから、既に二ヶ月が経とうとしている。その間に、季節は完全に夏へと移り変わった。窓の外では蝉が五月蠅く鳴いている。
 
 吾妻がここに訪れるようになったのは、今から一月前だ。玄関口でへらへらと媚びへつらうような笑顔を浮かべて、ケーキ買ってきたよ、と言っていた姿を思い出す。まるで我が家のように、家族の一員のように、ケーキなんかお土産に買いやがって。
 
 そのあまりの気色悪さに、健一は吾妻の手からケーキの箱を叩き落とした。吾妻は「あ」と小さく声を上げて、へしゃげたケーキの箱をじっと見下ろしていた。健一は吾妻の顔を見なかった。傷ついた顔も、傷ついた事を隠すように笑う顔も見たくなかった。吾妻を傷付けて、自分まで傷付きたくはなかった。
 
 
 結局その日は、吾妻は横田の家にはあがらなかった。だが、懲りずに次の日も来た。そのまた次の日も。何度お土産を叩き落としても、次の日にはへらへらと笑いながらやって来る。やがて、健一も諦めた。偏執狂のストーカーに対して何をやっても無駄だと悟った。
 
 横田も、吾妻に対して何も言わない。拒絶することもなければ擁護することもなく、ただ家に上がれば黙って茶を出す。吾妻と横田とに会話はない。だが、険悪な雰囲気はなく、どこか淡々とした、以前よりも静かな関係が築かれているように思えた。
 
 健一が昼飯を食っている一時間だけ吾妻は現れる。返事の返ってこない独り言を漏らして、「また明日ね」と言って去っていく。健一にとっては不毛で、ただ苛立たしいだけの時間だ。
 
 苛立たしさのあまり、啜っていた素麺のつゆが飛び散る。机の上に跳び散ったつゆを拭こうとティッシュへと手を伸ばす。だが、健一が手を伸ばした時には、既に吾妻が机を拭いていた。まるで母親のような甲斐甲斐しい手付きだ。
 
 その光景をじっと眺めていると、吾妻が気が付いたように健一へと手を伸ばしてきた。
 
 
「健一、手にも跳んでる」
 
 
 手の甲を掴もうとする吾妻の掌から、反射的に手を退かせる。キツく睨みつけると、吾妻は少し困ったように微笑んだ。
 
 
「ごめん…ただ、拭こうと思って…。…何もしないよ」
「俺に触るな。もし俺に触ったら、お前の目の前で目玉に箸をぶっ刺して死んでやる」
 
 
 そう吐き捨て返すと、吾妻の目の奥に紛れもない怯えが走った。震える睫毛が伏せられるのを見て、微かに胸の奥から優越感のような嗜虐的な感情が込み上げてくるのを感じた。
 
 
「顔を、上げろ」
 
 
 鈍く呟いても、吾妻は伏せた視線を持ち上げようとはしない。机を左拳でドンッと叩いて、もう一度繰り返す。
 
 
「顔上げろ、っつってんだろうがグズ野郎」
 
 
 丸っきり頭の悪いヤンキーのような台詞を吐き捨てる。すると、ようやく吾妻の視線が上げられた。吾妻の瞳には明らかに動揺と怯えが滲んでいる。その虐待される子供のような面を眺めたまま、健一はにっこりと殊更優しく微笑んだ。
 
 
「桃、好き?」
「…え?」
「桃は好きかって聞いてんだよ」
 
 
 二度同じ言葉を繰り返すと、物分かりの悪い馬鹿はこくこくと必死に頷いた。
 
 
「ふぅん、なら良かった」
 
 
 そう独りごちながら、デザートとして用意されていた桃へと手を伸ばす。綺麗に切られた桃を一切れ手に掴んで、健一は掌の中で思い切り握り潰した。指の隙間から、果肉と果汁がぼたぼたと音を立ててテーブルへと滴り落ちる。むっとするような甘い匂いが部屋中に広がった。
 
 
「口開いて」
 
 
 言い聞かせるように囁くと、吾妻の表情に困惑が滲んだ。その面を見つめながら、健一は笑みを深めた。吾妻が唇を微かに震わせながら、ゆっくりと開く。健一の意図を理解しているのか、その顔はやや上方を向いている。
 
 その唇へと健一は桃を握り潰した掌を近付けた。開かれた唇の上で、再び掌に力を込める。指の隙間から、潰された果肉と果汁が吾妻の咥内へと降り注ぐ。
 
 
「ん、ぐ…」
 
 
 咽喉にそのまま果肉が落ちたのか、吾妻が噎せるように鈍い声を漏らす。その眉は僅か苦しげに歪んでおり、口の周りは果汁でべたべたに汚れている。まるで離乳食でも食っている赤ん坊のようだ。
 
 掌を開いて、欠片になった果肉を吾妻の口へと落とす。吾妻は何も言わず、小さく唇を動かしてそれを咀嚼した。こくりと咽喉が上下に動く。だが、その間も吾妻の瞳は物欲しげに汚れた健一の掌を見つめていた。欲に濡れた吾妻の表情を冷たく見据えたまま、健一は短く吐き捨てた。
 
 
「綺麗にしろ」
 
 
 健一の言葉に、吾妻の瞳に仄暗い歓喜が滲む。吾妻は恭しく健一の手首を両手で捧げ持つと、そのまま指先から滴り落ちる桃の果汁へと舌先を伸ばした。まるで犬のように、指先から股、掌まで舌を這わせてくる。
 
 どうしてだか嫌悪はそれほど沸かなかった。健一の手を舐める吾妻の姿が犬のように見えたからかもしれない。それ以上に、こいつは今俺に何もできない、何を言っても俺に逆らえない、という奇妙な自信が在った。吾妻を従わせることに対する愉悦も感じていた。
 
 一心不乱に健一の手を清めようとする吾妻を見下ろしたまま、健一は淡く目を細めた。
 
 
「あんた、俺が言ったら足の股でも舐めそうだな」
 
 
 揶揄するように呟くと、吾妻が視線をふっと上げた。その舌は健一の指の股へとぞろりと這わされている。
 
 
「うん、舐めたい」
「気色悪ぃよ」
「君を愛してるんだ」
 
 
 うっとりと囁かれる言葉に、また鳥肌が立つ。だが、犬のように従順に言うことを聞こうとする男に対して、僅かな好奇心も沸いてきた。
 
 
「じゃあ、俺のどこが好きなのか言えるか?」
 
 
 ここの会話だけを切り取ってみれば、鬱陶しい束縛女と頼りない男の痴話喧嘩のようにも聞こえるだろう。だが、そんな甘さは欠片もなく、健一の口調は事務的ですらあった。
 
 
「どこって、全部だよ。健一の全部が好きなんだ」
 
 
 吾妻が戸惑ったように呟く。その瞳が頼りなく逸らされるのを見て、どうしてだか健一の方が情けないような気持ちになった。こいつは悲しいくらい、何も解っちゃいない。
 
 
「あのさ、全部好きってさ、全部どうでもいいって事なんじゃない?」
 
 
 噛んで含めるように呟くと、吾妻が大きく目を見開いた。信じられないような眼差しで健一を見つめている。その虚を突かれた眼差しが腹立たしくて、握り締められていた掌を振り払う。
 
 健一の拒絶の仕草に、吾妻の顔がくしゃりと歪むのが見えた。吾妻の下唇が微かに震えているのが見える。吾妻が呻くように呟く。
 
 
「それでも…君が好きだ」
「好きなんて嘘だよ。あんたがそう思い込みたいだけなんだ」
「たとえ嘘でも思い込みでも…健一を好きなことが、僕のすべてなんだ」
 
 
 机の上に置かれた吾妻の拳が小刻みに震えている。その戦慄きを健一は冷めた眼差しで眺めた。
 
 
「だから、どうかこのまま、君を好きでいさせて…」
 
 
 情けない懇願だ。好きでいることを許して、なんて自己満足な願いにも程がある。俯いた吾妻を見ていると、どうしてだか健一の方が酷く情けない気持ちになってきた。
 
 
「薄っぺらいね」
 
 
 ぽつりと呟いて、微かに笑う。
 
 
「薄っぺらいよ、あんたの愛って」
 
 
 吾妻は既に泣き出しそうな顔だ。それでも、唇が止まらなかった。
 
 
「俺、なんだかさみしいよ」
 
 
 さみしい、と久しぶりに口に出した気がした。どうしてだろう、愛しているという言葉を聞けば聞くほど悲しくて、寂しくなる。胸の奥の空洞が広がっていく。
 
 
「俺、このままあんたに好かれてたら、近いうちに本当に死んじゃう気がする」
「健一は死なない。もし死んだとしたら、僕も君の後を追って死ぬ」
「あんたが死んでも心底嬉しくないし、ひたすら迷惑だし、こんなのいつまで経っても堂々巡りだ」
 
 
 溜息が溢れた。結局、終着点はそこなのだ。健一と吾妻の間には、絶望と死しかない。どちらかが自分から死ぬか、どちらかが相手を殺すか、そこしか結末がないのだ。そんな残酷な終幕は、誰も望んではいないというのに。
 
 固く引き結んだ唇が震えた。涙が出そうなのに出ない。涙の代わりに、引き絞るような声が溢れ出した。
 
 
「もし、俺が好きだって言うなら、本当の本当に好きになれよ。そうしたら、俺だっていつか――」
 
 
 自分でも思いがけない言葉だった。唇が開いた形のまま動かなくなる。いつか、の後、自分が何を言おうとしたのかも解らなかった。いつか、という未来の言葉を自分が使おうとしているのも意外だった。
 
 吾妻がぽかんと口を開いているのが見える。物を知らない子供のような表情をみた瞬間、猛烈な羞恥が沸いてきた。自分の耳が熱くなったのが解る。健一は唇を二三度戦慄かせた後、目の前の皿を持って立ち上がった。
 
 キッチンへと食い終わった皿を持って行く。その後ろを、慌てたように吾妻が小走りで付いてくる。
 
 
「健一、けんいち、僕も片付け手伝うよ」
 
 
 馬鹿な男だ。そうやって健一のご機嫌取りでもしているつもりなのだろうか。皿をシンクへと置きながら、吾妻を斜めに睨み付ける。吾妻は媚びるような情けない笑顔を浮かべて、健一を見下ろしていた。必死に両親に愛されようとする子供のような表情だ。その面を見ていると、どうしてだか酷く泣きたい気持ちになった。
 
 
「…食器洗うから、そこの布巾で拭いて」
 
 
 シンクの横に置かれた布巾を指さすと、吾妻の頬にぱっと笑みが咲いた。
 
 

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Published in catch3

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